2019年1月28日月曜日

『 キリスト教関連の書籍・アイテムの推奨販売店 』



1.英語のアイテム(品物)とグッズ(品物)の違い
 英語のアイテム(品物)とは、無差別的な大量消費・大量生産のグッズ(品物)とは違い、使用者にとって無二の価値と固有の意味を持った「貴重な逸品」を意味する。



2.アイテム(品物)も人の言葉と同じく、人に諸情報=刺激をもたらす
 アイテム(品物)は、単なる物質的存在に過ぎないが、神の御言葉である『聖書』とは違った別の諸情報=刺激をもたらしてくれる。例えば、古代イスラエル王国の最高祭司が、神殿の至聖所の中で神の依代(よりしろ)である「契約の箱」と、その中の「三種の神器」=「十戒石版・アロンの杖・マナの壺」という「聖なるアイテム」(品物)を目撃した時、その心は、神に対する畏怖と愛と希望で満たされたことだろう。



3.物事の善し悪しを吟味する必要性と義務
 敬虔な信仰生活を全うしようとするキリスト者は、『聖書』を買い求めるに当たっても、『聖書』編纂の歴史を学び、改竄されていない真の『聖書』から学ぶ必要性と義務があリ、また、信仰生活を高め、堅める、その他の「貴重な逸品」も『聖書』と同じように吟味する必要性と義務がある。つまり、キリスト者は、自己の肉体的な感覚器官=視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚+無意識から入ってくる諸情報=刺激に対して常に警戒して注意をはらい、諸情報=刺激の善し悪しを常に吟味しなければならない。そして、『聖書』に書いてある「最重要の戒め」に従い、自己の論理的な思考力・物事に取り組む情熱等の感情・目標を達成する強い意志・体験から得た知恵・具体的な行動力を尽くして、生ける神である主イエス・キリストを愛さなければならない。



4.『聖書』に書いてある「最重要の戒め」
申命記 6: 5
『心(思考)を尽くし、精神(意志)を尽くし、力(行動)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

申命記10:12-13
『イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を畏れ、主のすべての道に従って歩み、主を愛し、心(思考)を尽くし、精神(意志)を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、今日、あなたに命じる主の命令と主の掟とを守ることである。』

マタイ22:37-38
『(パリサイ人たちからの「大切な戒めはどれか?」という質問に)イエスは彼に言われた。「心(思考)を尽くし、思い(感情)を尽くし、知力(知性・知恵)を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 これが大切な第一の戒めです。』

マルコ12:10
『(イエスは答えられた。)心(思考)を尽くし、思い(感情)を尽くし、知性(知恵)を尽くし、力(行動)を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

ルカ10:27
『(ある律法の専門家がイエスの質問に答えて、律法の書に書いてある事を言った。)「心(思考)を尽くし、思い(感情)を尽くし、力(行動)を尽くし、知性(知恵)を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。』




5.『聖書』編纂の歴史⇒ http://www.bible-jp.com/his/history.html

(1)神の御言葉に忠実な『聖書』の系譜

 A.TR聖書=Textus Receptus=テクストゥス・レセプトゥス聖書(1516年)・・・オランダ人のデシデリウス・エラスムス(1469頃~1536)による「ギリシャ語の本文」に基づくギリシャ語の聖書で、1516年にスイスのバーゼルで印刷された。
      
 B.「ルター訳聖書」(1522~1534)・・・ドイツ人のマルティン・ルター(1483~1546)は、ギリシャ語のTR聖書に基づくドイツ語の「ルター訳聖書」(1522~1534)を出版した。従来のドイツ語聖書は「ラテン語ウルガタ聖書」(405年)のドイツ語訳であったが、ルターはギリシャ語のTR聖書をドイツ語に翻訳した。更に「ヘブル語の写本」を求めてTR聖書を検証しながら「旧約聖書」をドイツ語に翻訳し、「ルター訳聖書」を1534年に完成させた。
      
 C.KJV聖書=King James Version=欽定訳聖書(1611年)・・・英国王ヘンリー8世(1491~1547)は、自己の離婚を禁止したローマ・カトリック教会ローマ教皇パウルス3世(1468~1549)と対立して破門された結果、1534年に首長法=国王至上法を英国議会で制定させ、ローマ教皇にかわって英国王を教会の首長とする宗教改革を断行し、英国国教会を創始した。この後、欽定訳の「大聖書」=The Great Bible(1539年)英国国教会の公認聖書とした。ヘンリー8世の長男等4人が英国王に即位した後、ジェームズ1世(1566~1625)が1603年に英国王に即位した。これら諸王による英国統治の間、ウィリアム・ウィッティンガム(1524~1579)等の宗教改革者たちは、スイス・ジュネーヴ大学を創立した宗教改革の神学者ジャン・カルヴァン(1509~1564)を頼ってジュネーヴに亡命し、これら避難民たちによって出版された「ジュネーヴ聖書」(1560年「旧約聖書」出版、1576年「新約聖書」出版)を英国人に広めた。この結果、ローマ・カトリック教会の虚偽の教理・祭儀・制度の悪弊を取り除いて英国国教会を清めることを目的とするピューリタン(清教徒)英国国教会の中に増大した。そして、オックスフォードにあるコーパス・クリスティ大学の学長ジョン・レイノルズ(1549~1607)神学博士は1604年、ピューリタンを代表してジェームズ1世に、ローマ・カトリック教会「ラテン語ウルガタ聖書」(405年)の強い影響を受けた英国国教会公認の「大聖書」(同上)とは異なる新しい英語聖書の編纂を提案した。さらに、英国国教会の聖職者たち千人も、ジェームズ1世に請願した結果、ジェームズ1世の援助を得た54人~48人の聖書学者は、信仰者による「ジュネー聖書」(同上)英国国教会の司教による「ビショップ聖書」(1568年)など宗教改革を推進するプロテスタント教会系の英訳聖書と、「リームズ・ドゥエー聖書」(1582年「新約聖書」出版、1610年「旧約聖書」出版)など宗教改革を弾圧するローマ・カトリック教会系の英訳聖書が、約10種類も、1500年代~1600年代初頭に相次いで出版された社会状況の中、ギリシャ語のTR聖書を英語に翻訳し、1611年にKJV聖書を出版した。KJV聖書は、英国王ジェームズ1世の援助の下に出版されたので欽定訳聖書と呼ばれ、現在に至るまでの幾多の英訳聖書の頂点に立つ。
      
 D.その他に、TR聖書を日本語の文語体に翻訳した「明治元訳聖書」(1887年)「新契約聖書」(1928年)「TR日本語訳 新約聖書」(=「新契約聖書」の復刻版2012年)などがある。



(2)神の御言葉を歪曲した箇所の多い『聖書』の系譜

 A.ギリシャ語「旧約聖書」「七十人訳聖書」(ラテン語:セプトゥアギンタ)は、「アレクサンドリア写本」(1627年発見)と同じで、主イエスと使徒たちの時代には存在しなかった。また、主イエスと使徒たちの読んだ「旧約聖書」は、ヘブル語で記されていた。
      
 B.オリゲネス(184~253)は、改訂版「七十人訳聖書」を自作した。また、ギリシャ語「旧約聖書」「ヘクサプラ」(245年)と同様に「新約聖書」をも自作した。オリゲネスは、マケドニア人・ギリシャ人・ユダヤ人が密集していたエジプトの学術都市アレクサンドリア出身でユダヤ人の可能性もある。ギリシャ哲学者プラトン(前427~前347)に傾倒した。
      
 C.「シナイ写本」「バチカン写本」は、紀元331年以降にエウセビウス(263頃~339)によりローマ皇帝コンスタンティヌス1世(272~337)のために作られた50冊のギリシャ語聖書のうち現存する2つの写本である。
      
 D.ヒエロニムス(347頃~420)による「ラテン語ウルガタ聖書」(405年)・・・ヒエロニムスは、286年にローマ帝国を東西に区分して統治したローマ皇帝ディオクレティアヌス(244~311)と同じダルマティア属州(アドリア海に面したバルカン半島の中部)の出身で、ヘブル語等の多言語に精通していた。ローマ教皇ダマスス1世(305頃~384)は383年頃、ヒエロニムスに、「古ラテン語」聖書の改訂版を作るよう委託した。ヒエロニムスは、初めに「新約聖書」の四福音書を「ギリシャ語テキスト」と照合して誤っている部分を訂正し、他の新約文書は、そのまま古ラテン語訳を用いた。次に「旧約聖書」に取り組み、ギリシャ語七十人訳聖書」オリゲネスのギリシャ語「ヘクサプラ」(245年)をラテン語に翻訳し、「古ラテン語」の「旧約聖書」の改訂を終え、ローマ・カトリック教会で公式に用いる「ラテン語ウルガタ聖書」(同上)を編纂した。
      ↓
 E.ローマ帝国の東西分裂(395年)と西ローマ帝国の滅亡(476年)を経て、東方正教会(ギリシャ語聖書)ローマ・カトリック教会(ラテン語聖書)に次第に分裂して行った。東方正教会ではギリシャ語のTR聖書=テクストゥス・レセプトゥス聖書を用いた。
      
 F.RV聖書=Revised Version=改訂版聖書・・・使徒パウロの時代から存在した聖書改竄者たち(第2コリント2:17)によるギリシャ語「バチカン写本」(1475年バチカン図書館蔵書)ギリシャ語「アレクサンドリア写本」(1627年発見、従来の「七十人訳聖書」と同じ)ギリシャ語「シナイ写本」(1844年発見)に基づく、神の御言葉を歪曲した箇所の多い聖書である。(1880年「新約聖書」出版、1884年「旧約聖書」出版、英国)
      
 G.ディスペンセーショナリズム(虚偽の時代区分と艱難前携挙説)を創作した英国の神学者ジョン・ネルスン・ダービ(1800~1882)、また、交霊会で悪魔に憑かれた英国の神学者ブルーク・フォス・ウェストコット(1825~1901)、同じくフェントン・ジョン・アンソニー・ホート(1828~1892)たちは、悪魔と感応したグノーシス主義等のオカルトの欺瞞教理・魔術・神智学・交霊会といった虚偽の教理と邪悪な祭儀を、聖書の翻訳と注釈の中に採り入れ、聖書を改竄した。
      ↓
 H.『古い写本ほど正しい』という愚かな誤謬に基づく聖書群
 a.ネストレ・アーラント=Nestle-Aland=ネストレ・アーラント版の「新約聖書」・・・ギリシア語「新約聖書テキスト」の「Novum Testamentum Graece」(ラテン語版1898年)を、ドイツ人のエベルハルト・ネストレ(1851~1913)クルト・アーラント(1915~1994)が校訂と再校訂したため、ネストレ・アーラント版の「新約聖書」と呼ばれる。使徒パウロの時代から「悪魔の霊感を受けた者」がいたにも関わらず、『古い写本ほど正しい』という愚かな誤謬に陥ってきた。(1913年「NA1」-初版-出版、ドイツ)

 b.UBS聖書=United Bible Societies=聖書協会世界連盟の聖書・・・1946年に英国ロンドン南部のヘイワーズ・ヒースに集まった13の聖書協会に始まる、世界各国の聖書協会から成る世界連盟の監修した聖書をUBS聖書と称する。聖書の調査研究・監修出版において「特定の資金スポンサー」の邪悪な意向=聖句解釈に左右されてきた。
      
 I.ヘブル語の「死海写本」(1946~1947年発見)にある「イザヤ書」は、ヘブル語の「マソラ本文」と合致する。「マソラ本文」とは、発音を補助するための母音符号の付いたヘブル語の「旧約聖書」を指す。なお、極端な禁欲主義のユダヤ教カルトのエッセネ派による写本で、「イザヤ書」以外には神の御言葉を歪曲した教理を記した。
      ↓
 J.現代訳の聖書群の一部事例
  NASV聖書=New American Standard Version=新アメリカ標準訳聖書(1963年「新約聖書」出版、1971年「旧約聖書」出版、米国)
  NIV聖書=New International Version=新国際版聖書(1973年「新約聖書」出版、1978年「旧約聖書」出版、米国)
  NKJV聖書=New King James Version=新ジェイムズ王訳聖書(1982年出版、米国)
  NRSV聖書=New Revised Standard Version=新改訂標準訳聖書(1989年出版、米国)
  ESV聖書=English Standard Version=英語標準訳聖書(2001年出版、米国)
  HCSV聖書= Holman Christian Standard Version=ホルマン・クリスチャン・スタンダード聖書(2004年出版、米国)
  新改訳聖書(1965年「新約聖書」出版、1970年「旧約聖書」出版、日本)
  共同訳聖書(1975年出版、日本)
  新共同訳聖書(1987年出版、日本)



(3)結論=幾多の「ダービ訳聖書」「ウェスコット・ホート訳聖書」に関わらない事
 ジョン・ネルスン・ダービ訳聖書、ネストレ・アーラント版の「新約聖書」エホバの証人の、ものみの塔聖書冊子協会が出版したNWT聖書=New World Translation of the Holy Scriptures=新世界訳聖書(1950年「新約聖書」出版、1961年出版、米国。1982年出版、日本)といった幾多の「ダービ訳聖書」「ウェストコット・ホート訳聖書」は、どれも邪悪に改竄され、意図的に誤訳された。つまり、ディスペンセーショナリズム(虚偽の時代区分と艱難前携挙説)を創作した英国の神学者ジョン・ネルスン・ダービ(1800~1882)に惑わされた聖書、また、交霊会で悪魔に憑かれた英国の神学者ブルーク・フォス・ウェストコット(1825~1901)、同じくフェントン・ジョン・アンソニー・ホート(1828~1892)が関与した幾多の「ダービ訳聖書」※1「ウェストコット・ホート訳聖書」※2には関わるべきではない。
※1 http://tunobue.chips.jp/darby_bible.htm
※2 http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda3/westcothort.htm




6.キリスト教関連の書籍・アイテムの推奨販売店

(株)ミルトス⇒ イスラエル・ユダヤ文化に関する書籍・アイテムの販売(ヘブル語の語学書籍を中心とする販売店)
  http://myrtos.co.jp/sitemap.php


(宗)ドン・ボスコ社⇒ ローマ・カトリック教会のサレジオ会によるローマ・カトリック教会の書籍・アイテムの販売(イタリア直輸入製品販売店)
  http://www.donboscosha.com/


(宗)女子パウロ会⇒ ローマ・カトリック教会の女子パウロ会(女子修道院)による書籍・アイテムの販売(イタリア直輸入製品販売店)
  https://shop-pauline.jp/?mode=f5


(宗)日本ハリストス正教会教団(ロシア正教会・ニコライ堂)⇒ 東方正教会の書籍・アイテムの販売(乳香などの消耗品取扱店)
  http://nikolaido.org/


(株)教文館 エインカレム⇒ キリスト教の諸宗派の書籍・アイテムの販売(多彩な祭具を幅広く網羅した大型販売店)
  https://www.kyobunkwan.co.jp/ein-karem/about


(社)アイオンド ユニヴァーシティ オンラインショップ⇒ ユダヤ教・キリスト教の諸宗派の祭服・祭具の販売(国内唯一のメノーラー取扱店)
  http://www.iond-univ.org/os/


(有)友愛書房⇒ ユダヤ教・キリスト教の諸宗派に関する日本国と諸外国の古書籍・古文献・美術書の販売(キリスト教書籍の専門店)
  http://yuai.jimbou.net/catalog/index.php


(任)エターナル・ライフ・ミニストリーズ⇒ ギリシャ語の聖書本文TR(テクストゥス・レセプトゥス)から翻訳された、改竄されていない本当の『新約聖書』の販売(『TR新約聖書』の専門店)
  http://www.bible-jp.com/ss/snt.html





公開2019(平成31)年1月28日(月)19:23
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2018年3月23日金曜日

『 エクソシストの現状認識 』



【 1 】キリスト教のカトリック教会の「エクソシスト」

(1)悪魔・悪霊を祓う神の御業(みわざ)
「エクソシスト」とは、悪魔・悪霊に取り憑かれた人の心身から悪魔・悪霊を祓い、追い出し、本来の健康状態の回復に努める、キリスト教のカトリック教会の「悪魔祓い師」をいう。人に取り憑いた悪魔・悪霊を祓う「エクソシスト」の不思議な霊力は、神に由来する。日本国内のカトリック教会は、「エクソシスト」を「祓魔師」(ふつまし)と訳した。 

(2)ローマ・カトリック教会に対する評価
カトリック教会の雄であるローマ・カトリック教会の「エクソシスト」に対する知見を深めた結果、悪魔サタンに2千年間も攻撃されてきたカトリック教会に対する先入観・偏見・誤解を自覚して反省し、カトリック教会を全面的に否定する愚行を止め、部分的に肯定した。また、今後のローマ・カトリック教会に対する神の恩寵の消長を見守りながら、その有為な「エクソシスト」の更なる活躍を望む。但し、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』の聖句を忘れてはならないと思う。即ち、黙示録17:3-5『ひとりの女』『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』、黙示録17:18『あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。』、黙示録18:4『わが民よ。その女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。』と書いてある。つまり、「女」とは、カトリック教会で、「大きな都」とは、ローマである。そして、この「淫らな母」の娘が、プロテスタント教会である以上、旧教のカトリック教会と新教のプロテスタント教会の教理と祭儀は、いずれも、「形骸化→ 世俗化→ 異端化→ 悪魔化」の過程を経た部分が非常に多いことを承知しておかねばならない。

(3)『聖書』の真理を明確に認識する「エクソシスト」
悪魔・悪霊に憑依される「精神的・霊的な扉」を開く人の行為は、タロット・カードなどの占いを受け、アルコール薬物中毒・小児性愛・児童ポルノなどの悪習慣を続け、カルト信仰・邪悪思想を抱き、憎悪心などの否定的感情に支配されて行う詐欺・強盗・強姦・殺人等の凶悪犯罪であるが、これとは反対に、心の清らかな聖人君子、教会等の聖職者、経済的影響力のある国際金融資本家、政治・行政を差配する政治家・政府高官も、悪魔・悪霊の霊的領土の拡大のために悪魔・悪霊に執拗に狙われ続け、利己的で金銭欲の強い精神状態に陥った時に憑依されてしまう。このような事情経緯で悪魔・悪霊に取り憑かれてしまった多くの人々と直に接触する「エクソシスト」は、『聖書』の真理を明確に認識するようになる。なぜなら、悪魔・悪霊に取り憑かれた人々の示す反応や、そのメッセージを通じて、人智の及ばない『聖書』の「行間」までを理解できるようになるからだ。例えば、「エクソシスト」のガブリエーレ・アモルト神父(享年91歳)の記事にある彼の「現状認識」は、霊的に鋭敏で正確だ。また、悪魔・悪霊のメッセージにある『地獄の最高監督者は、神ではなく聖母マリアだ。また、「地獄は、時間が止まっている」という意味で永遠だ』という情報は、様々な未知現象の研究結果と符合する。但し、このように判断した指標は、主観的で霊的であるが故に、『「現状認識」の正誤の判断は、各人の精神レベルに応ずる』としか言いようがない。



