2012年8月9日木曜日

『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解6 』



6.『聖書』 に示されている「悪」への対処方法

 主イエス・キリストが、「山上の垂訓」において弟子たちに『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(マタイ5:44ルカ6:35)と教導した理由については、『聖書』に示されている「悪」への対処方法を理解することにより判明するため、これに関連する聖句を次に挙げる。

申命記32:35
『復讐と報いとは、わたし(神)のもの、それは、彼ら(神ではない悪霊に、いけにえを捧げた者たち)の足がよろめくときのため。 彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」 』

詩篇97:10
『主を愛する者たちよ。 悪を憎め。 主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。』

箴言8:13
『主を恐れることは悪を憎むことである。 わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。』

箴言24:19
『悪を行なう者に対して腹を立てるな。 悪者に対してねたみを起こすな。』

ローマ12: 9
『愛には偽りがあってはなりません。 悪を憎み、善に親しみなさい。』

ローマ12:17
『だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。』

ローマ12:19-21
『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。 神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。 「復讐はわたしのすることである。 わたしが報いをする、と主は言われる。」 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。 渇いたなら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。』

2コリント 2:10-11
『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。 私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。 これは、私たちがサタンに欺かれないためです。 私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

 以上の聖句に見られる「悪」への対処方法には、人が作り上げた世俗的な法律と道徳的な規範を超越した下記(1)~(3)の「戒め」が示されている。



(1) 悪魔の策略に、はまらない

A. 悪魔は、人の「欲望」を刺激して、悪と罪と死を広める
(A)欲望とは何か?
 欲望とは、欲しがること、欲しいと思う心、不足を感じてこれを満たそうと望む心の状態である。そして、聖霊を受けた真のクリスチャンと言えども、人である限り、人の「五感」(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)から生ずる欲望があり、また、物事を思考しながら社会生活を送っている以上、思考から生ずる金銭欲・知識欲などの欲望がある。 従って、人は、自己の欲望を征服しなければならない。「欲望を征服する」とは、「欲望の奴隷に陥らず、自制心をもって欲望をコントロールできる者になる」という意味だ。例えば、人には、生物としての睡眠欲・食欲・性欲があるが、これらの生理的欲求に支配されないように、惰眠に陥らない規則正しい生活を送り、食欲を自制する断食によって身を戒め、性欲を刺激するポルノ画像を避け逃れ、幾多の聖人の生涯を模範として貪欲で愚かな金銭欲を放棄しなければならない。 但し、下記の(D)に述べるように、欲望を否定するのではなく、欲望と結びつく感情を常に肯定的なものに保ちながら、華美・過剰・貪欲・不健全になり易い生活態度を悔い改め、質素・小食・清貧・健全な生活を送るという意味である。

(B)マズローの「欲求五段階説」
 米国の心理学者アブラハム・マズロー(1908~1970)は、人の「欲求五段階説」を提唱した。「欲求」とは、「欲望を満たすために要求し、実際に行動すること」を意味する。 マズローの「欲求五段階説」においては、人の欲求は五段階のピラミッド状に構成されている。 欲求ピラミッドの最底辺部を構成する五段階目には、人が生きる上で不可欠な睡眠欲・食欲・性欲と、社会生活を営む上で不可欠な住居と衣服の必要性を満たす「生理的欲求」が位置する。 四段階目には、身の回りの危険・事故・暴力・犯罪のみならず、経済変動・環境破壊・事変戦争・自然災害から自己・家族・組織・社会を守ろうとする「安全の欲求」がある。 三段階目には、同じ価値観を持つ人々と親しくなるために、身近な趣味・娯楽・事業・宗教から国家に至るまでの各種の集団への帰属意識を満たそうとする「親和の欲求」がある。 二段階目には、集団の中において尊敬され、価値と名誉のある存在として認知されようとする「自我の欲求」がある。 人の欲求・欲望の頂点である一段階目には、自己の能力を発揮して創造的活動に従事し、自己の人生目標を達成しようとする「自己実現の欲求」が位置する。 この学説に異論はない。但し、人の欲求・欲望には限界がないため、人はSF空想小説などの芸術創作活動を通じて、自己の実現できない欲求・欲望を想像力によって満たそうとする。