【 2 】「エクソシスト」のガブリエーレ・アモルト神父(享年91歳)の記事

(1)「エクソシスト」の報道
「悪魔払いを7万回」世界的エクソシストの神父が死去。ハリポタ批判などで物議( 吉川慧 / The Huffington Post / 2016年9月21日 )  エクソシスト(悪魔祓い師)として世界的に知られたガブリエーレ・アモルト神父が死去した。91歳だった。2016年9月17日、ニューヨークタイムズなどが報じた。 ローマのリハビリ施設「サンタルチア財団」によると、アモルト神父は最近体調が悪化。療養先だったローマの病院で亡くなった。財団によると、長年にわたって呼吸器系疾患を患っていたという。 アモルト神父は1954年に司祭に任じられた後、1986年からローマ教区でエクソシストとして勤務。エクソシストの第一人者として知られたカンディド・アマンティーニ司祭に師事し、1990年には「国際エクソシスト協会」(AIE)を設立。2000年に引退するまで会長を務めた。 アモルト神父は、「生涯に7万回以上のエクソシズム(悪魔祓い)を行った」と主張。これまでにエクソシズムに関する多くの著作を発表し、世界的に知られていた。 アモルト神父は、社会的な出来事について自らの見解を発表することもあった。2015年にはイスラム過激派テロ組織IS(イスラム国)について「ISはサタンだ。まずは精神的な領域で事態は起こり、そして地球上に顕現するだろう」と表明。その上で、「悪魔は、政治的なもの、文化的なもの、宗教的なもの、様々な方向から、人々を偽りでダマす。私がキリスト教徒として、獣(悪魔に支配された政府)と精神的に戦う」と、Facebookに投稿した。 その一方で、極端な物言いで物議をかもすこともあった。 人気小説「ハリー・ポッター」シリーズを「子供たちに黒魔術を信じ込ませるもの」として非難。 古代インド発祥の「ヨーガ」については、人々をヒンドゥー主義へと誘う「悪の源」と批判したこともあった。 また、インタビューの中で「ナチスの全員が悪魔に取り憑かれていたと確信している。ヒトラーやスターリンも悪魔に取り憑かれていた」と発言したこともあった。 悪魔を祓う「エクソシスト」とは?  エクソシストには、教区司教の認可を受けた神父だけが就ける。エクソシズムは厳密に定められた儀式に則って行われ、「悪魔に憑かれた者」に聖水をかけ、十字架にキスをさせて悪魔を追い出す。その際、「悪魔よ、我は汝に命じる」「悪魔よ、帰れ」などの決まり文句がある。 新約聖書の福音書では、悪魔・悪霊は「誘惑する者」「憑依する者」「病気の原因」「うそをつく者」「神の御国の敵対者」として現れ、悪魔・悪霊を追い出すのは、神の力によるものとしている。 新約聖書には、キリストが悪魔祓いをした記述もある。 1999年にローマ教皇庁は、1614年に定めたエクソシズムの儀式を初めて改訂。エクソシストに精神科医などと連絡を密にすることを義務づけ、医学的な治療を必要とする患者と「悪魔に取り憑かれた」と思い込んでいる人を区別するよう定めた。

(2)「エクソシスト」の映画
『悪魔祓い、聖なる儀式』(イタリヤ語: LIBERAMI )は、2016年9月7日に公開されたフランス・イタリヤ合作のドキュメンタリー映画だ。日本では2017年11月18日に公開された。この映画では「悪魔祓い」の派手なシーンを収録したが、大抵の「悪魔祓い」は、内面的で眼に見えない精神的・霊的な「浄化」「清め」であるため、悪魔・悪霊に取り憑かれた当事者と、これを祓う「エクソシスト」の外面的な態度は、至って平穏で、静かに祈り続けている時間が最も長い。 また、ガブリエーレ・アモルト神父の悪魔祓いの生涯を記録したウィリアム・フリードキン監督のドキュメンタリー映画『The Devil and Father Amorth / 悪魔とアモルト神父』2018年4月20日に米国で公開された。 参照: http://www.cetera.co.jp/liberami/





【 3 】悪魔パスクワレ・ドゥ・カパリーノのメッセージ(出典:5ch「心と宗教」偽幻視者被害者スレッド 2001/07/11(水) 03:33 )校正・編集済み

■1.祓魔式(エクソシズム)1972年1月
1972年1月、スイスで行われたローマ・カトリック教会の祓魔師による祓魔式(エクソシズム)の最中、生前はフランス人の画家であったが死後に地獄の悪魔と化したパスクワレ・ドゥ・カパリーノ(Psquale de Capalino)が、ドイツ語を話す21歳のスイス人男性に取り憑いてメッセージを残した。 なお、悪魔を名乗ったパスクワレ・ドゥ・カパリーノは、1806年4月13日にパリで死亡した実在の人物であった。


■2.悪魔の告白
私は生前、何ごとも信じなかった。だから、こんな有様、悪魔として知られる最低の生き物になった。私は悪魔だが、低級ではなく高級な悪魔だ。私は芸術家だった。ヴァレンチオに並ぶ画家だった。私に絵描きを教えたのは奴(悪魔)だ。私はパリに絵を習いに行き、そこで死んだ。私は悪魔を信じていたが、悪魔がこれほど人間に大きな影響を与えているとは知らなかった。私は無神論者だったが、フリーメイソンではなかった。こんな有様になったのは、宗教生活を軽く見ていたからだ。私は「神は厳しくはない」と思っていたが、まったくの誤解だった。誤解のおかげで、こんな惨めな状態にいる。これが1000年でも3000年でもなく永遠に続く。終わりはない。ここは時間の止まっている世界。永遠、永遠なのだ。人は永遠について考えないが、毎日、毎日、それは近づいてくる。おまえらの体は毎日少しづつ死んでいる。目には見えなくとも、おまえらは毎日年をとっていく。月日を重ねれば目に見えてくる。おまえらは確実に老いている。神なしに生きたとしても、ある程度、宗教的になれるかもしれないが、完全ではない。だが、「最高者」は、完全を求めている。これだけは言いたい。私は好き好んで、こんな話をしているのではない。それは信じてよい。これを話すのは非常につらい。おまえらが天国の栄光に入る助けになるからだ。それが私を憎悪でいっぱいにする。他の者たちが光を歓び、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』と楽しそうに歌う姿には我慢ならない。私がこんなことを言わなくてはならないのは、“最高の女王”(聖母マリア)が、そうさせているからだ。これは苦しみだ。おまえらに言いたいことがある。不信心な大衆・罪人・情欲を追い求める輩・人殺し・無宗教者のおまえら全員にだ。おまえらは信仰を真面目に考えるべきである。祈りに真剣になるがいい。おしゃべりではなく、祈りが世界を助けてきた。おしゃべりは実を結ばない。私のいうことを信じてよい。「祈りが多くの実を結ぶ」というのは、おまえたちが祈るときに、我々が、それを感じるからだ。それが分かるのは、祈りによって、我々が、かき回されるからだ。我々は非常に神経質になる。世界の人々は、救われるのに十分祈っていない。世界の人々に対する罰は、刻々近づいているというのに。それは毎日近づいている。神としての聖霊(イエズスの霊という意味だけではない)を信じない者は、呪われ、追い出され、諸聖人の交わりから除かれる。死んだ不信者のことを言っているのだ。私は信じなかった。そして、今は永遠に呪われている。ああ、僅かでも希望があれば、3000年でもいい! この地獄を出られるなら300万年でもいい。だが、それは、かなわぬことなのだ! 神は地球を毎日祝福している。どの生き物も祝福している。だから呼吸ができる。すべてが自動的に行われていると思うな。おまえらの派手な服装、巨大なビルディング、好き勝手なセックス、ポルノ雑誌や汚れた販売所、我々は、それをたっぷり使ってきた。それを売っている人間どもは、悪魔の仕事をしている。「そんなに悪いことではない」という人間には「とんでもない」と言っておく。モダニストの司祭たち、やつらは、みな地獄で硫黄と火で終わる。私は司祭たちに会っているが、今後は、もっと大勢の司祭たちと会うだろう。一番苦しむのがやつらだ。やつらには、それだけ大きな責任があるということだ。やつらの一部は、聖変化のときに、イエズスの現存を信じなかったので、ここに来た。だが、彼らは毎日聖変化された主を手にしているのだ。主を天にかかげているのだ。[「聖変化」とは、「全実体変化」とも表現され、ミサで用いたパンが主イエズスの御体の御肉に、ぶどう酒が主イエズスの御血に霊的に変化し、主のご臨在を実感する神秘体験をいう] そのような“力ある出来事”が現に起きていることを考えもしない者たちがいる。彼らは祭壇の上に神秘なる主が現存していることを信じない。主は、いたいと思えば、そこにいる。誰をも愛で囲おうとしている。おまえらを天国に導きたいと思っている。なのに、おまえらは気にさえ留めていない。地上にもう一度戻れるなら、私は神が愛と呼ぶものを、おまえらに示して、彼に仕えるだろう。だが、おまえらは何と恩知らずな者たちであろう! 正しくありたいと思うのなら、それを信じたほうがよい。おまえらの刑罰は恐ろしいものになるからだ。おまえらは、決して善行を自慢してはならない。言葉をひけらかしてはならない。他人の注意を引こうとしてはならない。それは、してはならぬことなのだ! なんと謙遜は大切であろう。これは常にプライドに打ち勝っている。永遠にそうあり続けるであろう。謙遜は力強い。おまえらの主イエズス・キリストは、全世界で最も謙遜な御者。おまえら司祭たちに私は、はっきりいう。おまえらは、もっと祈るべきである。特に、「ロザリオの祈り」15連すべてをだ。毎日だ。それ以外、どうして恵みを期待できようか。[「ロザリオの祈り」とは、カトリック教会で祈祷用の数珠を手に持ち、聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える。] これは恐るべき拷問だ。こんなことをみな、おまえらに言わなきゃならないからだ。ああ、喉がガラガラしてくる。私は、こんなことを言いたくはない。もうやめにしたい。だが、言わなきゃならんのだ。私は従順にこれを話さなければならない。それは、彼女(聖母マリア)がおまえらが思っている以上に力ある存在だからだ。彼女は、おまえらが知っている以上に愛に満ちている。おまえらが想像できる以上に助けてくれるのだ。彼(イエズス)は、彼女(聖母マリア)がいかなるものかをおまえらに語るだろう。彼は彼女を知っている。彼は彼女の中に生き、彼女は彼の中に生きているのだ。彼の心は彼女の心、彼女の心は彼の心なのだ。だが、主の母は一番苦しまれた! 私は、こんなことを言いたくはないが、言わなければならない。そうだ、それが私の喉を締め付ける。私は、このすべてを言わなくてはならない。本当に言いたくない。反対する者、愚弄する者、悪魔的なもの全員が2千年間イエズスを取り巻いている。彼らはイエズスを尊敬していないが、それでも彼は神なのだ。彼は今も生きている。彼は死んで、殉教した体を残したままで、3日目に甦り、救いを与えたからだ。人類にとっての救いだ。だが、彼らは、それを受け取らなかった。彼は愛を与えたが、彼らは愛を返すことなく、憎んだ。彼らは彼を呪い、追い出した。彼が好きではないのだ。おまえら人間どもよ。「最高者」を愛せ! こんなことを言うのは、とても苦しい。おまえらには想像もできんだろう。もう一つ言おう。おまえらが地上で愛するもの。それは消えてなくなるものだ。ただ、「最高者」の愛だけが永遠に残る。人間どもは、あれやこれやのものを持って、幸せだと思い込んでいる。ああ、車があって、仕事があれば大喜びさ。いい生活をしていれば。楽しくなって祝福されていると思い込む。バカバカしいぞ。そんなのは嘘なのだ。本当の幸せ、本当の祝福は、信仰から来る。それは永遠に満たされるものなのだ。そうすれば、良い人生を終えたときに永遠の至福に入れる。人間どもは神について真面目に考えてはいない。彼らは神を地上のことを気にかけぬ亡霊か何かのように思い描いている。それは誤りだ。神は日夜、民の間におられる。神は、どこにでもいる。おまえらが罪を犯し、盗みを働き、生殖に対して罪を犯している場にもだ。これは「最高者」が、お嫌いになることなのだ。彼は、いと清き、いと恵み深き方であられる。おまえらは私を信じてよい。私がこれを言わなければならないときには、大きな苦しみになる。苦しみ、恐ろしい苦しみだ。私は、むしろ、こう言いたい。「霊魂は呪われよ。何故あいつらが私らより恵まれているのか。罪の中でめくらになるがいい。どんなことでも盲目になるがいい」と。おまえらが神のために働けば、それを終えたときには、おまえらは永遠の至福をもらうだろう。その時には、「最高者」の大いなる愛の愛を知り、味わえる。神は、どこにでもいる。おまえらが純潔にそむく罪を犯している場所でも、殺している場所でも。神は忍耐して見ているが、いつか地上に怒りを注ぐだろう。そうなるのは、「神は死んだ」と、おまえらが叫ぶときだ。だが、神は生きている。おまえらは、それを見る。女王は、天国にいるし、地上にもいる。イエズスが地上と天国の両方にいられるのと同じだ。それは大いなる奥義だ。理解している者は多くない。司祭の中には、これを理解して者もいるだろう。だが、司祭さえ、十分には理解していない。なぜなら、彼らは十分に謙虚ではないからだ。司祭は、神の恩寵に対して『はい』ということが少ない。どんな恵みの神殿(聖地・奇跡の場・恩寵の場)も、馬鹿にする司祭がいる。彼ら司祭は信者が巡礼をするのを禁止する。だが、そうすることによって彼ら司祭は大きなものを失う。彼ら司祭は苦しまなければならない。あのような恩寵の場から人々を遠ざけるからだ。恩寵の場で信者の心にそそがれる大量の恵みは、とても言葉にはできない。


■3.神の恵み
神の恵みは、人間の上を流れる大河のようだ。人間が信心をもっていればだが。神は恵みを与える。おまえら司祭には考えられもしない恵みをだ。だが、おまえら司祭は神のみ心を求めていなければならない。それを願っていなければならない。祈りをしろ。神は恵みをお与えになるだろう。夢にも思わぬような恵みをだ。他人を羨むな。神は見ている。自分が生きているのを見ろ。おまえらには食べ物が十分ある。おまえらが持っているどんなものも、神からきている。おまえらが自分を創造したのではない。体の内で心臓を打たせ始めたのは、おまえらの親ではない。神がそうさせたのだ。恵みなくして天国はない。慈悲の恵みがなければならない。許しの恵みが。イエズスが十字架で死んだ時に、おまえらは最強の恵みを得た。神の王国を求めろ。祈れ。人間どもは神に向かっていない。彼らは神を否定し、馬鹿にしている。私は、そんなことさえしなかった。私は気まぐれな生き方をしていただけだ。なのに、今では永遠に呪われている。ああ、苦しい。拷問だ。永遠の苦しみだ。神は何ごとも真剣になされる。我々がおまえらを誘惑するときに抵抗する力が自分のものだと考えるな。いや、それは違う。それは全能者の力なのだ。清き全能者の聖霊の力なのだ。おまえらが神を崇めるときに、神は恵みを下さる。神は神の愛でおまえらを点火する。神は神秘家の奥義へおまえらを導く。それは、おまらには見えない未知なるものだ。神は、おまえらが夢にも見なかった恵みをくれるだろう。恵みは、ドウェーライムス聖書の一字一句への信仰を深めることに始まる。過去の伝統への信仰もだ。それから、神がおまえらを小さき道具として使うときに、不思議な偶然の一致と出来事が起こる。寂しさが来るだろう。それは従順の試験だ。あるいは、他人を救うのに神が必要とされる「とげ」が来るだろう。その後に素晴らしいものが来る。バラだ。それは人生の大転換だ。いい例が、全能者が「天使の中の天使」と呼ぶ聖ヨゼフだ。9ヶ月にわたる激しい頭痛が彼の最後の苦しみだった。だが、彼は毎日天国を見、天使らによって慰められた。苦しみの殉教者は、喜び以外何も感じない。[「聖ヨゼフ」は、主イエズスの清き父にして、童貞マリアの浄配] 鉄板の上で生きたまま焼き殺された聖ローレンスがいい例だ。彼は「こっちは終わった。ひっくり返せ」と言った。[「聖ローレンス」は、258年にシクストゥス2世らと共にローマ皇帝ウァレリアヌスの迫害にあった殉教者の一人で、後に風の守護聖人として崇められた。] それから、火刑にされながら「イエズスのために苦しむのは、なんと素晴らしい」と叫んだ聖アグネスもいた。[聖アグネス(291~304)は、ローマの上流階級のキリスト教徒の家庭に生まれた聡明な美少女。政府高官の息子との結婚を断ったことで迫害され、13歳で殉教した。] 何よりも、神の恵みが、神の恵みの共贖者である、あの女(聖アグネス)から神への愛を強めた。おまえらに未知なるものが見えなくとも、おまえらは、それに取り囲まれている。守護天使がいい例だ。おまえらが守護天使に祈れば、天使は、我々からおまえらを守る。祈らなくとも、天使は、おまえらを守っている。おまえらを守るよう神から指令を受けている。天使が、おまえらを守るのは、彼ら天使が神を愛しているからだ。彼ら天使は、おまえらのような罪人とは比較にならない。彼ら天使は、神について、神の知恵について多くを知っている。彼ら天使には理解できる。どんな天使も一つ以上の言語をしゃべる。それは、天使が、どれほどの高さにいるか、神が、どれほどの力を与えているか、どれほど多くの賜物を与えているかによって決まる。だが、罪人が天国に行かないと、天使が一人で天国に戻る。そこで、彼ら天使は、神の正義を称える。本当は、おまえらの守護天使が、おまえを告発する証人になる。それと、おまえらが悪さをした他の霊魂の守護天使もいる。俺の言うことを信じろ。彼ら天使は、彼ら天使の訴えに対して全能の神に正義を求める。おまえらは、このことを心の底に叩き込むべきだ。それをよく考えろ。純粋な、利己心のない、抱擁的な愛、特別に天的な愛で、おまえらを愛してくれているものがいる。天使は、悪魔や危険と戦っていないときには、おまえらのために祈ってくれている。おまえらが眠っているときにもだ。天使は、我々悪魔がいるので、強力であるに相違ない。強力でなければ、サタンと我々悪魔と戦うことはできない。サタンは力強い。サタンは、おまえらの上に大いなる権力を揮っている。おまえら小さき人間どもに。そうとも、私は今ではサタンの軍団の一人なのだ。考えてみろ。醜悪な顔の、手が変形した黒い奴。地上に存在しないほどの憎しみがある。大きな火が、私の心の中で燃え盛っている。だが、愛の炎ではない。「ここ地獄で、おまえらに会いたい」という思いだ。だが、おまえらの守護天使は、おまえらを天国へ行かせたがっている。そうならなければ、天使は満足しない。地獄では他人への同情は存在しない。男は女を憎む。特に肉欲の罪によって地獄にいる男は女を憎む。女を通して地獄に来たからである。だが、女の罪だけではない。それは違う、男にも罪がある。女と一緒になって罪を犯したからだ。そうしてはならなかったのだ。愛が義人において完全であるように、地獄では憎悪は完全である。憎悪は我々の永遠の食料だ。終わりがない。