(C)欲望の10種類
 マズローの「欲求五段階説」とは別に、21世紀の現代人の心の中に見られる欲望の10種類をわかり易く表現すると、次のようになる。 愛と性欲 食欲 金銭欲 知識欲 自己表現欲 他人への支配欲 セレブ模倣欲 他人への優越欲 恐怖からの逃避欲 死後の永遠の生命欲

(D)欲望と感情の関係性
a.強力な意識エネルギーである欲望
 心理学の研究成果から言えば、欲望は、意識エネルギーの塊(かたまり)だ。 欲望があればこそ、思考を行動へと駆り立て、現実の形あるものに変換できる。 具体的に言えば、欲望が感情と結びつくことによって、思考を現実の形あるものに変換できる。 従って、欲望が無ければ、ガソリン・エネルギーのきれた車に乗ったような人生を歩むことになる。 だから、欲望を否定してはならず、肯定すべきであり、欲望と結びつく感情を肯定的なものに保たねばならない。

b.「肯定的感情」と「否定的感情」
 感情とは、意識の状態をいう。 感情は、「肯定的感情」と「否定的感情」の2つに区分できる。 なお、悪魔・悪霊・悪人は、人の心の中に「否定的感情」を作り出すために活動しており、また、「否定的感情」に支配された人に、悪魔・悪霊が憑依し、その心身も不幸な状態になる。 逆に、心身が不幸な状態にあるということは、その原因となる罪-自己自身と周囲に不幸を招く恐怖怯懦と無知迷信などの「否定的感情」-に支配されているということだ。例えば、恐怖とは、貧困になること・ 死ぬこと・ 非難されること・ 病気になること・ 失恋すること・ 老いること・ 悪魔とその働きを恐ろしく感ずる気持ちである。 恐怖を打ち消せるのは、神から来る確信のみであり、無知=迷信を打ち消せるのは、神から来る正しい思考(=知性=理性)によって得た自由=真理のみだ。
  「肯定的感情」=確信・自由・真理・解放・信仰・愛情・希望・勇気・楽観・快感・優和・歓喜・忍耐・健全
  「否定的感情」=恐怖・無知・迷信・奴隷・背信・憎悪・絶望・臆病・悲観・苦痛・憤怒・嫉妬・羨望・不幸

c.人の罪とは何か?
 『聖書』には、1ヨハネ 3: 4  『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。』 と書いてある。 つまり、人の罪とは、神と自己自身に対する罪であり、モーセの十戒とイエスの山上の垂訓に逆らい、背き、不法を働くことだ。 しかし、なぜ、人は律法に逆らい、背き、不法を働くのであろうか? この原因は、『人の霊と肉の対立』ローマ 8: 7ガラテヤ 5:16-21 )にある。人の罪とは、悪魔・悪霊・悪人や死と同義語であり、人の心にある人生上の諸問題に対する恐怖・怯懦と、占い・偶像礼拝・悪魔崇拝・拝金主義・共産主義・科学万能主義・人間中心主義などの無知・迷信に他ならない。

ローマ 8: 7
『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』

ガラテヤ 5:16-21
『私(使徒パウロ)は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのため あなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にも あらかじめ言ったように、私は今も あなたがたに あらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』

(E)アダムとイブに見られる「知識欲」と「否定的感情」
 人の欲望に関連した聖句を「ヤコブの手紙」より挙げよう。悪魔が、人の欲望を刺激して、人を悪と罪と死へと誘惑することが記されている。 ちなみに、最初に創造された人であるアダムとイブは、蛇に化身した悪魔サタンから「知識欲」(ギリシャ語:グノーシス)を掻き立てられ、神の命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、原罪を背負った。 但し、アダムとイブの「知識欲」を否定してはならず、彼らの「知識欲」と結びついた「否定的感情」こそを問題にすべきである。 つまり、彼らは、神の命令に背くが故に、自己の思考(判断)と行動(行為)に確信を持てず、自己の身の上に何が起こるか分からないという恐怖に満ちた感情を抱いた。このように、悪魔・悪霊・悪人によって「欲望」を刺激され、巧妙に誘惑された人の心の中に生まれた「否定的感情」こそが、その人に病気・事故・災難などの不幸な現象を引き寄せて現実化してしまう。