■4.悪魔は、霊魂ではなく体に取り憑く
私が今柔らかく喋っているのには理由がある。私は縛り上げられているのだ。「最高の女王」が私をそうしている。彼女が私のいうことに不興を感じれば、私は地獄に行かなくちゃならんのだ。最後には地獄に戻らなくてはならない。地獄には多くの地獄が存在する。それは、霊魂は、呪われた霊魂は、どれも、それ自身が地獄になっているからだ。各々は、それ自身の特別な苦しみを経験する。それら全部が合わさって、地獄全体をつくりだしている。その地獄の王が、ルシフェルだ。地獄には、どんな同情もない。生前、私は愛した。だが、愛したのは人間で、神を愛さなかった。神を先ず愛して、それから人間を愛さなければ、おまえらにはどんな天国も望めない。地上では、私は、どんな人間とも渡り合った。今でも人間の体にいる時にはうまくやれる。私は上手にやれる。私は「自分がサタンである」と彼ら人間にいいはしない。彼ら人間にばれない限りは。私は慎重にやる。私は光の天使にもなれる。それは私にとって難しいことではない。私は芸術家なのだ。聖母を刃物で襲うなど馬鹿らしい。(聖母マリアは、霊体であって肉体ではないため、刃物で傷つけることはできない。) 人間に取り憑いた悪魔が、そうしているのであり、人間がしているのではない。そうだ、そこには謎がある。私が人間の体の中にいる時には、食べ物を味わえる。自分が人間になったような気持ちを取り戻す。人間の体にいるときには苦痛を感じる。我々悪魔が取り憑くのは霊魂ではなく体だ。もしも、その人間が償いをするよう迫られているとすれば、彼女、天の后が監督しているのだ。彼女は、体に取り憑くどんな悪魔も命令に従わせる。彼女は自分の望むことをさせるのだ。彼女の望まないことは、我々にはできない。例えば、誰かに取り憑いて悪魔が従順でなければ、言われた通りのことをしていなければ、罰せられる。彼女に従った方がいい。もっとひどいことになるから。苦しみを増すなぞ馬鹿らしい。冗談について少し言っておきたい。冗談は全能者を愚弄することだ。冗談は呪いでもある。信仰者は冗談をいうべきではない。それは他人をあざけるだけのものだ。そんな人間は傲慢だ。彼ら人間はプライドが高い。冗談をいうことによって、おまえらは煉獄の深くへ落ちて行く。冗談を言ってはならない。全能の神は冗談を好まない。神は、まったく冗談を言わない。聖母が地上で、どんな生き方をしたか。彼女は、まったく冗談を言わなかった。イエズスが地上にいたときはどうだったか。俺は、そのときにはいなかったが、イエズスも冗談を言わなかったと信じる。笑っているのを知られたことがない。それは「自分がしたように生きろ」と、イエズスがおまえらに求めていることなのだ。神が、神のままで現れていれば、おまえたちは神に従うことはできなかった。神は、それほど純粋で、聖なる、義なるものなのだ。それで、人間をあがなうために、神は人間にならなければならなかった。イエズスは愛で燃え尽きた。おまえらがイエズスを愛せるように。だが、おまえらはイエズスを憎んでいる。正反対のことが起きたわけだ。償いは神が求めていることである。神は、おまえらが償うことを期待している。どれほどきれいで、無垢な者でも、神は償いを期待する。「犠牲の霊魂」と言われる者たちがそれだ。おまえらは聖フランシスコ・ザビエル(1506~1552、日本渡来のイエズス会士)のように、もっと苦しみを求めて神に祈らねばならない。心配するな。神はおまえらの日課の邪魔にならない程度の苦しみを与えるだけだ。神は、それから悪者の体から悪霊を清めるために、おまえらの恵みを使う。そうでなければ、どうして罪人が突然回心を起こすものか。イエズスは、未来の罪人全員に自由を与えたのではない。「イエズスのやったことのすべては、天国の門を開いた」と言うに尽きる。だが、それでも、純潔で罪のない者しか入ることは許されない。おまえらだって天国が神の敵ばかりで一杯になることを望まないだろう。ある霊魂が完徳に至ろうと力を尽くし、純潔だけを愛していれば、神は、その霊魂が自己犠牲の霊魂、罪の償いの霊魂になるのを望む。こんな霊魂は数少ない。彼らの自己犠牲と償いが全能者のみ前で求められているのは、地上世界に罪が増しているからだ。町のどこを歩いても罪だらけだ。罪がおまえらを待ち伏せしている。祈っていなければ、いつ罪に舞い戻るかわからない。そうなれば、我々悪魔がやって来て、おまえらを絶望で満たしてやる。我々は言う。『神は、おまえを二度と許さない。二度と。おまえが誠実ではないことをご存知だから。』 特に、第6戒(殺すなかれ)、第9戒(偽証するなかれ)、「純潔であれ」との戒めに背く罪、これによって、おまえらは簡単に絶望させられる。それは他人と一緒に罪に耽るからだ。その者が原因になって他人が裁かれる。その者が、別の霊魂が失われる原因になる。この連鎖には終わりがない。強迫観念、『包囲された憑依』現象について、はっきり言おう。悪魔が体に取り憑くのとは異なる。だが、聖母が許せば、悪魔は、その人間の体に近づく。悪魔は、それから働き出す。こうやってだ。悪魔は、そいつに悪意を注ぎ込む。そいつの意志に影響を与える。悪魔は己の憎しみと悪しき感覚を、直接、そいつの霊魂に注ぎ込む。そいつが犯罪行動を起こす前から、悪魔に注がれた悪意が周囲の人々との争いを引き起こす。我々は殺人さえ起こせるが、争いと議論を起こす方が多い。霊魂が敬虔であれば、悪魔の誘惑を克服するだろう。謙虚で柔和であれば、それも可能だ。こういう人間は、罪の償いの仕方を知っている。罪の償いについて、おまえらが語れるのは、自分のしてきたことを嘆き悲しむ時だけだ。優しい心とやり直す善意があれば、神は何度でもお赦しくださる。真実として悲しむ時のみ、罪の赦しが与えられる。我々は、はっきり言う。「懺悔する者の体に悪魔はいない」と。我々が誘惑していなければ、人は罪を犯さなかったことを覚えろ。罪を犯した人は、「包囲された憑依」現象によって誘惑されたのだ。この現象によって争いと議論に誘われた人間は「争い好きで、怒りやすいのだ」としか人は考えない。「悪霊どもが彼を包囲している」と言う人間はいない。なぜなら、それは、人の眼に見えない超自然現象だから。だが、悪霊に包囲されていなくても、神を汚す言葉を吐く者はいる。こんなやつらには決して悔い改めは起こらない。「哀れな奴ら」と言うだけだ。悪魔が体の内にいて完全に支配している時でも、その霊魂を誘惑することは、ほとんど不可能だ。霊魂が純潔で平和であれば、全く不可能だ。この場合、神を冒涜し、聖人や教会へ通う者たちを嘲る言葉を吐いているのは、悪魔自身だ。悪魔に憑依された霊魂にとっては、悪魔に憑依されたことが純粋な改悛あるいは罪の償いの行為になる。これは、今のような時代には、特に、全能者によって求められている。『包囲された憑依』にしろ『内的な憑依』にしろ、后は、すべてを正常に戻せる。彼女は霊魂と悪魔との間に大きな距離を置くこともできる。決まったときに、彼女は彼ら悪魔を、霊魂を試み、あるいは、試験するために、再び霊魂に近づけることもできる。すべてが彼女の手中にある。彼女は天の后だ。彼女は、その指令によって、地獄全体を足下に置いている。彼女が地獄を支配しているのだ。地上には、彼女が奇跡を働けることを信じない霊魂もいる。彼女が、おまえらのために神に嘆願してくれることを疑う者たちもいる。彼女を信用しないため、イエズスに直接祈る者もいる。だが、私は言う。「御子は、聖母マリアを信用しない霊魂に警告するだろう。御子は、聖母マリアがおまえらの母になり、おまえらの霊魂の試練を共有することを望まれているからだ」と。十字架につけられて死ぬときにイエズスは言われた。『見よ、あなたの母である』(ヨハネ19:27) 聖母マリアは、イエズスの弟子ヨハネの母であるのみならず、イエズスの弟子である、おまえらの母でもある。おまえらは今の邪悪な世界で聖母に対する愛が、どんなに必要か分からない。彼女は、地上にいたときと同じように侮辱されたままだ。彼ら人間は、彼女を母と呼ぶどころか、侮辱している。まるで天主が世界に、その母を与えなかったかのようにだ。おまえらは恩知らずだ。おまえらは親しみをもって彼女を母と呼ばない。だから、悪魔の、この私が、おまえらに言わなければならなくなる。永遠に呪われた、この私がだ! 私は真実を言わなければならない。おまえらが、すべきことを言わなければならない。おまえらは恥を知るべきだ。そうとも、恥を知れ。全能者と最高の元后の前で。悪魔に言われなきゃならんとは、お笑いだ。おまえらは元后への愛を感じることができないのか、自分から。お笑いだ。おまえらは皆めくらに違いない。 [カトリック教会では、聖母マリアを「元后(げんこう)哀れみの母」などと表現する] 元后が地上のどこかに出現すれば、でかい顔をした司祭・司教の奴らが現れる。彼ら司祭は、聖母出現を「嘘八百だ」とぬかすのだ。だが、わが愛する者たちよ、こんな世俗化は、我々悪魔のせいだけではない、おまえらにも罪がある。おまえらは、元后が、これらの恵みの場所で告げることを謙虚に信じなければならない。彼ら司祭が、これらの恵みの場所すべてを認めれば、世界はどんなに良くなるだろう。だが、哀れにも、全カトリック教会は今や暗黒の中にいる。教皇ではない他の者たちがだ。闇の中にいない司教らもいるが、少ない。闇の中にいない司祭らも非常に少ない。数えるほどだ。秘密結社フリーメイスンの者らは、邪悪な奴らで、聖母出現の恵みの場所を冒涜し破壊してきた。神学校や僧院のどんな聖職者・教師も、新しい聖母の出現を信じない。彼ら聖職者・教師は、これらの出現地を「嘘・迷信」と教え込むことによって、若者達を惑わしている。おまえら説教師たちは、「聖地など古臭い」と言う。だが、そう言わせているのは、我々悪魔だ。だが、「全能の神は、古臭い」とおまえらは思うか。いいや、神は今も天地創造のときと同じままだ。こんな高慢な思想が、「最高者」の愛する者たちの中に入る時に、おまえらが祈れば、「最高者」は、「こんな高慢な思想を捨てるように」と、おまえらに力を下さる。おまえらが聖母の出現などの不思議な出来事を変えようとするのは、高慢だからだ。神の恩寵の現れである神秘現象を「嘘・迷信・古臭い」と決めつける事は高慢だ。おまえらは謙虚でも柔和でもない。おまえらは高慢だ。おまえらは、あまりにも僭越過ぎる。だが、神の御子は謙虚だった。彼は「最高者」の御子でありながら、あれほどに苦しんだのだ。なぜ、彼のようになることを忘れたのか。おまえらは戯言ばかり言っている。


■5.神より罪を愛する司祭たち
おまえらは、我々悪魔についても説教しない。だが、我々は気にしない。おまえらが我々を信じなければ、勝負に勝っているのは我々だ。わかるか。勝負のすべてに勝っているのだ。自分を「頭脳優秀だ」と思っている司祭らもいる。彼ら司祭は「何でも知っている」と高慢になるから、信仰者の勧告を聞こうとしない。彼ら司祭が言っているのは戯言ばかりだ。「隣人を愛することによって神を愛する」と言うような、こんなやり方を続けていれば、それは高慢だ。おまえらは謙虚ではない。謙遜に立っていない。おまえらは高慢で僭越なのだ。私は、おまえらが自己犠牲を嫌っているのを知っている。それは難しい。だが、「最高者」の御子は苦しんだのだ。おまえらは彼よりも偉大なのか。しもべは、主人よりも優れてはいない。我々悪魔は、絶えず、おまえらに吹聴している。『なぜ自己犠牲を求めるのか。イエズスが、それをすべてしたのではないのか。2千年も前に、彼がすべてのために贖い、犠牲になった。だから、みな喜んで楽しんでいい』と。哀れな奴らは悪魔の囁きを信じて、人生を好きに生きる。僭越だ。だが、神は、年齢にかかわらず、罪の償いをする霊魂を求めている。おまえら、司祭たちよ! 説教するときには、おまえらは宗教と教義から逸脱してはならない。おまえらは金銭欲・社会運動・帰省・学校問題・テレビ番組・スポーツのことばかりを話す。軽薄な司祭らは、神よりも人に受けようとする。ミサ聖祭のときでさえ、おまえらは神にではなく人に受けようとする。祭壇に立つときに、神を思うことすらしない司祭もいる。彼ら司祭が見るのは人間だ。人間を支配することばかりを考えている。司祭たちよ、私はおまえらに言う。おまえらは、自己犠牲とそれに伴うものを、もはや理解しなくなっている。おまえらは馬鹿だ。間抜けな奴らだ。めくらに生まれついたのだ。神の御子は言った。『あなた方は見ても見ない。聞いても聞かない』(マタイ13:13-15)と。この驚くべき言葉は、今も驚くほど真実だ。そのとおりになっている。おまえらは耳と目をふさいで、信仰を滅ぼしている。それが、どこにでも広がっている。我々には、人々に僧院と修道院を捨てさせるゲームをしている手下がいる。我々は人々にこう言う。『こんなものには今は意味はない。古い。とうに廃れたものだ。何百年も昔のことだ』と。だが、修道会の中に起きている馬鹿らしい変化をよく見ろ。「神は、外的な伝統と秘蹟を変更する」と、おまえらは思うのか。とんでもない。神の教会と信心は、昔も今も同じままでなければならんのだ。「人間どもの聖性が変化して堕落した」と言うだけだ。「人間どもの霊的生活が変わった」と言うに過ぎない。事態は、今後ますます悪くなるだろう。司祭どもが堕落しているからだ。「ロザリオが古臭い」と司祭に言わせているのは、我々だ。それを言っているのは我々だが、おまえら司祭も罪が重い。おまえら司祭は神を十分に愛していないか、まったく愛さないかだ。違うか! おまえら司祭が神を愛していれば、どうして人々からロザリオを奪えよう。いいや。だが、おまえら司祭の極少数は、溺れる者のようにロザリオにしがみついている。ロザリオという流木にしがみつけ。そうしなければ、おまえら司祭の極少数が沈めばロザリオも沈む。この意味が分かるか。四六時中ロザリオを手にもっている者たちがいる。このような者たちには、我々は、ほとんど手出しできない。[ロザリオは、カトリック教会で聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる数珠] メダイ・その他の準秘蹟には守りの力がある。[メダイは、カトリック教会で頒布する卵型をした小さなメダル] その通り、それは守りになるものなのだ。守りを信じれば、それは守ってくれる。注意しろ。我々は、このような者たちを遠巻きにして避ける。ときどき、元后は、聖職者や信者の罪の償いのために、我々が彼らを誘惑することをお許しになる。そのときには、我々は彼らの近くに行くが、許されていないときには、我々は彼らを遠巻きにしている。元后を愛し尊ぶ者たち、こういう者たちを我々は避ける。だが、時々、彼女は、その子供達を誘惑することをお許しになる。彼らが我々の誘惑を拒否すれば恵みは、いっそう豊かになる。そのような誘惑に負けない霊魂は、たいてい、ロザリオに手を延ばすものだ。彼らは、祈りながら誘惑に抵抗する恵みと力を得る。もっと多くの恵みが控えている。このような誘惑を拒否する祈りは、常に聞かれる。それを信じてよい。このような誘惑を拒否する祈りは神への直訴である。「悪魔の誘惑に屈することなく、ひたすら神を愛したい」ということを神に示しているからだ。天国にいる天使や諸聖人のように。悲しいかな、私は天国にはいない。地獄に落ちた今となっては、それができない。いと高き神は、ミサをラテン語ですることを求めている。だが、私の意見では、例えば、ドイツ語に正確に翻訳してあれば、形式あるいは典礼にどんな変更も加えていなければ、いいと思う。だが、司祭のプライドが、もうすぐ、ラテン語のミサを変更させるだろう。我々のした小細工がもう一つある。教皇レオ13世(在位:1810~1903)が、私の間違いでなければ、作成した『大天使 聖ミカエルへの祈り』だ。[『大天使 聖ミカエルへの祈り』は、教皇レオ13世が1886年にミサ典書に付加したため、『レオ13世の祈り』とも言う。カトリック教会のトリエント形式のミサの終わりに、『終わりの福音』に続けて唱えられた。典礼書中の『祓魔式 Exsorcista 』の部には、この祈りはない。第2バチカン公会議(1962~1965)の典礼刷新により、1965年3月7日に廃止された。] 教皇レオ13世は、あるとき幻を見た。「ローマ・カトリック教会を滅ぼしてやる」と、イエズスにいきまくサタンの幻だ。それで、教皇レオ13世は、あの祈りを作った。毎度のミサの終わりに、この祈りをするべきだ。だが、今では、この祈りをしていない。それから、めでたし3回。 また、「天使祝詞」(「アヴェ・マリアの祈祷文」)は、ミサで子供たちが、唯一、聖母のことを聞く場所だった。それで、今や、カトリック信徒は、「天使祝詞」さえ知らずに育っている。これは、我々の仕業だ。我々がまた勝った。これらの祈りには力があるのだ! 私は自分の意に反してこんな話をしている。これらの祈りには大いなる力があった。ミサが終わる度に、これらの祈りがされていたら、こんなひどいことにはならなかっただろう! 古株の司祭の中には今もこの祈りにしがみついている者たちもいるが、古株でさえ、「それでうまくやれる」と、新しいものにとびつく者がいる。おまえら司祭は、自分を敬虔で聖なるものと考えているが、みな罪人だ。小罪人・大罪人・中途半端な罪人・習慣性の罪人だ。おまえら司祭は、神より罪を愛している。肉を愛している。それは、みな罪だ。だが、見ろ。こんなものは、もうすぐ消えちまうのだ。それは物だ。物は続かない。続くのは魂だ。この私が、何よりの証拠だ。私の体は遠い昔に分解した。1806年に死んだのだ。私の体はパリに埋められた。今は、どこにいるか。ここスイスにいる。そうとも、私の魂は、こうして徘徊している。昔、私の体だった物は消えちまった。おまえらは魂を、霊を見なければならない。肉ばかり見ていれば、おまえらは滅びるのだ。言っていることが分かるか。祭壇の上で6本の蝋燭ではなく2本の蝋燭しか使わせなくしたのは我々だ。我々は、あなた方に何度も言った。『なぜ6本にするのか。2本で十分だ。これならカネもかからない。6本じゃ高すぎる』。 私の教会の司祭は、10センチぐらいの安っぽい、ちっぽけな蝋燭のために、1メートルの蝋燭を立てる金の燭台を捨てた。「高い蝋燭は、祭壇の背景を見えにくくする」というのが奴の言い分だった。奴が言ったのは、祭壇両側にある安っぽい木彫りの天使のことだ。あの途方もなく美しい大燭台は、25年間ここに置かれていたが、何物も見えづらくしなかったのだ。今の新ミサは、嘘っぱちだ。司祭は、祭壇の前で敬虔を装っているが、それは「他の司祭がすることをしなければならない」という思いだけの理由だ。ミサの後で、彼ら司祭は本当の顔を見せる。ミサの後で、彼は、おのれの弱き信仰を露呈する。おまえらは神を侮辱している。こんな司祭どもは滅びる。彼ら司祭は、いと高き神を知らない。 司祭はみな、パウロ6世(在位:1963~1978)が、口による聖体拝領を望み、手による聖体拝領を禁止したのを知るがいい。[1969年5月29日の教書 “メモリアール・ドミニ” は、パウロ6世の名前でグート枢機卿 Cardinal Gut と アンニバル・ブニーニ Annibal Bugnini によって書かれた。この教書は、手による聖体拝領を禁止する一方、平信徒が希望した等の条件付きで手による聖体拝領を許可したため、手による聖体拝領が普及してしまった。] 司祭らは、手による聖体拝領によって、教区民を甘やかし、教区民を司祭になった気にさせている。こんなことをしている司祭は、全能の神を知ってはいない、恐れていない。どの司祭も、決して手に聖体を授けてはならないことを肝に銘じろ。モダニストの司祭は、救い主を打ち叩く奴らと同じだ。彼らモダニストの司祭はイエズスを打ち叩いている。手で聖体拝領をさせる度に、もっとも卑しいやり方で、救い主を打ち叩いている。聖体の中の主の現存に関して、司祭たちが、どんな冒涜をしているかを知れば、平信徒は手による拝領などできなくなるだろう。彼ら平信徒は、司祭による聖体奉挙(聖別されたパンを高く挙げて示す祭儀)の都度、ニ度跪くことを、もはやしなくなった。司祭がカリス(ぶどう酒の杯)を聖別するときもだ。今では一度しか、それも、お辞儀する程度だ。それから、彼ら司祭は聖櫃を追い出して、部屋の隅っこや、クローゼットや物置など、別の部屋にしまい込んだ。イエズスを鞭打つ奴らのすることだ。手で聖体拝領する奴らは、偽カトリック信徒だ。まことに神を信じる本物のカトリック信徒は、手による聖体拝領などしない。崇敬の心が、それを許さない。偽カトリック信徒は、崇敬を装っているだけだ。彼ら偽カトリック信徒は、司祭になった気でいる。中には毎日教会に通っているから、「司祭以上になった」と勘違いしている奴らもいる。だが、神は、そのようなことをお考えではない。聖体に触ることによって、おまえらは猿のように愚鈍であることを露呈しているのだ。おまえらの本性は猿だ。誰かが聖体を床に落とせば、それをただ拾うだけだ。ことイエズスが関係しているところで、よくこんな馬鹿をやれるものだ。おまえらは、2千年前、十字架につけられた主に兵士がしたより、もっとひどいことを、主に対してしている。聖櫃を脇に追いやらせ、司祭を神のように中央に立たせたのは、我々の仕業だ。司祭は、イエズスがいた場所に座らなければならない。・・・司祭らは、少しサタンに近くなっている。少し以上だ。彼ら司祭は “わが地獄の主 ルシファー” のようになろうとしている。彼ら司祭は、神のようになりたがっている。彼ら司祭が、聖ミカエルの話をしたがらない理由がそこにある。彼ら司祭に何が起こると思うか。彼ら司祭は、また追放されるのだ。覚えておけ。大昔、天に、高慢な天使達がいた。それから、あれ(ルシファーによる神に対する反逆)が起こった。神の「おやすみなさい」の一言で、高慢な天使達の全員が地獄に落ちたのさ。そして、突然、闇になった。 謙虚な司祭は、いと高き神がおられる場所、祭壇の中央に座らず、脇に座るものだ。それが私の時代の習慣だった。当時の彼ら司祭は、まともな司祭だった。「当時の彼ら司祭は、イエズスの神秘が体に深く根を下ろしていた」と言える。今の司祭は浅はかだ。彼ら司祭は、この世の方法(現代の世俗社会の方法)で何事もしたがる。社交クラブや余興や音楽会までカトリック教会でやりたがる。今の司祭は、真の俗人だ。こんな奴らを「神のしもべ」と呼ぶことはできない。彼ら司祭は、世に属している。 司祭の着衣について言おう。いと高き神は、司祭が古来のやり方に習って衣を着るようにお求めだ。キャソックを着る。特に公衆の面前で。とりわけ、それは教会法だ。[「キャソック」は、聖職者の平服で、首回りを立襟にした長袖上着と腰から足元までの長いスカートを組み合わせたデザインで黒色が多い。] いと高き神は、人間どもの頭で考え出された新しい思想を普及するモダニストの意見を求めておられない。聖なる自己犠牲を重荷と感じる司祭どもがいる。彼ら司祭は、祭壇を離れれば大喜びだ。それは、天主を十分に愛していないからだ。天主、いと高き神を。だから、彼ら司祭は、自分の上にあるものを、何でもかんでも引き下ろそうとする。何事も自分たちのレベルに引き下ろしたがる。彼ら司祭は、神になりたがっている。だが、この「神になりたがる」気持ちが、彼ら司祭を地獄に送る。こんな奴らが、神の怒りを自分自身と地上の万人に招く。とは言っても、執り成しをしてくださる御者がいる。彼女(聖母マリア)は、始終、いと高き神のみ座に向かって嘆願してくれている。そうでなければ、私を信じろ、おまえら司祭と地は、とうにない。わかるか、とっくになくなっているのだ。どれほど彼女が、いと高き元后が、力ある存在であるかがわかるだろう。それから、おまえら司祭たちよ、おまえらは自分が敬虔だと思い込んでいるが、キャソックとビレッタをつけるほどの謙虚さすら、おまえらにはないのだ。 [「ビレッタ」は、聖職者が頭に被る立方体型の角帽]  ミサを挙げるのにキャソックを着用したがる敬虔な司祭たちは、堕落した司祭らの嘲笑を常に買う。彼ら司祭は言う。『敬虔馬鹿になるな。人智に理解できる以上のことをしようと思うな』と。 このような悪い理屈は、我々が吹き込んだものだ。我々は常に真理を否定する。「祈る必要などない」と我々は言う。我々の言葉には終わりはない。悪い冗談を言う奴らもいる。奴らは、「マリアがヨゼフと性交渉をした」と御託を並べているが、そう言わせているのは我々だ。天の元后を冗談のネタにする司祭は、大罪よりも悪い。


■6.永遠の拷問である地獄
おまえら司祭が炎の中にいるのを想像してみろ。その時では、もう遅いぞ。この苦しみには終わりがないのだ。この拷問、この責苦には。それは果てしなく続く。酒を飲む奴らがいる。これら酔っ払いは、特に安っぽい奴らだ。私は生前、こいつらが嫌いだった。大嫌いだった。酔っ払いは大嫌いだ。赤ら顔に青筋を立てたでかい鼻。これは、みな酒からくるものだ。酒が情欲を誘う。それは恥ずべきことだ。こんな奴らは豚と変わらん。私は、こんなことさえしなかった。へどが出そうになるからだ。それでも、私は彼らと同様に呪われている。 おまえら、肉欲に走る者たちよ、おまえらが、これを読んでいれば、これが最後のチャンスだと思え。私がおまえらに言っているのだ。そのまま続けていれば、おまえらの末路は、アウグスト・ホーレンヴィーガー(誰か不明)と同じ、火の中だ。それから、おまえら司祭には特別な苦しみもある。そうだ、拷問だ、永遠の拷問だ。おまえら司祭は、いつまでも、おのれを責めるのだ。それで、おまえらが豚のような生き方をしているのなら、豚のような欲情を楽しんでいれば、おまえらは地獄で豚の顔になる。他を誘惑した奴は蛇の姿になる。これは冗談ではない、とぐろを巻いた、黒い皮の蛇のようになるのだ。私は、このような姿の女を知っている。それは、すさまじい姿だ。蛇のような舌をしている。蛇女、蛇人だ。この女は誘惑を表している。同様に男も、誰を誘惑しても、地獄では蛇の姿になる。 おまえら、服のデザイナーたちよ、おまえらは、みな地獄の中で、醜い憎しみの火の中に下る。おまえらが若い娘らにした報いだ。いと高き神は、おまえらを処罰するであろう。若い娘らの肌を露出させ、情欲をそそる服を、若い娘に着せたからだ。女用のズボンによって同性愛を刺激したからだ。 年寄りにも言っておきたいことがある。彼ら年寄りは、「若者が堕落している」と言う。だが、堕落は年齢を問わない。年寄りは教会に行く。「若者より、いい人間だ」と思い込んでいる。おまえら年寄りは、「若者は不良だ」と言う。だが、おまえら年寄りも同じだ。聖体拝領をする前に告解しに行け。告解しないなら、教会へ行かず、家にいる方がまだよい。いと高き神が裁かれるときに、おまえら年寄りが行くのは、煉獄(天国と地獄の中間にある霊界)の最下層だ。悪口は、ひどい処罰を受ける。それは高慢だ。おまえら年寄りは人を憎まず、愛さなければならない。人を憎めば、おまえら年寄りは、我々の子供たちになる。笑ってはならない。これは真実だ。ゴシップをふりまくな。若かった頃に、おまえら年寄りだって半端者だった。それを覚えている年寄りたちが今はいないというだけだ。それで、今、おまえら年寄りは若者を裁いている。そうだ、おまえらは、他の人間について善いことだけを言わなければならない。私は悪魔であるにもかかわらず、そう言わなければならないのだ。人の悪口をいうな。怠惰な話もするな。ロザリオを祈れ。私は、この一言を言う。「ロザリオを祈り、他人を愛せ」 こんなことを言うのは本当に苦しい。私は教授だった。だが、今では呪われた教授なのだ。ああ、それが、どんなに私を苦しめるかを、おまえらが知っていたら、善を語るということだ。すべては失われた。永遠に呪われた。救いはない。どこにも、どこにもだ。私は地獄から出られないだろう。いつまでも、そこにいるのだ。私の一番の苦しみは、諸聖人と共に天国にいられないということだ。 私は十分語った。これには終わりがない。これは拷問だ。私は天国へは決して入れないだろう。すべては過ぎ去ったのだ。このすべてが拷問、責め苦なのだ。それは、いつまでも続くであろう。これが私の一番の責め苦なのだ。天国に決して入れないということが。 すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。永久に、永久に、下は闇、光のない暗闇だ。そこは、いつも夜だ。光は決して射さない。これは永久に続くからだ。地は過ぎ去るとも地獄は残る。 おまえらは、地獄に下れば、こう考える。「なぜ、私は、こんなことばかりしてきたのか」と。なぜか? 地は過ぎ去るからだ。〔悪魔に操られ、神を冒涜したまま、地上の悪と一緒に滅び去る運命を選択したからだ。マタイ24:35、エペソ2:1- 3〕 それから、おまえらは、「違う生き方をしていればよかった」と考える。だが、下ったら最後、取り返しがつかない。そこには、どんな助けもない。これからも助けはないだろう。すべてが失われている。永久に失われている。すべてが過ぎ去ったのだ。 私は永遠にディアボロ(悪魔)なのだ。 パスクワレ・ドゥ・カパリーノ


■7.悪魔・悪霊を祓う祈祷文

    『大天使 聖ミカエルへの祈り』

  Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio:

  contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium;

  Imperet illi Deus, supplices deprecamur;

  tuque, Princeps militiae caelestis,

  Satanam aliosque spiritum malignos,

  qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo,

  divina virtute in infernum detrude.  Amen.


  大天使 聖ミカエルよ。霊の戦いにおいて我らを護り、

  悪魔の謀略(はかりごと)を打ち砕き、戦いに勝たしめ給え。

  天主が悪魔どもに命じて抑(おさ)え給わんことを伏して願い奉る。

  あぁ、天軍の最高指揮官よ。

  サタンと、その他の悪魔・悪霊が

  我らの霊魂を滅ぼさんと、この世を徘徊しております故に、

  天主の御力により、これらを地獄に閉込め給え。アーメン。



  『アヴェ・マリアの祈祷文』(「天使祝詞」)

     Ave Maria, gratia plena,

     Dominus tecum,

     benedicta tu in mulieribus,

     et benedictus fructus ventris tui Jesus.

     Sancta Maria mater Dei,

     ora pro nobis peccatoribus,

     nunc, et in hora mortis nostrae.  Amen.


     めでたし、聖寵(せいちょう)充(みち)満てるマリア、

     主 御身(おんみ)と共にまします。

     御身は 女のうちにて祝(しゅく)せられ、

     御胎内の御子(おんこ)イエズスも祝せられ給(たも)う。

     天主の御母(おんはは)聖マリア、

     罪人なる われらのために、

     今も 臨終の時も 祈り給え。アーメン



【 4 】悪霊ヴェルディ・ガランデュー修道院長のメッセージ(出典:ブログ 護教の盾「滅んだ司祭ヴェルディ・ガランデューからの警告」)校正・編集済み

■1.祓魔式(エキソシズム)1978年4月5日
(1)「司祭たちへのメッセージ: 福音の生活に戻ることの奨励」 [同時に警告でもある] 
祓魔師: エルネスト・フィッシャー神父(引退した宣教師、聖ゴール修道院 - スイスのゴッサウ) 悪霊: ヴェルディ・ガランデュー修道院長(死後に地獄に落ちた元聖職者の悪霊)  ヴェルディ・ガランデュー修道院長は、17世紀(1601年~1700年、西欧の大航海時代・日本の江戸時代)、フランスのタルブ教区(Tarbes教区:スペインとの国境のピレネー山脈の北部にあるフランス南部の都市)の司祭であったが、その死後、地獄の悪霊と化し、今や、女性に取り憑いた。しかし、1978年4月5日に執り行われた祓魔式(エクソシズム)を通じて、聖三位(父・子・聖霊)と聖なる乙女(聖母マリア)の命令により、悪霊ヴェルディ・ガランデューは、取り憑いた女性を介して、生前時の聖職者の兄弟たちに福音の狭い道に戻るようにと懇願し、また、そうすることによって神の恩寵に対する不忠実のために自分の陥った恐ろしい境遇、即ち、永遠の地獄を、今度は現代の聖職者たちが自分たちの番として被ることを避けることを懇願した。以下は、悪霊ヴェルディ・ガランデューの悲壮なメッセージである。 [女性に取り憑いた悪霊ヴェルディ・ガランデューには、生前時の聖職者意識があり、悪霊の立場からすれば「お前たち」と言うべきところを「我々」と言ったりする]

(2)『レオ13世の祓魔文』『聖ヴィンセント・フェラーへの祈り』
今回の祓魔式(エクソシズム)では、エルネスト・フィシャー神父によって唱えられた『レオ13世の祓魔文』(  『大天使 聖ミカエルへの祈り』)の後に他の多くの祈りが唱えられたが、その中には14~15世紀のスペインの偉大な宣教師の『聖ヴィンセント・フェラーへの祈り』が含まれていた。 [この日は、たまたま、この聖人の記念日の4月5日であった]  彼は、スペイン・イタリア・スイス・イタリアなど至る所を旅し、1419年、フランスのヴァンヌで帰天した。聖ヴィンセント・フェラーは、その愛と償いの生活により、また活発な説教活動により、悪魔から多くの霊魂をもぎ取る 、悪魔にとっての恐るべき存在であった。つまり、聖ヴィンセント・フェラーは模倣すべき手本であり、神父ヴェルディ・ガランデューは、従ってはならない例である。 [「人々の霊魂たちを地獄にさらったのは、いにしえの者(ルシファー)であって、私ガランデューではない」(祓魔式中における悪霊ガランデューの言葉)]  悪霊ガランデューは、取り憑いた女性を介して、約2時間半ぶっ続けに話した。我々は、ここに、天の命令に従って為された、我々現代の司祭たちに向けられた悪霊の懇願メッセージを公開する。[「我々現代の司祭たち」とは、全カトリック教会の聖職者全体を指す。何故なら、悪霊は、面前のフィッシャー神父のみならず、全カトリック教会の司教たち・枢機卿たち・修道院長たちに対しても言っている]


■2.悪霊ヴェルディ・ガランデュー修道院長からの警告
悪霊ガランデューは、自分もまた「悪霊たちの中の悪霊」になったことを告白した後、突然叫び始め、こう言った──「私が主の恩寵と導きに応えなかったとは、何と愚かなことだったろう!」〔悪霊は、哀れな泣き声を出しながら、憑かれた女性を跳ね起きさせ、大声を上げる〕 何故、私は自分をその道に進ませてしまったのか? 何故? 何故、私は司祭職という、この非常に重い責任のある職務に入れられることに同意したのか?? 自分をこの偉大な理想の極みに持ち上げることの労を取る用意ができていなかったのならば、私にはこの職務は無理だったろうに。何故、私は今日のおびただしい数の司祭たちがしているように、自分の司祭職に従わないことをもって悪い模範を与えてしまったのか? 何故、私は私がそうすべきだったようにはカテキズム(教理問答)を教えなかったのか? 私は神の掟を守りながら、というよりは、むしろ女性の服を眺めながら時を過ごした。私は実際のところ、熱くも冷たくもなく、生ぬるかった。それで聖主は、その口から私を吐き出した。 [「あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネの黙示録 3:16)]  それでも、私も若い頃は、まだ良かった。まだ聖寵と一致していた。〔悪霊が話している間、我々は憑かれた女性を通して悪霊の叫び声を聞いた〕 後に私は生ぬるくなった。その時、私は広くて簡単な快楽の道に入った。そして私は、もはや恩寵に応えずに、聖徳の狭い道を放棄した。私は、ますます堕落して行った。初めの頃は、私もまだ自分の罪を告白していた。私は回心したかったが、もはや、祈る術を十分に知らなかったために成功しなかった。私は、生ぬるかったために恩寵に応えることをせず、更に冷たくなるまで心境を下げて行った。生ぬるさと冷たさの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし、私が熱心であったなら、この哀れな運命を味わうことはなかっただろう。もし、今日の司祭たちが立ち直らないなら... ああ、その通り! 彼らは私と同じ運命を辿るだろう。現在、世界には、私と同じような司祭たちが何千何万と居る。彼ら司祭たちは、悪い模範を作り、生ぬるく、もはや神の恩寵に応えていない。それらの全ての者たちは、もし回心しないなら、私、ヴェルディ・ガランデューよりも良い運命を持つことはないだろう。 ああ! 私にとって地獄とは何という運命だろう! 私が生まれることさえなかったら! [「その人-裏切り者ユダ-は、むしろ生まれなかったほうがよかったであろうに」(マタイ 26:24)]  地上に再び戻ることができるなら! ああ! 私は、どんなに、より善く生き直すために地上に戻りたがっていることか! ああ! 私は、どんなに、夜も昼も脆き、いと高き御方への祈りのうちに過ごしたがっていることか! その時、私は天使と聖人たちに、「私が破滅への道から離れていることができるよう、私を助けて下さるように」と祈るだろう。しかし、私は、もう引き返すことはできない。私は有罪なのだ。〔悪霊が哀れな声を出す〕 ああ、司祭たちは、地獄の刑を宣告されることが、どんなことか、地獄がどんなものかを知らない。現在、地上に居る全ての者が、最も抵抗の少ない道を選んでいる。彼ら司祭たちは、この世の快楽を味わうことを望んでいる。彼ら司祭たちは、彼ら司祭たちの言うところのヒューマニズム(人間中心主義)を実践することが、この時代のメンタリティーであり、「今や普遍的なものとして確立されたのだ」と堅く信じている。