1テモテ  6: 9-10
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。  金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。・・・』

ヤコブ 1:13- 15
『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。  人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。  欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』 ※ 欲望+否定的感情=罪)


B. 悪魔は、人の憎しみなどの「否定的感情」を通じて、悪と罪と死を広める
 真のクリスチャンである限り、恐怖・無知・迷信・奴隷・背信・憎悪・絶望・臆病・悲観・苦痛・憤怒・嫉妬・羨望・不幸などの「否定的感情」を抱いてはならない。 そして、真のクリスチャン以外の自称クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、人である限り、悪を心の中で憎み、善に親しむことは当然のことだが、悪に対して、腹を立てて怒りの叫びを上げ、報いて復讐的な裁きをしてしまったら、その者は、悪の土俵に上がり、悪に染まってしまったのであり、悪魔サタン・悪霊・敵の思う壺に嵌ったことになる。 だからこそ、『聖書』は、真のクリスチャンに対し、『腹を立てて怒ったり、ねたんで羨ましがったり、報いて復讐的な裁きをしてはならず、悪に対する報いは、神たる主に委ねなさい』と戒め、かつ、『サタンの策略に陥るな』 と警告している。 卑近 な一例を挙げるならば、深酒をして酔っ払った時の些細な口論から、殴り合い、殺し合いへと発展した暴行傷害事件が、テレビで時々、報道されるが、誰であれ、相手から殴られたことを契機にして、相手に殴り返したら、更なる殴り合い、殺し合いへと発展してしまい、それこそ、人の霊に宿る神性と、精神的な尊厳と、肉体的な健康を破壊したがっている悪魔サタン・悪霊・敵の思う壺に はまったことになる。 但し、口論の相手が殺意を抱いて刃物や拳銃などで襲ってきた場合、「正当防衛」または「緊急避難」をしなければならない。 ちなみに、主イエスの御名の栄光のために、真のクリスチャンが聖霊を受けて「殉教」を覚悟した時以外、主イエス・キリストは、真のクリスチャンに対して、『おとなしく黙って傷つけられ、殺されなさい』 とは諭されていない。 例えば、主イエス・キリストは、相手の殺意を察知するや否や、その身を相手から隠された。

ヨハネ 8:59
『すると彼ら(ユダヤ人たち)は石を取ってイエスに投げつけようとした。 しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。 {そして彼ら(ユダヤ人たち)の間を通り抜けて進み、通り過ぎて行かれた。}』



(2) 善をもって悪に打ち勝つ。即ち、全知全能の神に任せ、悪の自滅を促す

ローマ12:19-21
『愛する人たち。自分で復讐してはいけません。 神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。 わたしが報いをする、と主は言われる。」 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。 渇いたなら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。  悪に負けてはいけません。 かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。』