■3.自己犠牲の禁欲・断食の精神
司教・枢機卿・修道院長たちは、彼らの部下たちが示す程度の模範しか示していない。彼らは、キリストがその食事と食事に準ずる席で実践したような質素さに倣いつつ生活しているだろうか?? 福音が言っているように、イエズス・キリストは確かに様々な人からの招きに応えて晩餐に出席した。しかし、これらの食事の席で、彼はあまり食べなかった。そして、もし、イエズス・キリストが、これらの晩餐の席で少しばかり食べたことがあったとしても、尚、「イエズス・キリストは、飢えで苦しむことを、より好んでいた」ということが何度も強調されなければならない。聖家族と使徒たちも、大いに断食した。さもなければ、彼らは彼らが恩恵に浴したところの全ての聖籠を受けなかったであろう。しかし、イエズスは、彼自身が聖寵の創造者であったが故に、聖寵を受ける必要がなかった。しかし、それでもイエズスは、彼の使徒たちに確実に模範を与えることを望み、また全ての時代の全ての枢機卿たち・司教たち・司祭たちに、模範を与えることを望んだ。しかしながら、今日の枢機卿たち・司教たち・司祭たちが、贅沢な環境の中で彼らのテーブルにつき、おいしいごちそうを食べているのであれば、そんなことをして何になったのだろうか。彼らは、この生活様式に従いながら、彼らの健康を損なうほどまでに害悪は進む。しかし、彼らは、これが自分の司教・枢機卿・管区長としての地位に相応しいと思っている。哀れな料理人たちは、「自分たちは司教や、お偉方に仕えているのだから、テーブルの上には何か手の込んだものを出さなければならない」と思っている! 彼ら料理人たち、この哀れな霊魂たちは、「もし、これら全ての皿を、テーブルの上に並べることができなければ、自分たちにとって不名誉なことになる」と思っている。彼ら料理人たちは、「このようなことが、司教たちが、司祭たち以上にキリストに倣うことができるために、何ら助けになっていない」と気づいていない。もし、これらの料理人たちが、これらのお偉方に、「キリストも、かつて地上に生きたが、しかし、彼はもっと遥かに質素な生活をした」と言うことができれば、より良いことであろう。天の方々は〔悪霊は上を指差す〕、人々がイエズス・キリストを模倣する精神をもって為すことは何であれ、高く評価する。しかし、この時代に行なわれていることは、イエズス・キリストへの模倣とは全く正反対のことである。人々の多くは、優雅・贅沢・裕福の中で生き、それは過剰なまでに至り、罪になる程度にまで至っている。罪は、しばしば食卓の上から始まる。禁欲が実践されなければならないにもかかわらず、禁欲が拒絶される時、罪は食卓から始まる。自己犠牲の禁欲・断食の精神を拒否することは罪ではないが、罪が入って来る広く開けられた扉である。禁欲の欠如は、人をゆっくりと罪に導く。この二つの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし、司祭が教会の教えに従わないなら、司祭を我々悪霊の地獄の道に導くために司祭のローブの裾を引っ張りに来るのは、我々悪霊である。 [「司祭のローブ」は、「スータン」「肉の服」とも表現する。参照:アウグスチヌス『告白』]  その時、我々悪霊が我々悪霊の全悪習慣を遂行する望みのもとに司祭のローブの裾を掴むのは、そのほんの端だけで足りるのであり、しかも、ほんの僅かの時間だけで足りる。長い間、私ガランデューは善き司祭になる意図を確かに持っていた。しかし、「司祭という人物は、我々悪霊によって平信徒たちより、遥かに激しく攻撃される」と強調されなければならない。確かに平信徒たちも危険にさらされている。特に、正しい人々の列に加わるために自分のできる限りのことをしている者たち、重要な責任を持っている者たちが、悪霊に攻撃される。しかし、司祭が人々に祝福を与える偉大な力を持っているが故に、我々悪霊は、全てにおいて司祭たちを真先に攻撃する。私に関する限り、私は自分が司祭であることを弁えていたし、初期の頃は、私も自分の司祭職を真面目に果していた。しかし、時が経つに従い、私はそれが単調であると思うようになり、独身制の意味についても顧慮しなくなった。私は祈ることをやめてしまった。何より、私は、あまりに多忙だったのだ。そして、私は、時々しか祈らなくなり、最後には、祈ることを全くやめてしまった。私は、聖務日課の長い祈りを、退屈で無益なものと思うようになり、とうとう、祈る意欲を失った。[天使が、私たちに祈りへの意欲と愛を与え、祈るための忍耐力を与えて下さいますようにと祈ろう。何故なら、それが天使の使命だからである。] 私は、聖務日課をしなくなった時、淫猥の罪に陥った。その時から、私は、もはやミサを唱える意欲を持たなかった。これは連鎖反応的に起こった。私が淫猥の罪に陥った時、これは連鎖反応的に起こった。つまり、私は、もはや聖寵の状態になかったために、ミサを信心深く捧げなくなった。このような心理状態にあって、聖書と福音書を読むこと、天主の掟を思い出すことは、私にとって咎めの時となった。それは私にとっては警告であった。しかし、私は、その警告を無視し、「自分は、もう自分の当然の務めとして、そうすべきようには子供たちに教えまい」と決心した。私自身が善を実践していない時に、どうして彼ら子供たちにそれを教えられるわけがあろうか? しかし、今日の、自らをヒューマニストやモダニストと呼ぶ司祭たちは、これら全ての堕落を、私が知っているのと全く同様によく知っている。彼らは、自分が信じてもいず、行なってもいないことを、どうして平信徒たちや子供たちに教えることができるだろうか? 自分の教えることが自分の生活の実情と合っていないことを知っており、それ故、自分の語ることが一つの巨大な嘘であることを知っている時に、どうして教えるべきように人々に教えることに耐えることができるだろうか?? 多くの司祭たちにとって、そのようなことをしなければならない時は、心臓が死の深い穴になってしまうような時である。このような心理状態にある司祭は、人々が考えているよりも遥かに多く居る。彼らは腐ったリンゴである。腐ったリンゴが、どうして良い香りを放つことができるだろうか? 聖徳を達成することに努め、霊魂たちに触れ、それらが必要とするものを与えることのできる人物は、ただ司祭だけであるのだが。


■4.「罪を悔い改め、自らの生き方を改める」と御父に約束する
もし、司祭たちが、聖徳の模範を信者たちに、特に若者たちに与えるならば、我々聖職者は我々聖職者が知っている世界とは全く違った世界を持つことだろう。その時、お前たちは、お前たちが現在持っているものより、千倍も良い、それ以上に良い世界を持つだろう。しかし、もし、お前たちが自分の中に神を持っていないなら、お前たちは、どうやって、それを広めたいと願うことができるのか? もし、私が私自身、聖霊に聞かないことを喜びとしているなら、私は、どうやって聖霊について語ることができるのか?? もし、ある者自身が、模範とすべき道から外れているなら、その者は、どうやって、人に模範とすべき道を指し示すことができるのか? このようなことは、お前たちが想像している以上に、非常に深刻な悲劇である。司祭が聖徳の道から逸れ、「その同じ邪悪な道に他の霊魂たちをも引き込んでよい」という気になった正にその瞬間、悲劇が始まる。 このようなことは、ミサの聖なる御いけにえ(パン・ぶどう酒)の霊的な堕落から始まる。その時、聖なるミサは、初めから終わりまで、意欲なしに、生ぬるく唱えられる。その結果、その堕落したミサからは、どんな個人的な利益も得られない。 [ミサを行う司祭自身と平信徒の全個人にとって有害無益となる]  とにもかくにも、私の事情は、この通りだったのであり、私は、ミサとその聖なる言葉に対する嫌悪を募らせていった。そして、このように悪しく行動した聖職者は、永遠の咎めを持つ。私の場合、他の多くの司祭たちの場合と同様、信者たちがミサに心から安心して与ることを可能にする「全実体変化」が、少なくとも存在していた。[「全実体変化」とは、「聖変化」とも表現され、ミサで用いたパンが主イエズスの御体の御肉に、ぶどう酒が主イエズスの御血に霊的に変化し、主のご臨在を実感する神秘体験をいう] しかし、信者たちが、そのように安心できたのも、彼らが司祭たちの心の奥底にある腐敗堕落を知らなかったからである。悲しいかな、司祭たちは、ミサが有効であることを確実にするための、彼ら司祭たちが唱えるべき言葉を唱えておらず、もはや、言葉と共に生きてはいない。悲しいかな、司祭の誰もが、信者たちを間違った道に導いている。これらの司祭たちは、説教壇の上から、公に次のように叫んだ方が良いだろう。「私は罪を犯しました。私は、もはや聖徳を実行できません。私が回心できるように、私が再び聖徳の道について教えることができるように、どうか私のために祈って下さい」と言う方が、遥かに良いことだ。そして、我々悪霊たちは、そのように罪を告白した司祭たちには力を及ぼすことができない。何故なら、彼らが謙遜の行為を為したからである。たとえ幾らかの人々が、このように話す司祭に軽蔑を抱くようになったとしても、しかし、司祭の言うことを聞いた大部分の者たちは、その謙遜に感化されるのであり、皆で力を合わせて、司祭が自分を取り戻すことを助けることができるであろう。信者の大部分は、そのように自分を表現した司祭に、尊敬の念を抱くであろう。このようなことは、嘘と偽善の道を続けるよりは、遥かに善いことである。人々に対面してミサを執行し、人々に次のように言うことは、何の役に立つのだろうか。「近寄りなさい。主は、あなた方の罪を全てお許しになっています。主は、あなた方のことを理解して下さっているのです。光の御父のもとに来なさい。そして、もし、あなたが暗闇の中にいるなら、主は、あなたを再び恩寵の中に戻して下さるでしょう」と言う司祭たちは全て、「御父が、お前たち司祭たちを自らの御腕のうちに再び取り戻し、その聖寵のうちにお前たち司祭たちを再び戻すために、司祭たちによって何か、あらかじめ為されねばならないことがある」ということを忘れている。「御父が彼の子供たちを再び御自分の御腕の中に取り戻す」というのは本当である。しかし、このことが起こる前に、「罪を悔い改め、自らの生き方を改める」と御父に約束することが必要である。滅びへの道を避けることが必要である。司祭は、当然、次のように考えるべきである。「まず私自身から始めなければならない。それが、信者各人に模範を示すため、また、聖霊とイエズス・キリストの教えを全会衆に説教する唯一の方法だ。そのようにすることが、いと高き御方が、私、司祭が、人々の中で説教し、実践すべきとお考えになっているところの、私の使命である」


■5.神への愛を最優先すべし
隣人愛があまりにも多く語られ過ぎている。他方、この隣人愛というものが神に対する愛から生ずるものであることが忘れられている。もし、第一の掟、主要な掟を忘れているなら、人はどのように隣人愛について、互いに近寄ることについて、語れるものだろうか?「あなたは思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛さなければならない」[マルコ 12:30-31]  隣人愛の命令は、神への愛の次であり、二番目の掟に過ぎない。もし、司祭が天の方々〔上を指差す〕と和解することを全てにおいて最優先するならば、その時、隣人愛は直ちに流れ始める。次のように言うことは、フリーメイソンの見せかけである。「互いに愛し合わなければならない。互いに助け合わなければならない。互いに支え合わなければならない」。しかし、この全ては、悪魔崇拝に通じているのではないのか? たとえ人が慈善・許し・相互扶助について語ろうが、その結果が、どのようであるかは、今日の自殺者数を見ればわかる。「汝の隣人を己が如く愛せよ」という掟があるのは事実である。しかし、それは「全てに先んじて神を敬い礼拝せよ」という掟の後に来る。隣人愛の掟の、正に源から始められなければならない。即ち、まず初めに神を愛さなければならない。それは実際、隣人愛を含む。それは、全ての掟がその中に見出されるべき、最重要の掟である。人は、もし、神を真に愛することができたならば、その時、隣人を愛すること、隣人を支えること、隣人を助けることなどについて、絶え間なく語ることはないであろう。 [しかし、神を愛していないため、隣人愛が絶え間なく語られている]   実際には、隣人愛は何一つ行なわれていない。彼らは教会の部屋で、司教会議で、またローマ(ローマ・カトリック教会の総本山)においてさえ、隣人愛について始終喋りまくる。彼らは喋りまくり、議論し、何事かを決定し、それについて忘れ 、天の方々〔上を指差す〕が同意なさらないやり方に従って、あらゆることを受け入れる。天の方々〔上を指差す〕は、ただ単に憐れみであるだけではなく、正義でもある。そして、私、ヴェルディ・ガランデューは、これについてよく知っている! もし、徳行に励み、祈り、償いを捧げていたなら、私は今知っている、この過酷な地獄の道を知らなかったであろう。私は、私の羊たちが自分自身を浄めることを助けるために、また、私自身を浄めるために、十字架を求めざるを得なかったであろう。しかし、私は、それを求めることを忘れた。今の時代においては、司祭たちの大部分は、十字架の道が実践されなければならないこと、自己犠牲が行なわれなければならないこと、他者のために祈らなければならないこと、自分自身のことは忘れなければならないこと等について、忘れている。この時代においては、説教壇の上から信者たちに向けて、「今や、全ての者たちが巻き込まれている堕落した状態を償い、そこから立ち上がるために自己犠牲を捧げなければならない」と宣言されなければならない。そのようにすることこそ、真の意味での慈善の実践である。[Charity: 慈善・施し・隣人愛・同胞愛・思いやり]  それら全てのこと [隣人を助ける全ての方法] は、確かに重要である。しかし、天主ご自身が「(我々が)生きるために必要とするものは、お与えになる」と約束しておられるのだから、また、今の時代においては物質的な物は著しく組織化された方法によって分配されているのだから、今や慈善的なもの(隣人愛)は、それほど重視されるべきではない。これこそ、「隣人愛が我々の愛の主要な目的になってはならず、隣人愛は唯、我々が神への愛と結び付くことができる手段である」という理由である。もちろん、困っている人を助けることは必要なことである。しかし、このことが神へ向かう義務を脇に押しやるほど過大評価されたのでは行き過ぎである。それよりも、説教壇の上から人々を導くことに意を用いた方がずっと好ましい。即ち、人々に、誰か霊的な大きな困難の内にあり、それ故に危険の内にある人のために祈るよう勧めたり、祝別されたロウソクを灯すこと、十字架を使うこと、死者の十字架 [死にゆく者を助けることを目的に免償を付された十字架] と聖水を使うこと、困難にある人の助けとなる恵みを天から引き寄せるためにロザリオを祈ることをいつも忘れないこと等を勧めることである。これら全ては、たとえ、それを行なう者が平信徒であっとしても、恵みをもたらす。その恵みは、慎みと沈黙の内に豊かに溢れる。そして我々悪霊は、そのようなやり方で対抗された時、その場から撤退せざるを得ない。司祭たちは、説教壇の高みから、神への信仰というものを真剣に考えなければならないこと、各々心の中で忍耐を保つために互いのために自分を犠牲にしなければならないこと、そして、そのようにして人々を聖徳の道の上に留まらせなければならないこと等を思い出させられなければならない。平信徒たちは、また、こうも言われるべきである。「平信徒たちは、聖職者たちのために祈らなければならない。全ての聖職者たちの使命がよく果されるようにと祈らなければならない。聖職者たちが神への奉仕職の中によく保たれ、悪霊の罠に落ちることのないようにと祈らなければならない。司祭たちが自分たちをよく導くことができるようにと祈らなければならない」  ところで、この私もまた、一人の司祭であった。そして、私が司祭であったからこそ、私は今、私に印された奉献の印によって、地獄で、このように酷く苦しんでいる。司祭たちは、また、説教壇の高みから、「平信徒たちは自分自身のためにも祈らなければならない」と言わなければならない。何故なら、平信徒といえども悪霊たちに攻撃されているものであり、しかも、彼ら平信徒自身が考えているより遥かに激しく攻撃されているからである。平信徒たちは司祭たちのために「司祭たちが、その臨終の瞬間に至るまで、その使命と正しい姿勢を貫くことができるように」と祈らなければならない。また、平信徒たちが互いに祈り合うことも必要である。「自分たちが聖徳と、あらゆる善きことの道を歩き続けることができるように」と、しかも、「時々ではなく、常にそうあり続けることができるように」と、互いに祈り合わなければならない。おびただしい数の聖職者たちと平信徒たちが柔らかい草のようになったのは、彼ら自身にとって悲劇である。彼ら聖職者たちと平信徒たちは、この誘惑の時に、警告されることもなしに、悪霊たちに踏みつけにされている。それは、福音書の中でイエズス・キリストが指摘している通りである。それは、彼ら聖職者たちと平信徒たちが、太陽か水を欠いているからである。あるいは、太陽が彼らを焦がしているからである。このことは、この時代の平信徒たちが司祭たちによって正しい道から締め出される時に、ますます酷くなる。その時、司祭たちは、彼らに、「かつてあったことは、今日では退けられている」と言うのである。彼ら全て(司祭たちと平信徒たち)の中に、かつては大きな善徳を為す者が幾らか居たものだったが、 その者たちも善き土壌に充分に深く根付いてはいなかったが故に、今になって急に萎れてしまった。お前たちに、これを言うのは、私、ヴェルディ・ガランデューである。「司祭と平信徒たちが、堅忍のもとに彼らの道を続けることができるように」と絶え間なく祈らなければならない。特に司祭たちは、彼らが彼らの説教壇の上から、「今日において、祈ることは益々欠くべからざるものである」と告げなければならないと知らなければならない。また、「十字架の道に沿って為される堅忍こそ幸福の法である」と思い出されなければならない。何故なら、如何にして試練を耐え忍ぶか、ということを知っている者が、天国へと至る道の上にあるからである。


■6.貧窮を受け入れることは、イエズス・キリストを模倣する助けとなる
特に、「貧しい人々は、彼らは後には天国で心底から幸福になるのであるから、今は、その逆境を耐えることだけで良しとしなければならない」と教えられなければならない。たとえ、その貧しい人々が貧窮を耐えねばならないとしても、それでも尚、全体として見れば、例えば、フランスのアルスの主任司祭(ジャン=マリー・ヴィアンネ、1786~1859)、その他の偉大な聖人たちが、その生涯の正に最後まで受け入れた断食と自己犠牲からは、まだ相当な隔たりがある。貧しい人々は、天主が彼らにお与えになった多くの事に感謝すべきことを教えられなければならない。何故なら、貧窮を受け入れることは、彼らがイエズス・キリストを模倣することを大いに助け得るからである。善き天主に感謝せよ。 [「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神が、キリスト・イエズスによってあなたがたに望まれることなのです」(1テサロニケ 5:18)]  何故なら、そのような貧窮によって、いつも働かなければならないが故に、お前たちは誘惑に屈伏し得る機会を持つことが一層少なくなっている。多くの子供を授けられ、それを教育し養うため、多くの為すべき事を抱えている人々は、天主に日に三度感謝しなければならない。何故なら、彼らは、そのような環境にあって、この世の快楽から逃れるための、あらゆる機会を持っているからであり、また、彼らの居場所を確保している天の王国のために自分自身をより良く準備するための、あらゆる機会を手にしている。ある家族に四番目の子供が生まれる時、周囲の人々にとっても、その家族自身にとっても、一つの騒ぎ(養育費等の金銭問題)が持ち上がる。その時、何が為されるべきであろうか?  二番目の子供、三番目の子供において真実である事は、四番目の子供においても真実である。しかし、不幸なことに、司祭たちは、これらの嘆きを前にして寛容の精神に入って行き、信者たちが妊娠を避けるために女性がピルを使うことに同意する。信者たちは、そのようにすることによって自分たちに及ぼす霊的な危険について分かっていない。何故なら、ピルを使用すること=それは既に重大な過ちである=と、堕胎をすること=更に重大な過ちである=との間には、僅かな差しかないからである。堕胎は殺人である。それ故、重大な罪である。しかし、我々の時代においては、人々は、過去何世紀にもわたって [ずっと以前から] 信じられてきたことを真理として受け入れたがらない。それ故、たとえ、神が今直ぐにはオナニズムを罰せられないとしても、かつて彼がオナンの罪を罰し給うたように、我らの神は、産児制限の様々な手段を、どんなものであれ、等しく重大なものとして、お考えである。[「オナンの罪」とは、「するとユダは、オナンにむかって、『その兄よめのところにはいって、かの女に義弟としてのつとめを果して、兄のために子孫をのこしなさい』といったが、オナンは、生まれる子が自分の子とならないのを知って、兄嫁のところにはいるたびごとに、兄のために子孫をのこさないように、地にながすのであった。彼のこのやりかたは、主の眼前にきらわれることだったので、主は彼を死なされた」(創世記 38:8-10)を指す]   神が堕胎のことを、どうお考えか、少しは想像してみよ! 何故なら、これらの悪行は、神の御意にある救いの計画とは正反対だからである。それ故、私、ヴェルディ・ガランデューは、司教たち・枢機卿たち・司祭たち・全ての人々に向けて、次のように語らねばならない。彼ら聖職者は、説教壇の上から語らねばならない。どのようにか? こうである──「主の道に従え。何故ならば、そこには自己放棄と自己犠牲があり、それ故にこそ、恩寵を受けることも可能だからである」 自己犠牲も自己放棄もないところには、恩寵を受ける可能性もない。 そして、自己放棄も自己犠牲もないところでは、たとえ、どんなに小さな裂け目であっても、我々悪霊の狡猾さにかかれば、我々が直ぐにでも支配を握るための通り道となる。この小さな裂け目は、我々が家全体をひっくり返すために充分なものである。これが、この時代のお前たちの全ての教会に起こっている。 [悪霊は、教会と信者一人一人にある小さな裂け目から攻撃してくる]  教会の信者に再び使命を与えることが必要である。そして、今まで我々が語ってきたことを、聖歌隊席 [「内陣」「天使の階級」という意味もある] からではなく、説教壇から 、再び信者に説教することが必要である。信者が「高みにある祭壇に上がる」のではなく「視界の下にある祭壇に下がる」ことを余儀なくさせられる幾つかの教会さえある。祭壇が低い位置にある教会では、直ぐに信者の気が散らされる。何故なら、そこでは信者は上の方を見ているのではなく、下の方に充満している人の気を散らさせる物事、時には遥か下の方、正に我々がいる所(地獄)に充満している物事を見ているからである。今まで述べてきた伝統的な使命が、聖職者たちによって再び実践され始めなければならない。何故なら、聖徳への道が、そのように実践される時、そのようにした聖職者や信者には恩寵のシャワーが与えられるからである。天主の掟に従って生きる司祭の持つ影響力は甚大である。それは、アルスの主任司祭の生涯に見ることができる。彼が霊魂たちを救ったのは、旅行で気晴らしをするために現実から逃げること、美味しい食事を取ること、あらゆる種類の会議に出席することによってではなく、ただ彼の部屋に留まること、至聖なる秘跡の御前に留まることによって、霊魂たちを救った。そして、また、そのようにすることは、私、ヴェルディ・ガランデュー自身にとっても必要なことであった。しかし、私は、そのようにする代わりに、自分の教区に対して為すべきであった自分の司祭としての務めを怠った。そして、そのようにして、霊魂たちを地獄の道の上に導いた。この我々の時代は、何千何万というアルスの主任司祭を必要としている。しかし、もし、そのような者が、もはや存在していないのであれば、その時は、この人物、アルスの主任司祭が、倣うべき模範として考えられなければならない。


■7.愛する者たちを試練の中に置く神
これは、私、ヴェルディ・ガランデューが、言うことを余儀なくされるところのものである。司祭は女性との習慣的な接触を避けなければならない。そして、全ての聖務日課を唱えなければならない。「もし、司祭が聖務日課を唱えないならば、司祭は誘惑に屈する大きな危険の中にある」というのは事実である。他方、「もし、司祭が聖務日課を唱えるならば、至高なる天主ご自身が、司祭が誘惑を克服するのを助ける」であろう。私がこれを言うのは、司祭というものは、事実、これ [女性との習慣的な接触] に関係した大きな誘惑を受けるからである。しかしながら、「たとえ司祭が罪に堕ちている時であっても、彼が聖務日課を唱えるならば、至高なる天主は彼に、彼の聖職を続けるためのチャンスと、彼が信者たちに利益を運ぶ道具であり続けるチャンスをお与えになる」ということに注目すべきである。大きな困難の中にある全ての人々に、「天主への望みのうちに堅忍しなければならない」と告げなければならない。何故なら、天主は、ご自分の愛する者たちを試練の中に置くことをお好みになるからである。それは、人々が苦しみと試練に対するために金銭の力を当てにする時代においては尚更そうである [ジャン・マーティはここで使われているフランス語の「se parer」という言葉を「何であれ何らかの危険に対して予防措置を取ること」(ラルース辞典)と説明している] 。 次のことは、説教壇の上からたびたび繰り返されなければならない。即ち、「人々は彼らの試練と闘うことができ、耐え抜くことができるためには、何よりも先ず第一に、彼らの信頼を天主にこそ置かなければならない」と。 もし、司祭が人々に、罪についての理解を与えないことによって、あるいは、「神は慈悲深く、人々に悔い改めと償いをすることを求めもせずに、あらゆるものを非常に簡単にお許しになる」といったような明るい見通しを彼らの前に置くことによって、安易な道を促進するなら、聖霊はどのように霊魂たちの中に入ることができるであろうか。全ての屋根の上から、「十字架の道こそが天から要求されている」と叫ばれなければならない。人が隣人の救われのためにできる最良の援助は、自らがイエズス・キリストの十字架の後を追うことによってもたらされる。何故なら、善き天主はそれらの犠牲を利用なさるからである。善き天主は、その隣人の救われの助けと成すべく、その犠牲を利用なさる。何故なら、もし人が天主の掟の第一のものを実行すれば、それは天主の掟の第二のもの、即ち隣人愛の掟をも実行することになるからである。人々に対面して捧げられるミサ、天主に向かってではなく人々に向かって呼びかけているかのようなミサは、本当に天主に関した愛の実践なのであろうか? 司祭たちは、ミサというものが比類のない形で行なわれる天主への礼拝行為であり、主の御いけにえを通して天主に栄光を帰する行為であるということを、人々が悟る形で、彼らのミサを捧げなければならない。他の全てのことは、ただ補完的、捕足的なだけである。日々の生活にまつわる、あれこれや、隣人愛について、あまりにも多く説教する司祭たちは、神への愛こそが真の隣人愛に繋がり、真の慈善に繋がることを忘れている。この自己放棄と償いの実践に基づく行動は、もし人々がそれに取りかかるならば、何千何万という霊魂たちに救われをもたらす。ところが、現状は、この正反対で、特権的な霊魂たちが幾度となく、お前たちに想起させてきたように、極めて多くの霊魂たちが、降る雪のように地獄に堕ちている。もし、司教たちや司祭たちが、このように壊滅的な現状を維持することに固執するならば、その時、何千何万という教会が、もはや教会であることをやめるだろう。このようなことは、今、既に始まっている。今日行なわれている説教は、何千何万という信者たちに、天主への奉仕を、ただ上辺だけのものにしておく言い訳を与えるものとなっている。その結果、それらの説教は死の道具となっている。それらの説教が天国に直結しておらず、人々に天国について考えさせることをしないからである。これら全ては、司祭たちが彼ら自身、いい加減な生き方をして、もはや天主のための愛の第一の掟を生きていないからである。そのような者は、内側に虫を抱えたリンゴのようなものである。彼らはもはや、彼らがそうあるべきような道案内ではない。司教たち・司祭たち・修道院長たちが、もし、天主のお定めになった法に従って生きていたなら、お前たちは、お前たちが今日、ローマの中に見ている、この大破局を持つことはなかった。もし、物事がそのようであったなら、天主は、教皇パウロ6世(在位:1963年6月21日~1978年8月6日、 今回の祓魔式1978年4月5日)以外の誰かが、彼の名を使って統治することを、お許しにはならなかったであろう。この事態(偽教皇による統治)は、ヴァチカン市国(ローマ・カトリック教会の国家)から外の世界に広がって行ったものだが、秘密結社フリーメイソンの仕事である。しかし、もし、世界の至る所で百万人の信者たちが、祈り且つ犠牲を捧げる宗教的実践の中に一致して働いていたならば、そして同時に、この状況の中から我々悪霊を追い払って下さるようにと、天主に懇願していたならば、天主は、それを防ぎ、この破局が起こることをお許しにはならなかったであろう。もし、祈りの十字軍があったならば、ローマは今でもローマであったことだろう。私は、このことをも言わなければならない。私は、今日の何千何万という司祭たちに向けて、「女性は、彼ら司祭たちにとって転落の機会となり得る」「もし、彼ら司祭たちが自分自身を祈りでもって武装させることができるならば、そうはならないであろう」と言わねばならない。もし、司祭たちが彼らの聖務日課を再開でき、彼ら自身を教会の博士たち──彼らは祈ることの結果として人間についての偉大な知識を得たのであるが──の教えによって養うことができるならば、彼らにとって物事は違ったふうに進展するだろう。しかし、彼ら司祭たちがそうしなければ、彼らは、今日の何千何万という大罪の中に生きている司祭たちの中の一員であるだろう。何千もの司祭たちが、聖寵の状態の外に生きている。彼らは、もはや聖務日課を祈っていない。ちょうど、かつての私自身がそうであったようにである。もし、私が、せめて自分の守護天使 に「私を助けて下さるように」と祈り求めていたならば...。しかし、私は、そうしなかった。私は、自分自身のために利用できる、あらゆる手段を拒絶した。[守護天使: 天使からの助力は、それを利用するかどうかは私たちの自由裁量に任された形で神によって永久的に置かれたが、もし私たちの闘いが、原罪で損なわれた哀れな人性が持つ罪の傾向に対抗する日々の闘い、私たちの情欲によって絶えず混乱状態にある日々の闘いの範囲を越えたところで、「血肉を持った存在」ではなく、「支配の霊や権威の霊」に対するもの、いわば、「この闇の世界の権力者たち」に対するものであり、「天の者たちの間にいる、邪悪な霊的存在」に対してのもの(エフェソ 6:12)であるならば、天使の助力を得ることは極めて重要である。]   そして、そのような生き方に従いつつ、私は、若者たちを教えることを全くもって怠った。しかし、それでも、今日の司祭たちや若者たちに起こっていることと比べれば、私は、ほとんど悪くはなかった。この警告は、滅びへの途上にある司祭たちの光とならなければならない。以前は、まだ目覚めていた多くの司祭たちがいた。それは、彼らが自己を浄めていたからである。しかし、今日では、司祭たちは広い道を受け入れており、それと同時に滅びへとつながる道を選んでしまっている。もし、彼らのために捧げられる祈りがないならば、もし、悔い改めた霊魂たちが彼らを護るために、彼らのために恩寵を獲ち取るために立ち上がることがないならば、彼らは滅ぶ。これは、にわかには信じられないような悲劇ではある。しかし、私は、事実そうあるものを、その通りに言う他はない。我々の神が「パパ」[Sugar Daddy:〔俗語〕若い愛人の女性に気前よく金品を貢ぐ金持ちの壮年男、おじさま] と似た神ではないが故に、事は一層悲劇的である。神は掟を作った。それらの掟は、永遠である。人々は、それに従わなければならない。そして、信者たちは変化を提唱する聖職者に従ってはならない。何故なら、それは天主の掟に一致した聖職者ではないからであり、しかし、天主と天主の掟は、永遠に有効であるからである。天主は、理由なくして、福音書の中で「片目で天国に入る方が両目を持ったまま地獄に堕ちるよりはましである」と注意を呼び起こしておられるわけではない。 [もし目があなたに罪を犯させるならば、それを抜き取りなさい。片目で神の国に入るほうが、両眼がそろったままで地獄の中に投げ入れられるよりはましである。地獄にはウジがつきず、火も消えることがない。(マルコ 9:47-48)]  我々の時代の司祭たちが、ますます迷うようになっているのは、全くもって彼らの目のせいである。昨今では、司祭たちは彼らの視線を充分には抑制していない。彼らは、彼らの内的生活にとって邪魔物となるイメージを、あまりに多く己が心の内に受け入れている。それは、まずテレビから始まる。次に、非常に多くの婦人たちを抱えた教区での教会活動において、それは継続する。以前は、教会の中に入った女性たちは自分の頭を覆っていた。しかし、この時代においては、もはや、そんなことはされていない。そんな時に何故、祭壇を人々の方に向けるのか? 私、ヴェルディ・ガランデューは、かつて人々に背を向けてミサを立てていた。しかし、それでも、私は、女性たちに誘惑された。今日の司祭たちは、ミサを立てる時、人々の方に向かうから、以前より一層大きな誘惑を受ける。


■8.自己放棄の中で自己犠牲を果たし、神への愛を貫いた聖人たち
天主は、理由なくして、福音書の中で、「(天国に)片目、片手、片足で入る方が、両目、両手、両足を持ったままで地獄の恐ろしい苦しみの中に入るよりはましである」と言ったわけではない。司祭たちは、「福音書は、今日では、その価値を失った」「自分たちは、福音書を自分たちの好みに合わせて変えることができる」などと信じることができるものであろうか? 司祭たちは、「主イエズスは、当時の、その場にいた人々にだけ彼のメッセージを与えたのだ」などと信じることができるものだろうか? 確かに、主の時代の人々は、長いローブを着ており、現代人からすれば、時代遅れの古い風俗習慣に見えるが、この古い風俗習慣の方が誘惑は少ない。現代の司祭たちの心には、「主は、我々の時代の人々に向けてこそ一層お語りになっておられたのかも知れない」ということが思い浮かばない。今日の時代では、技術的な手段により破滅は、ますます広がりつつあるにもかかわらず、そして、誰も起こっていることを止めることができないでいるにもかかわらずである。誘惑は、努力の雨によっては、もはや消すことのできない燃える破滅の炉である。誘惑は、あちらこちらで奮闘している、幾らかの司祭たちも、屈伏を感じさせられるほどのものである。天主は、常に御自分自身を人間各人の自由意志にお委ねになっておられる。その一方で、聖書がそこにある。特に福音書がそこにある。また、天主のお定めになった御命令を絶えず呼び起こさせる、あらゆるメッセージが、そこにある。それ故、もし、人々がそれに聞くことを拒否するならば、できることは何もない。特に人々が福音を自分好みに加工して楽しんでいるならば、尚更そうである。これら全ての慈悲が風の中に捨てられるなら、天は、それについて何ができるだろうか? もし、聖なる書物が、もはや読まれることがないなら、あるいは、聖人たちについての書物が、もはや読まれることがないなら、──たとえば、カタリナ・エンメリックの生涯、アルスの聖なる主任司祭の生涯、我々の時代に偉大な模範を与えたパードレ・ピオの生涯さえ読まれないなら──、天主の恩寵に何ができるというのか。[①アンナ・カタリナ・エンメリック(1774~1824)は、ドイツの聖アウグスチノ修道会の修道女で、幻視者である。2004年、教皇ヨハネ・パウロ2世に列福された。 イエスの受難、聖母マリアの晩年、終末の時代の教会の様子などを幻視した。彼女の幻視に基づくイエスの最期は、米国のメル・ギブソン監督の映画『パッション』となって2004年に公開された。 ②ジャン=マリー・ヴィアンネ(1786~1859)というフランスのアルス教区司祭は、「アルスの聖なる主任司祭」と呼ばれた。フランス革命(1789)で徹底的に破壊されたカトリック教会の信仰を立て直すことに努め、35年間、悪魔に攻撃され続けた。 ③パードレ・ピオ神父(1887~1968)は、イタリア生まれのカプチン会の司祭で、聖痕の奇跡・病者の治癒・予言を現した。]  これらの聖人たちは、個別の愛を通してでありながら、しかし同じ自己放棄の中で、同じ自己犠牲に対する、同じ愛を心に持っていた。これらの聖人たちの償いは、いと高き御方が受け入れるに値するものであった。彼らの場合と全く同様に、天主は、霊魂たちの回心のために捧げられる更に多くの罪の償い及び自己犠牲を受け入れる準備があるであろう。善き天主は、ご自分に向かって次のように言うことのできる霊魂をしばしば愛される──「私は、あなたが私に送られる苦しみを受け入れます。この人の回心のため、あの人の回心のために、私に、それらの苦しみを耐えることのできる恵みを与えて下さい」。 天主が苦しみを送られた時、そのように言わねばならないのであるが、しかし、概してクリスチャンたちは、それらの苦しみを恐怖から力一杯に拒絶する。人は、あまりにしばしば苦しみを避けるためにベストを尽す。しかし、以上に述べて来たような見方に従って物事に対して生きること、そのことを信者たちに説教することは、司祭たちの責任でなければならない。苦しみを拒絶して、それを取り除くことだけを考える者たちは全て、天主の第一の掟に従って生きていない。天主の御意志に従う最上の方法は、次のように言うことである──「私の望みではなく、あなたの望みが行なわれますように」[苦しみは神からの偉大な贈り物であり、偉大な恵みです... それは、天使たちがあなたを羨む唯一のものなのです。もし天使たちが何かを羨むことができるならの話ですが] 。 Mechtilde Thaller(1868~1919) に、彼女の守護天使が言った言葉。 -『The Angels』より。 自分自身をキリストの苦悩と結び付けることは、神の愛に自分の栄光を帰する最良の方法である。もし自分の苦しみを神の御意を受け入れることと結び付けるならば、それは非常に大きな価値を持つ [私はその時、自分に勇気というものが如何に欠けていたか、苦しみが終わることを望んだことが如何に間違ったことであったかを理解した-私は、イエズスがどれほど口では言い表わせないほどの熱情をもって苦しむことをお望みになったかを理解した。一つの霊魂が神の御意に従って忍耐強く苦しむ時、どれほど神の愛と恵みの中に住み始めるようになるかを理解した」(M. Thaller - 上と同じ書物から)] 。