 この聖句は、神の側にある真のクリスチャンの「敵」「迫害する者」への対処方法に関する至言であろう。つまり、「敵」「迫害する者」の理不尽な要求に応ずることによって、「敵」「迫害する者」の頭に燃える炭火が積まれ、その燃える炭火が、やがて大きくなり、「敵」「迫害する者」が自業自得的に焼き尽くされてしまうことが示されている。 そして、神による究極の「報い」とは、いわゆる「最後の審判」に他ならない。「最後の審判」とは、真のクリスチャンの「敵」すべて、即ち、「悪魔サタン」「悪霊」「年老いた蛇」「龍」「獣」「にせ預言者」「反キリスト者」「悪人」「罪人」・・・そして「死」が、永遠の地獄(ゲヘナ)に投げ込まれる裁きの日のことである。 従って、真のクリスチャンは、悪魔サタン・悪霊・敵の思う壺に はまらないよう、罪の奴隷にならないよう、悪に染まらないよう、悪に対して悪をもって報いることをせず、自分で復讐をせず、神の怒りに任せなければならない。 『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る』(マタイ5:44)とは、悪に対して悪をもって報いることをせず、自分で復讐をせず、神の怒りに任せるための積極的な心の持ち方を教えた戒めである。 悪魔という敵さえも、救いに導こうとする、完全な「人の子」にして「神の子」たる主イエス・キリストにふさわしい教導であろう。 しかし、実際問題としては、不完全で罪深い不義の人が、自分の「敵」を愛し、「迫害する者」のために祈ることは至難の業だ。これを承知しておられた主イエス・キリストは、言葉を継いで、『あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』(マタイ5:48)と要望している。 天の父である神のごとく完全な人は、主イエス・キリスト唯一人であるから、この聖句は、人としての究極の理想、善をもって悪に打ち勝つ積極的な心の持ち方を諭したものだ。 但し、「神の子」にして、完全な「人の子」である主イエス・キリストは、十字架に磔にされても、『父よ。 彼らをお赦しください。 彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ 23:34)と述べ、息を引き取る最後の瞬間まで、「哀れむべき敵に対する愛と祈り」の聖句を有言実行された。



(3) 人が神に赦して頂くために、「悪」たる「人の罪」を赦す

「マタイ」第6章などにおいて、『人の罪を赦す者は、神に赦される』のであるから、『自分で人に報いるな』 『自分で人を裁くな』と書いてある。

マタイ 6:14-15
『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。  しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』

ルカ 6:37
『さばいてはいけません。 そうすれば、自分もさばかれません。 人を罪に定めてはいけません。 そうすれば、自分も罪に定められません。 赦しなさい。 そうすれば、自分も赦されます。』

 以上の聖句及び主イエス・キリストが弟子たちに教えた祈り方「主の祈り」(マタイ6:9-13ルカ11:2-4)にあるように、「不完全な人」が悪魔・悪霊に憑かれておこなう悪、即ち、人の罪を赦さないなら、天にまします神=主イエス・キリストも、その不寛容な復讐心と憎悪などの悪なる感情をお赦しにならない。 だからこそ、「不完全な人」の罪に対して、悪をもって報いることをせず、自分で復讐をせず、神の怒りに任せなければならない。 生活上の様々な欲望と否定的感情の結びつきから生まれた罪を自覚しないまま、罪を犯し続けている「不完全な人」が、天にまします神=主イエス・キリストに赦して頂くためには、人の罪を赦すことが基本条件となる。 真のクリスチャン及び自称クリスチャン並びにノンクリスチャンという、何らかの私利私欲にとらわれた、罪に染まった「不完全な人」が、もし、悪人罪人である相手を赦すことができ、さらに、愛をもって、その悪人罪人に接して、神に対し、『あの悪人を救って下さい』 という、「とりなしの祈り」を続けたとすれば、その人は、「天の父=主イエス・キリストのごとく完全な人」であろう。 卑近な例を示せば、ある牧会で、『自分の母親と愛犬が強盗によって刃物で無残に殺されたにもかかわらず、その強盗殺人犯を赦した』 という証をした女性がいた。 生身の人間である彼女が、愛をもって、その強盗殺人犯の肉と霊を哀れみ、神である主イエス・キリストへの「とりなしの祈り」、即ち、『私の母親と愛犬を殺した強盗殺人犯を救って下さい』 という祈りを数年間も続けたとすれば、まさしく、「天の父=主イエス・キリストのごとく完全な人」だ。 しかし、いかに敬虔なクリスチャンといえども、「天の父=主イエス・キリストのごとく完全な人」にはなれないであろう。 但し、人の罪を赦すことは、愚かしい欲から生じた罪に陥りやすい、真のクリスチャンを含む「不完全な人」が、神である主イエス・キリストから赦されるための基本条件である。このことを、真のクリスチャンは、胆に銘じておかなければならない。 以上のごとく、「悪」への対処方法を示した聖句から明らかになった上記(1)~(3)の「戒め」は、人が作り上げた世俗的な法律と道徳的な規範を超えており、神の御意及び御計画に基づいている。




公開2012(平成24)年8月9日(木)02:13
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