■9.神に関する事柄は、祈りによってしか明確にならない
たとえ、ある苦しみが耐え難いものであったとしても、それをキリストの苦しみと結び付けるならば、それは自分の清めのため、他者の罪の償いのため、その両方の手段となる。私は結婚生活にしばしば特有な苦しみについて考えている。それらの苦しみは、夫婦である彼らが心に抱く「自分はおそらくある日、彼(彼女)と別れることができる」という望みのもとに、如何に拒絶されていることであろうか。しかし、その苦しみが生まれた限りは、それは大いなる償いを達成する機会となり得る。何千何万という人々が、他の人々のことを考えることによって苦しむことができる。与えられたこれらの苦しみは、無駄とはならない。これら全てのことは、今日のカトリック教会において完全に忘れ去られている。このようなことが説教壇から語られることは非常に稀であり、これはあらゆるところで同様である。イエズス・キリストを模倣すること、隣人の救われに配慮することは、重要な事柄である。他の事柄は第二義的であって、「己れの如く隣人を愛せよ」の一文に要約される。[「あなたに近いものを、自分と同じく愛せよ」。この掟はまず旧約聖書の中で、神御自身がモーゼを通してお命じになった(レビ記 19-18)。新約聖書の中で再び我らの主によって命ぜられた。後に、福音史家や使徒たちその他によって再び引用され、伝えられ、語られた。]  もし今、キリストがお前たちの只中に帰って来たならば、キリストのことを再び革命論者のように、狂人のように見なす、何千何万という人々がいるであろう。今日、キリストに従う運命にある者たちは全て、他の人々から愚か者として見られている。人々は自分自身を高めるどころか谷底に降りようとしている。そしてあまりにも多くの司祭たちが、もはやこれらの真理を説教しようとしない。何故なら、それらの真理は彼らにとって鮮明な咎めとなるからである。何故なら、彼らはもうこれらの真理に従って生きてはいないからである。もし彼らが彼ら自身、善徳を実践できるならば、彼らは人々から、もっと善徳を求めることができるであろう。人は「自分で欲しくないものを、他の人は欲しがるだろう」とは考えない。これが、今日のお前たちがカトリック教会の中に持っている、まことに悲劇的な状況である。このことは、司祭たちからローマの枢機卿たちに至るまで同様である。しかし、もし司祭たちがキリストや使徒たちのように生きることができるならば、彼らは霊魂たちを極めてよく照らされた道、極めて安全な道に導くことができるであろう。洗者聖ヨハネやイエズスが彼らの時代に説教したように、現代の司祭たちは回心し、償いをしなければならない。今日の極めて多くの司祭たちは、彼ら自身が悪の方向に進んでしまっているために、努力と善に対して戦いを挑んでいる。彼らは既に深い地獄の穴に通じる幅の広いハイウェイの上にいる。これが、司祭たちに面と向かって言わなければならないことだ。しかし、それは心理学的な手法を尊重したやり方で言わねばならない。また、これは、「ただ彼ら司祭たちの利益のために言われる」という印象を与えるやり方で言わねばならない。主眼とすべきは、「彼ら司祭たちは悪い」と指摘することではなく、「彼ら司祭たちが(本来いなければならない地点まで)戻ろうと望むようになるまで心理学 [人の心の法則] を応用する」ということである。彼ら司祭たちが祈ることをやめているか、そうでないかを、極めて慎重に神経を使いつつ、彼らに問わなければならない。そして、「神に関する事柄は、救霊への配慮と全く同様に、祈りによってしか明確にならない」という認識を彼らにもたらすべきである。司祭がもっと批評を受け入れられるタイプの人だった場合、人は彼らにもう少し忌憚なく話すことができ、おそらく神の御助けにより、彼らを再び正しい場所に戻すことができるだろう。しかし、人の性質は、人それぞれに違っている。必要なのは、パードレ・ピオ神父が、かつて用いていたと同じ手法で、目の前にいる人に応じた対応の仕方をすることである。司祭たちの何人かは無知の犠牲者である。しかし大半は、自分たちが何の不足の状態に陥ったのかを非常によく知っている。彼らに彼らの職務を思い起こさせることが、彼らを天主への一直線の道の上に立ち返らせる方法だろう。そして、もし彼らが自己放棄の道に入ることができたならば 、[「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい」(マルコ 8-34)] その時、彼らの全てが、例外なく全てが、彼らが世話しなければならない霊魂たちをより良く導くことができる。私がこれらの事柄について沈黙を守っていたいというのは、全くもってその通りである。しかし、いと高き御方〔上を指差す〕が私に物事を明かし、回想するようにとお命じになっている場合は、私が地獄の住人であるという事実にもかかわらず、例外である。私は、自分が地獄に堕ちることになろうとは、全く考えていなかった。もし、私が地上に再び戻ることができたなら、その時の私は、私の群れを護るためにどれほどの苦しみを耐え忍ぶことだろうか!? 私は私の群れのために殉教さえ受け入れ、しかも、それを一度と言わず受け入れるだろう。もしそれが天の方々〔上を指差す〕のご意志であるならば、私はそれを自発的に且つ最大の敬虔をもって受け入れるだろう。私にとっての主要なゴールは、まず何よりも、第一の掟を実行することだろう。そして、それを守る方法を探すこと、自分をその掟に相応しいものとすることだろう。私は善き天主に、「どうか私に関する御旨をお示し下さい」と懇願するであろう。「選択に迷った時には最も大変なものを選べ」という原則がある [自己放棄と自己犠牲の道は容易なものではない] 。 司祭たちと信徒たちは、この原則について何か考えているだろうか? 確かに、それは一つの諺に過ぎない。天主がそれを言ったわけではない。しかし、それはこの状況に全く相応しいものである。何千もの司祭たちが安易な道を選んでいるために破滅への途上にある。そう、彼らは最も抵抗の少ない道を選んでいる。この行動は、天主の目に喜ばしいものではない。使徒聖パウロを念頭に置きつつ、幾つかの考え得る解決策のそれぞれを検討し、その中から最良のものを選ぶ術を知ることが必要である。私以前に、悪魔ベルゼブブ・裏切り者ユダ・他の悪霊たちが(別の祓魔式の時に)既に言ったように、まずもって聖霊に祈ることが重要である。あらゆる者が、自分に与えられた真の使命を悟るよう努めなければならない。何故なら、天主は各人について明確なご計画を持っておられるからである。司祭は、その司祭としての地位によって既に天主の御前に高い者とされているが故に、人々の前に自分自身をも、偉大な権威と共に示さなければならない。彼は、人々を自分のもとに引き寄せなければならない。そして、彼が語っている道に彼自身が真に従っているという理由により、人々の中で彼自身を尊敬に値する者としなければならない。それが彼の職務に相応しいことである。信者たちは、彼ら司祭たちを見る前に、自分たちに模範を与える誰かを見ることが必要である。そして、自分たちを破滅に導く者たちや、司祭であるにもかかわらず破滅への道を生きている者たちを見てはならない。司祭と平信徒との間には、大きな距離がなければならない。いと高き御方は、常にそうあるようにと望んでおられる。何故ならば、司祭は恩寵の宝庫だからである。司祭は人々に、教会における大祭司はイエズス・キリストご自身であることに気づかせなければならない。そして、この理由によって、人々の尊敬を自分に引き寄せなければならない。司祭は、自分の全生涯を通して、創造主がどれほど偉大な尊厳をお示しになっているかを、捲まず撓まず思い起こさなければならない。そして司祭は、我々にはそれを崇拝する義務があり、その命ずるところを生きる義務があることを信じなければならない。これらのことは、人の人生の最も初期の頃から教えられるべきことである。子供たちは、たとえ非常に幼い者でも、次のような仕方で教会の中に導かれるべきである。即ち、御聖櫃の前を横切る時には、最も深い信心をもって片膝をつく習慣を持つべきである。子供たちは、その至聖なる秘跡を崇敬するために、次のような祈りを唱えることによって助けられなければならない。「祭壇の至聖なる秘跡は、称えられ、崇められますように」。その時、子供たちは、「自分が天の御稜威といと高き所におられる至聖なる三位一体の偉大さを賛美することを助けて頂けるように」と、聖なる天使たちに祈ることをも勧められなければならない。もし、教会が、至聖なる三位一体に目を上げることが、もはやできないならば、何のためにそこに建っているのか?  もし教会というものが、天主というものは、あらゆる意味で人間を超えたものであると打ち出すこと、至聖なる三位一体の崇高さを指差すこと、天の全能の神をお喜ばせすることが絶対に重要なことであることを思い出させることをしないならば、何のためにそこに建っているのか? もし司祭たちがそのようなことをしないとしたら、その時、子供の両親たちは、少なくとも自分たちの子供たちに関しては、そのようにしなければならない。人は「天主とは崇拝されなければならない存在である」と知らしめることを決してやめてはならない。たとえ自分の周り全ての人たちの霊魂が、非常に悪く、非常に悲惨な状態であったとしても、である。


■10.困難と苦しみから逃げず、神に感謝する
次のことが知らされなければならない。即ち、苦しみが来た時、天主がその困難から私たちを救い上げる勝利の方法を教えて下さることに感謝することが必要である。我々は、天主が我々を善くするため、我々を善徳の道に導くためにお送りになった苦しみに対して、膝を折って天主に感謝しなければならない。困難と苦しみから逃げる人たちは、必然的に善徳を失う。過去の時代においては、司祭という職務の極致を極めた者たちが常にいた。しかし我々の時代においても、同じような生き方をしている司祭たちが何人かはいる。彼らは非常に謙遜に生きている。彼らは、心の中に主の平和を持っているが故に、地上のあらゆるものを凌駕している。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の霊魂を失うことになるならば、何の益があるだろうか?」 [「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか。また、人は自分の命を買いもどすために、何を支払えばいいのか」(マタイ 16:26)] 。 私、ヴェルディ・ガランデューは、「我々の時代は、この主題に関して非常に悪い理解しか持っていない」と言わずにはいられない。その上、贅沢と、この世の快楽のうちに生活している人々は、彼らの霊魂を失う大きな危険のうちにある。フリーメーソン風の思いやりは腐った臭いがするものである。それは真の隣人愛でなく、見せかけから来ているものであるが故に、非常に多くの人々にとって霊魂の滅びとなる。もし、彼ら司祭たちが、自分たちが信者たちをどのような破滅の中に沈ませているかを知ったならば、そのような語り方からは急いで離れ去り、全く違った仕方で話すようになるであろう。人は他者を物質的にも助けなければならないということは明らかな真理である。特に、その人々が非常に惨めな状態に苦しんでいれば尚更である。しかしながら、それでも、それは主要なことではない。主要なことは、護らなければならない教義に対する信仰を、そのまま保持することである。そして、自分の霊魂を売らないことである。隣人愛を実践するということは、本来、隣人を天主へ向かう真っ直ぐの道に案内することである。ああ!? 如何に多くの司祭たちが、彼らの司教たちや枢機卿たちの指示によって、隣人愛を実践する間違った方法 [悪霊ヴェルディ・ガランデューが初めの方で述べた間違った方法] を教会に押し付けてしまったことだろう!  彼らは、そのようにすることによって、この善徳の形状を変えてしまった。しかしそれは、天主がそうであるようにとお定めになったものとは全く違う。何故なら、真の隣人愛は、隣人の霊魂への配慮なしには決して生じないからである。また、この真理を伝えることによって、たとえ人が苦しんでも、この真理を人に示すことは、やはり隣人愛の実践になるからである。後には、その人も、それは全く正しい処方であったと理解する (もし、その人が光を受け入れれば、ではあるが) ようになるであろう。司祭は、説教壇の高みから、彼自身の言葉によって、指揮杖と極めて断固たる言葉を使わなければならない。何故なら、正義は永遠に存在するからである。そして何故なら、彼らがもはやそれを信じず、それ故それについて語ることが決してなかったとしても、地獄はなお存在するからである。彼らは、天国についてさえ、それが最高の現実であるとはもはや信じていない。もし、彼らがそれを信じるならば、彼らが天国に導かなければならない人々、何千という人々を、誤りの中には導かないことだろう。今日、我々は、どのような司祭たちに直面しているだろうか? 私自身は、自分が地上にあった時、今日の彼らほど低劣な話し方はしなかった。彼らは滅びに向かって走っている。そして地獄では、彼らの場所が既に準備されているのだ。〔悪霊は、この最後の言葉を大声で言う〕 しかし、私が今言っていることは、枢機卿たち、司教たち、司祭たち、平信徒たちに、全く等しく向けられている。もし、それら全ての人々が、彼らが巻き込まれている混沌とした状況を認識したなら、彼らは千回も、いや、千の千倍回も、「mea culpa」(我が過ちなり)を繰り返すことだろう。その時、彼らは、自分の首筋を掴んでは、自分の霊魂を喰い散らかしている、それらの虫たちを引き剥がすことであろう。彼らは、その虫たちが至る所に広がらないように、それらを引き剥がすのをやめないであろう。彼らは、霊魂たちの中で、そのように酷い破壊行為をしている、それら寄生虫たちを駆除するために、赤熱したペンチを使うべきである。そして即座に、彼らは愛の第一の掟を実践すべきである。そして、その後に、然るべき隣人愛を実践すべきである。真の愛は、ただ才能によってのみ証拠づけられるものではない。何故なら、同じこれらの才能によって、人々は、なお隣人を地獄への道の上に置いておくこともできるからである。これが、私が言うことを余儀なくされたことであり、また、私がこのように長い間、自分の名を明かすことを拒否して来た理由を説明するところのものである。天の方々〔上を指差す〕は、私にこれを語ることを強いた。それは、私が私自身、その運命を生きて来たからである。即ち、私は私自身、私がそうすべきであったようには、私の司祭職を遂行しなかったからである。天主の十戒における第6戒 [「汝、姦淫するなかれ」] について、私は、「これが贅沢の罪 [贅沢を好む精神は、怠惰な精神、慎みの欠如、放縦の精神でもある。] と並んで、多くの司祭たちにとって滅びの道となった」と言わねばならない。もし司祭たちが、この巨大な悲劇を認識することができたなら、その時、自分の血の最後の一滴に至るまで、自分自身を生け贄として捧げるであろう。その時、彼らは、今まで起きていた、あらゆることに巨大な悲しみを感じ、自分の道を全くゼロからやり直すことであろう。そして、「自分が真の道を再び見出すことができるよう助けてくれるように」と、聖人たちと天使たちに祈るであろう。何故なら、永遠の地獄において、その火は絶えることなく、うじ虫どもは、お前たちの霊魂を永遠に喰い散らかすからである。地獄における、この巨大な苦しみ、この恐ろしい悲劇は、永遠に続く。私、ヴェルディ・ガランデューは、これらのことを言うようにと強いられている。



公開2018(平成30)年3月23日(金)22:20
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2016年9月9日金曜日

『 健全なる精神は健全なる身体に宿る 』



ユウェナリス
1.ローマ帝国の詩人 デキムス・ ユニウス・ ユウェナリス
 『 健全なる精神は健全なる身体に宿る 』 は、ローマ帝国の詩人 デキムス・ ユニウス・ ユウェナリス(55頃~138頃)の『諷刺詩集』 第10編第356行にある 『我々は、健康な身体を以って、心も癒されるように祈り願うべきである』 (ラテン語: orandum est, ut sit mens sana in corpore sano) という詩句に由来し、『身体が強健であってこそ、精神も健全たりうる』 という意味に経年変化した格言だ。 詩人にして法律家のユウェナリスは、その著作において1世紀のローマ帝国にいたユダヤ人とユダヤ教に関する記録を残したため、ユダヤ人であると考えられている。 ユダヤ人でない限り、ユダヤ人とユダヤ教に注目して記録する動機と必然性が無いからだ。 さて、『 健全なる精神は健全なる身体に宿る 』 という格言に関しては、同意・不同意・賛成・反対といった様々な意見があるものの、自己の体験から言えば、まさしく真理の格言である。



2.『大腰筋ブック』の著者 エリザベス・ コッホ女史による心身相関論
エリザベス・ コッホ
(1) 精神的ストレスを蓄積する大腰筋
 精神医学界においては、『漠然とした恐怖感・ 不安感・ 鬱病は、脳に原因がある。 また、精神的ストレスは、脳で感ずる』 と考えられてきた。 このため、世間一般でも、同じように頑固に信じているかもしれない。 しかし、『漠然とした恐怖感・不安感・鬱病は、「魂の筋肉」と呼ばれる大腰筋の萎縮した緊張状態に原因がある。 また、大腰筋は、無自覚の精神的ストレスを感じ取り、受け止め、蓄積している』 という考え方が正しい。 大腰筋は、脊髄から股関節の近くで動作しており、人体のバランスを保って直立させ、柔軟で安定した歩行を可能にしている最も重要な筋肉であり、しかも、大腰筋は、身体の様々な動きを可能にしている以上に、精神の健康状態と密接な関係にある。 この関係性については、『大腰筋ブック』 (The Psoas Book, 2012)の著者 エリザベス・コッホ女史が詳しい。 彼女は、米国の「ソマティック」  な健康科学の教育者であるが、次のように述べている。 ・・・・・ 『大腰筋とは、腹部・腰部にある多くの腸腰筋の中の一つであり、生存したいという最も深い衝動と、繁栄したいという基本的な欲望の身体的な現れだ。 大腰筋は、呼吸を調節する横隔膜ともつながっているし、恐怖感・不安感・本能欲といった原始的な感情を全身に伝達する筋肉でもある。 なぜなら、大腰筋と脊髄の索状組織は直接につながっており、脊髄は人類最古の脳である爬虫類脳とつながっているからだ。 この爬虫類脳は、思考力(知性・理性)とは無関係な闘争本能や反射的動作を司っている最も原始的な脳だ。 例えば、言語を使用せず、大脳皮質の未発達な進化段階にあった原始人は、その爬虫類脳が、その生存を複雑な環境の中で確かなものにしていた。 従って、人は、大腰筋が弱って萎縮した緊張状態にあると、爬虫類脳に悪い刺激を送り、悲観・ 暗鬱・ 憤怒・ 憎悪・ 闘争・ 猜疑・ 放縦 といった原始的・本能的・否定的な感情に支配され易くなる。 だから、そうならないために、大腰筋を鍛えて健全に保ち、萎縮した緊張状態を解消する必要がある。 大腰筋を鍛えることにより、弱って萎縮した大腰筋の緊張状態を解消し、爬虫類脳に対する悪い刺激の伝達を抑え、爬虫類脳の暗黒面の現れである漠然とした恐怖感・ 不安感・鬱病などに陥ることなく、心身を健全に保つことができる。』  
 「ソマティック」とは、「ソーマ」(Soma)という、古代インド神話 『リグ・ ヴェーダ』にある不思議な「霊薬」 「神酒」に由来した流行語であり、「自己の身体を通じた体験的な学び」を意味する。 『リグ・ ヴェーダ』は、紀元前12世紀頃に編纂された古代インド神話 『ヴェーダ聖典』の一つであり、サンスクリット語の古形のヴェーダ語で記された。 『リグ・ ヴェーダ』は、神々と人間に活力を与え、寿命を延ばし、霊感をもたらす「霊薬」 「神酒」の「ソーマ」を賛美している。 但し、「ソーマ」の正体が何であるかは不明だ。 その推測をするならば、『聖書』における「善悪の知識の木の実」と対照的な「生命の木の実」を指すと想われる。 そして、現代社会においては、古代インドを発祥地とするヨガに代表される「自己の身体を通じた体験的な学び」を一般的に「ソマティック」と表現しており、インド由来の神話色・宗教色を排した「ソマティック」な心理学・ 健康科学・ スポーツ・ 自然療法が静かに流行している。 



大腰筋の図解2




大腰筋の図解1




















(2) 『聖書』の健康観
 『聖書』の健康観を調べると、暴飲暴食を戒めて 『大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな』(箴言 23:20)とか、キリストが病人を救うために地上に来られたことについて 『医者を必要とするのは、丈夫(健康)な者ではなく、病人です』(マタイ 9:12 他)とある。 そして、不健康な病人は、悪霊憑依・ 悪人・ 罪人・ 霊的死人 と同義語であり、万人が病人であるため、神は人に『聖書』の全体を通じて、罪 を悔い改め、神に回心し、肉体的・ 精神的・ 霊的な健全性を回復すべきことを求めている。 しかも、「イザヤ書」 第58章には、病気を癒す方法が書いてある。 長文のため、要約すると、次の ~  となる。
 A. 身体を戒める断食をすること
 B. 諸々の悪から離れること
 C. 弱者を助けること
 D. 罪の奴隷の解放に尽力し、自由を与えること
 E. 貧しい者に施しをすること
 F. 飢えている者に食べ物を与えること
 G. 家の無い者を自宅に招き、その者に住居を与えること
 H. 衣服の無い者に衣服を与えること
  I. 肉親の世話をすること
 J. 悩む者の願いを満足させること
 K. 安息日を厳守して遊興・旅行・仕事をせず、欲望を抑え、無駄口を慎むこと
以上の ~  に、日々、心を砕き、実際に行い、人生の善き習慣となったとき、イザヤ 58: 8 『暁のように あなたの光が(心の中から)さしいで、あなたの傷は すみやかにいやされる』、 イザヤ 58:11 『(神は、) あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする』 と書いてある。 特に、A の断食は、毎週1日~2日間行うことにより、身体の自然治癒力・ ホメオスタシス(体内環境を調整する生体恒常性)・ デトックス(身体からの排毒作用)を高め、短期間に身体を健康にする。

 罪とは、神の律法(モーセの十戒・ 山上の垂訓)に従わない不法に起因する、恐怖・ 怯懦・ 無知・ 迷信・ 高慢・ 利己・ 憤怒・ 憎悪・ 嫉妬・ 悪意 といった否定的感情に支配された 不幸で不健全な心身状態を指す。 なお、雑草は、刈り取っても、しばらくすると生えてくるように、聖霊に贖われ、清められた罪も、しばらくすると、心の中に生じてくる。 なぜなら、ローマ 8: 7 にあるごとく、肉の思いは、御霊の思いと争い、神に反抗し、神の律法に服従できないからだ。 このため、信仰による罪の悔い改めを経て、水と霊のバプテスマを体験したクリスチャンは、神である主イエス・キリストの御霊である聖霊に罪を贖われ、罪を清められた後も、心の中に生じてくる罪に勝利し続ける堅い信仰生活を送らねばならない。 かくして、クリスチャンの信仰生活と、その一切の行動は、神である主イエス・キリストの調査・審判を経て、最終的に罪を除去され、神である主イエス・キリストの御再臨の前に、神である主イエス・キリストとの霊的一体化(結婚)を果たす。



3.『心身相関』の真理
(1) 原因不明の痛み・慢性疲労・不眠などの原因は、精神的ストレス・ 過食(+食品添加物)・ 運動不足にある
 精神医学や生理学の最新の研究成果によって、『肩こり・ 腰痛 といった原因不明の痛み・慢性疲労・不眠などの原因は、精神的ストレス・ 過食(+食品添加物)・ 運動不足にある』 と分かってきた。 つまり、 『心身相関』 とは、人の健康に関する真理であって、無自覚の精神的ストレス・ 過食(+食品添加物)・ 運動不足が、身体の一部の痛み・ 慢性疲労・ 不眠などになって現れる。  そして、過食(+食品添加物)と運動不足は、自己の注意力と意志さえ強ければ改善できるため、特に、精神的ストレスに警戒しなければならない。 なぜなら、精神的ストレスを明確に自覚できる人は、極めて少ない。 精神的ストレスの原因と思われる人間関係・ 金銭問題・ 適職求職・ 居住環境などを何らかの方法によって改善・解決するか、あるいは、精神的ストレスに打ち勝つ「強い精神力」=「健全な心身」を養えば、肩こり・ 腰痛 といった原因不明の痛み・ 慢性疲労・ 不眠などを解消できる。 逆に、精神的ストレスを解消するために製薬会社と病院から勧められた薬物に安易に依存してはならない。 『睡眠薬などは、製薬会社と病院が自己の営利目的を最優先して、通院患者の病状を悪化させるために販売している』 と糾弾されても仕方のない悪い医療利権体制が出来上がっているため、点滴注射を含む一切の薬物の過剰接種を極力避けるべきである。 眠れなければ、無理に眠ろうとせず、読書などをして過ごす方が望ましい。 本編では、精神的ストレスに打ち勝つ「強い精神力」=「健全な心身」を養うことに焦点を合わせ、コッホ女史の研究成果に従い、腸腰筋の中の一つである大腰筋を自己トレーニングによって強化し、無意識の中に蓄積された精神的ストレスを「強い精神力」=「健全な心身」によって解消すべきことを推奨する。

(2) 日本語の慣用句にみる『心身相関』の真理
 日本語の慣用句には、腹・腸・腰 に関するものが非常に多いが、『心身相関』の真理を深く認識するため、一覧表を作成した。 日本語の慣用句にみる腹・腸・腰 とは、コッホ女史の言う「大腰筋の働き」と同じである。
  腹を探る=人の心の中を伺う
  腹が収まらない=心底からの怒りが収まらない
  腹の大きい人物=心が広く、度量の大きい人物
  腹が黒い=心に悪だくみがある、心根が悪い、意地悪い
  腹が据わる=覚悟を決める、落ち着く、「腹を固める」 「腹をくくる」と同じ
  腹が立つ=怒る、しゃくにさわる
  腹ができる=覚悟ができる、決心がつく
  腹が太い=度量が大きい、胆力がすわっている
  腹に一物=心中に悪だくみがある
  腹に落ちる=合点がいく、腑に落ちる
  腹が癒える=怒りや恨みをはらす、気持ちが収まる
  腹をえぐる=人の底意を見透かして鋭く尋ね問う
  腹を固める=覚悟する、決心する
  腹を見抜く=相手が隠している考えを見透かす
  腹を読む=相手の心中を推測する
  腹を割って話す=包み隠さず真意を話し合う
  腹を合わす=心を合わせて一致協力する
  腹芸=度胸や経験で物事を処理すること
  腹構え=度胸をすえて物事を待ち構えること
  はらわたが腐る=精神が腐敗堕落する、性根が腐る ( はらわた=腸 )
  はらわたがちぎれる=悲しみに耐えられない状況だ
  はらわたが煮えくり返る=怒りに耐えられない状況だ
  はらわたに染みる=深く感銘する、飲んだ酒が体中に染みわたる快い感じだ
  腰砕けになる=腰が砕けたように物事に立ち向かう気力や勢いが無くなる
  腰を入れる=覚悟を決める、本気になる
  腰を押す=後方から押して助力する、そそのかす
  腰を落ち着ける=物事にじっくり取り組む、場所に定着する
  腰を抜かす=びっくりして立ち上がる力を無くす
  腰を割る=スモウで両脚を開き、腰を落とし、強い外力に耐える構えをとる

(3) 悪魔・悪霊の憑依と チャネリング(霊媒現象)は、大腰筋を通じて起こる
A.得体の知れない霊的存在者とのチャネリング(霊媒現象)
 武田崇元(1950~)著  『出口王仁三郎の霊界からの警告』(1983)の中から、チャネリング(霊媒現象)に関係した部分を抜粋しよう。 特に、チャネラー(霊媒者: 出口ナオ)の腹・腸・腰 を通じて、得体の知れない霊的存在者とのチャネリング(霊媒現象)が始まった点に着目したい。 ・・・・・ 『明治25(1892)年の元旦の夜、(後の大本教の開祖となる)出口ナオ(1837~1918)は、あばら屋の壁ぎわにすわって、発狂した長女のことや行方不明の長男のことを思い浮かべ、これまでの辛い人生を振り返っていた。 夢か、うつつか、体がふんわりと軽くなり、天に昇るような気分になってきた。 気がつくと、白い衣を着た仙人のような人が眼前に立っていた。  そのような不思議な体験がしばらく続いたある夜、ナオ腹の中にずしんと大きな力が宿るのを感じた。 しかも、その力は腹の底からぐんぐんと上がってきて、声になって出ようとする。 ナオは歯を食いしばって声を出すまいとするが、声はそれをこじあけて出ようとする。 ついに耐えきれなくなって口をあけると、ナオは自分でも驚くほどの大声を張り上げていた。   「われは、艮(うしとら)の金神である。 今の世は、金輪際の悪人の世。 世を立て替え、善の世に直すぞよ‥‥」   自分の口から出る声は、力強く、まるで男のような声であり、すでに55歳のナオにとっては、耐え難い苦しみだった。  「やめてくだされ。 そんな偉いサマが、なんでわしのような屑拾いなどにお憑かりなさるのか‥‥」  するとは、こういう。  「この世の代わり目にお役に立てる身魂であるから、わざと根底に落として苦労ばかりさせてあろうがな」  さらにナオが、何のために降臨したのかを再び問うと、  「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。 この神でなければ、世の立て替えはでけぬ。 三千世界の大掃除大洗濯をいたすのじゃ。 三千世界ひとつに丸めて万劫末代続く神国の世にいたすぞよ」  とこたえた。  こうして、ナオの神憑かりは始まった。 そのうち、この「艮の金神」と名のるは、ナオの口をかりて、予言や警告めいたことを口走るようになる。』

※ 艮の金神は、大本教により、日本神話に適合するように、『古事記の国之常立神・ 日本書記の国常立尊と同一神だ』 と宣教されたが、『真の正体は不明だ』 とも語られてきた。 しかし、『聖書』の視点から、艮の金神の啓示内容を吟味する限り、悪魔サタン=ルシファーに他ならない。 それに、『 艮の金神 ⇒ 古代日本の陰陽道の方位である丑寅(東北) ⇒ 凶神の住む方位の鬼門 ⇒ 古代中国の易経と陰陽道の方位である金気・太白・金神 ⇒ 古代中国の天文学の太白星 ⇒ 天文学の金星・ 明けの明星 ⇒ 「聖書」の悪魔サタン=ルシファー 』 という相互関係にある。 しかも、チャネリング(霊媒現象)の始まった明治25(1892)年は、イルミナティの「黒い教皇」 アルバート・パイク(1809~1891)、神智学の創始者 ヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831~1891) ら 邪悪な霊的指導者たちの死去直後で、欧米諸国に対する悪魔の「長期計画」が一段落した時期でもある。 かくして、魔の手は、世界史の行方を決定してきた大日本帝国の中に伸び、悪魔の「長期計画」の霊的な種を撒いた。 悪魔サタン=ルシファー の予言が的中したにせよ、その霊的な導きの先にあるものは、日本人の家畜化と日本社会の犯罪化を招く 偽キリスト・偽預言者の大量生産である。 結果的に、出口ナオのチャネリング(霊媒現象)が、戦後の日本社会に蔓延した数多くの新興宗教の霊的ルーツになった。 但し、国家神道を含む従来の伝統的な宗教も、錯誤・虚偽・欺瞞・迷信に満ちた邪教宗団であった為、『新興の革新勢力の悪が、伝統守旧勢力の悪と戦前・戦中・戦後を通じて宗教的・政治的に抗争したあげく、伝統的な守旧勢力の悪を併呑し、錯誤・虚偽・欺瞞・迷信を宣伝した結果、悪の勢力は戦後の日本社会の中で勢力を拡張した』と分かる。

B.悪魔・悪霊の憑依と チャネリング(霊媒現象)に関する考察
 多感な大学4年生(22歳)の時に体験した不思議なチャネリング(霊媒現象)について証言しておくと、自己の脊髄の底、即ち、腰の奥の方に横たわる無意識の中から、得体の知れない霊的存在者が、「ズッ、ズズッー」という異次元世界から派生したような重低音を脳内に響かせ、脊髄を這い上がってきたと感ずるや否や、自己の意識を占領されてしまい、その霊的存在者の力強い明確な言葉が、自己の口から勝手にほとばしり出たことがあった。 このような自己の神秘体験からしても、『悪魔・悪霊の憑依と チャネリング(霊媒現象)は、大腰筋を通じて起こる』 と言える。 それに、イルミナティの「夜の妖精」 クロチルデ・ベルソーネや、アドルフ・ヒトラー(1889~1945-)たちのチャネリング(霊媒現象)も、自己の神秘体験と同様のものであった。 但し、善なる聖霊・天使は、人に憑依しない。 また、チャネリング(霊媒現象)のように、人の無意識を通じた内部(下=地)からの霊的コンタクトを行わず、人の意識を通じた外部(上=天)からの霊的コンタクトを行う。 このことは、悪魔・悪霊とのチャネラー本人、あるいは、聖霊・天使とのコンタクティー本人にしか実感できず、かつ、認識できないことではあるが、善なる聖霊・天使と 悪なる悪魔・悪霊による人に対する霊的コンタクトの方法は、完全に異なっている。 従って、『チャネリング(霊媒現象)に現れる霊的存在者の99%は悪霊であり、1%は悪霊の軍勢を率いる悪魔だ』 と分かる。 しかも、チャネリング(霊媒現象)・ コンタクト(降臨現象)は、チャネラー本人・ コンタクティー本人の意志によってはコントロールできない、霊的存在者からの「一方的な選び」によって起こる不思議な心霊現象かつ超能力現象である。 

C.大腰筋に対する最新の認識
 脊髄・ 爬虫類脳と直結している大腰筋は、自律神経系・ 内分泌系のホメオスタシス(体内環境を調整する生体恒常性)と、精神(=意識・ 無意識)の健全性を保っている。 また、大腰筋・ 脊髄・ 爬虫類脳と相関関係にある無意識の作用により、悪魔・悪霊の憑依とチャネリング(霊媒現象)が起こる。 一方、大脳と相関関係にある意識の作用により、物事を思考(=知性=理性)し、意志に基づく行動をとる。 従って、大腰筋を漠然と「魂の筋肉」と呼ぶよりも、「人の無意識の作用を自動制御している筋肉」 「異次元世界とつながる筋肉」と呼ぶ方が的確だ。 そして、『心身相関』は真理であるから、大腰筋を鍛えて健全化すれば、精神(=意識・ 無意識)も健全化する。



4.大腰筋トレーニング方法
 最も効果のある大腰筋トレーニング方法の「ウォーキング・ランジ」を最初から実施できるのであれば、それに越したことはないが、悪魔・悪霊に憑依され、恐怖感・不安感・鬱病などの否定的感情に囚われ、精神的ストレスに基づく原因不明の痛み・慢性疲労・不眠などに苦しんでいる人は、(1)「レッグ・レイズ」 (2)「ニー・レイズ」 (3)「バイシクル・トレーニング」 (4)「ウォーキング・ランジ」 の順番で徐々にステップ・アップしながら、自己の心身を大腰筋トレーニングに慣らして行った方が良い。 なお、大腰筋トレーニングの最終的な効果を述べておくと、『肉体的・ 精神的・ 霊的な諸問題の70%以上は、「ウォーキング・ランジ」によって解消・予防できる』 というものだ。 まさに、『健全なる精神は健全なる身体に宿る』 のであり、簡単な自助努力によって大腰筋の健全性を保つことにより、肉体面の原因不明の痛み・慢性疲労・不眠といった諸問題、 精神面の無自覚的ストレス、霊的な悪魔・悪霊の憑依に起因した疾病などの不幸な諸問題を解消・予防できる。 但し、肉体と精神を普通に健全化するレベルに留まる。 つまり、霊の健全化を果たすレベルは、信仰による罪の悔い改めという「罪に対する勝利」と、この勝利後の行動を神に調査・審判され、神との霊的一体化(結婚)を通じた「罪の除去」を果たす日まで成しえない。 なお、肉体的なメリットは非常に多い。 例えば、エレベーター・ エスカレーターを使わずに階段をのぼった場合、以前のように息切れして疲れることが無くなる。 むしろ、階段をのぼることを気持ちよく感ずるようになる。 そして、何事にも快活になれる。

(1)「レッグ・レイズ」・・・・・1日10回を目安に行う。 「Leg」とは腿から足先までの「脚」を指す。また、「Raise」とは「持ち上げる」「起こす」という動詞と名詞だ。
A.バスタオルなどを敷いた柔らかい床に仰向けになる。 両手は、頭よりも腹上または腰下に添えると良い。
B.両脚を伸ばしたまま、両足のかかとを床から15センチの高さで、5秒間キープする。
C.ゆっくりと呼吸しながら、伸ばしたままの両足の爪先を天井の方向に持ち上げて行く。
D.両脚と床の角度が45度になったら、両脚の持ち上げを止め、10秒間キープする。
E.伸ばしたままの両脚を下げて行き、両足のかかとを床に絶対に着けない。 これを1回とする。
https://youtu.be/JB2oyawG9KI(1:13)

(2)「ニー・レイズ」・・・・・1日10回を目安に行う。 「Knee」とは「膝」を指す。
A.バスタオルなどを敷いた柔らかい床に仰向けになる。 両手は、頭よりも腹上または体の横に添えると良い。
B.両膝を同じ高さで90度に曲げた状態で、両足のかかとを床から10センチの高さの位置を保ったまま、10秒間じっとする。
C.両膝を90度に曲げた状態のまま、両膝を胸の上まで、ゆっくり引き寄せる。
D.同じ姿勢と同じ脚の状態を保ったまま、両足のかかとを床から10センチの高さまでゆっくり降ろす。 これを1回とする。
https://youtu.be/aB6x-vR63zE(1:54)

(3)「バイシクル・トレーニング」・・・・・1分間1セットを、1日10セットを目安に行う。 「Bicycle」とは「自転車」「自転車漕ぎ」の動作を指す。
A.バスタオルなどを敷いた柔らかい床に仰向けになる。 頭の後ろで両手を組み、背中を床に着けない姿勢をキープする。
B.背中を床に着けない状態をキープしながら、自転車に乗った時のように両脚で交互に宙をかく。 
C.両脚で交互に宙をかく動作に合わせて、胸胴を左右にねじる。 両足のかかとを床に近づけると、負荷がより強まる。 1分間で1セットとする。
https://youtu.be/9FGilxCbdz8(1:24)

(4)「ウォーキング・ランジ」・・・・・20歩1セットを、1日1セットを目安に行う。 「Walking」とは「歩行」「散歩」、「Lunge」とはフェンシングの「突き」の動作を指す。 このトレーニング方法により、大腰筋を含む腸腰筋の全体と臀部・腿の筋肉を鍛錬し、また、膝を曲げて上半身を沈めている時に神経系と体幹(胴)の協調性、即ち、バランス感覚を養える。 このトレーニング方法を始めると、全身から汗が吹き出し、意識が朦朧としてくるが、それだけに、心身の健全化に一番効果がある。 なお、バーベルを肩に乗せたり、ダンベルを両手に持つと、更に負荷のある終極的なトレーニングになる。
A.立った状態のまま、歩く時と同じように、片足を一歩前へ踏み出す。 この時、両足の爪先を前方に向ける。
B.上半身を床に垂直に保ち、前足の膝の角度が90度になるまで、ゆっくり上半身を沈め、後足の膝を床に絶対に着けない。
C.ゆっくりと呼吸し、20秒間その姿勢でじっとする。 慣れないうちは、横に倒れそうになるため、近くの壁や椅子に手を添える。
D.膝に頼らず、体全体を床に垂直に起こし、次に後足を前に踏み込み、膝の角度が90度になるまで、上半身を沈め込む。
E.以上を繰り返す。 目線を前方に向け、上半身を床に垂直に沈めたまま、20秒間じっとする。 これを20歩で1セットとする。
https://youtu.be/7mDWDlzFobQ(1:40)
https://youtu.be/7SMzPn4LGjQ (1:21)



備 考 : 身体トレーニングの間、知的な刺激がないと退屈であるし、長続きしない。 そこで、「俗」と「聖」の動画を視聴しながらトレーニングするとよいだろう。 「俗」とは、世俗社会の政治のことで、(宗)幸福の科学の信者にして元格闘家の与国秀行氏の動画だ。 『私は天皇よりも偉い』と狂信する同団体教祖と、大統領制を目指す政治目的には反対であるが、マスメディアの報道しない希少な情報を得られる。 また、「聖」とは、天地を貫く神意のことで、(宗)セブンスデー・アドベンチスト教会教団の腐敗堕落に起因した内紛分裂騒動を経て、同教団から離脱・独立した、沖縄県にある単立教会(宗)サンライズ・ミニストリーの教師 花城健氏の動画だ。 『聖書』の基本認識において一致するし、今まで関知しなかったテーマを深く追求しており、霊的に啓発される。 

世俗社会の政治に関する動画一覧
http://ameblo.jp/uttaetotatakai/entrylist.html

天地を貫く神意に関する動画一覧
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%8A%B1%E5%9F%8E%E5%81%A5




箴言 3: 7- 8
『自分を知恵のある者と思うな。 主を恐れて、悪から離れよ。 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。』

箴言17:22
『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』

マタイ 9:12マルコ 2:17ルカ 5:31
『(パリサイ人たちは、悪人・罪人と食卓につくイエスに疑問を呈した。) イエスはこれを聞いて言われた。 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。・・・』

1コリント 3:16-17 -使徒パウロから、肉に属する人、キリストにある幼子の兄弟たちへの言葉-
『あなたがたは 神の神殿であり、神の御霊が あなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 もし、だれかが 神の神殿をこわすなら、神が その人を滅ぼされます。 あなたがたが その神殿 です。』

神の神殿の3重性(天国-教会-自己)
.天国の神殿=『天にある、神の神殿』(エゼキエル40章-48章黙示録11:19) 
2.地上の神殿=モーセに始まる「移動式の幕屋」とソロモンに始まる「固定式の神殿」=旧約聖書の時代の神殿 
3.キリスト者の群れ=土地・建物の教会とは異なる『キリストの体』(1コリント12:12エペソ1:22-23同2:15-15同3:6同4:4同4:11-12同4:16同4:25同5:22-23同5:28同5:29-30コロサイ1:24)・『御霊の教会』(黙示録 2:7) 
4.キリスト者の心身=『神の神殿』・『聖霊の宮』(1コリント3:16-17同 6:19-20)・『生ける神の宮』(2コリント6:16)・『霊の家の生ける石』(1ペテロ2:5
 
1コリント 6:19-20
『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。』

3ヨハネ 2
『(ペテロいわく) 愛する者(ガイオ)よ。 あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』




公開2016(平成28)年9月9日(日)02:53
saintsfellowship@outlook.com 聖書伝道会
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