わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのか? 『聖書はすべて、神の霊感による』(Ⅱテモテ3章16節)ものであり、 『ちり(肉体)はもとあった地(土)に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者12章7節) 『人は、肉体的には両親から生まれます。しかし、人は、霊的には御霊から生まれるのです。』 (ヨハネ3章6節) と書いてある。 わたしたちは、聖霊を受けることにより、『聖書』を正しく理解し、真理を知り、罪の奴隷から解放され、真の自由を得よう。
2012年8月9日木曜日
『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解7 』
7.人から神への愛(アガペー)の頂点は、神の御意に殉ずる自己犠牲的行為
(1)人から神への愛(アガペー)の究極の形=自己犠牲的行為
A.主イエス・キリストの十字架の御業で示された神の愛と義
異邦人への使徒であるパウロは、「ローマ人への手紙」において、主イエス・キリストの十字架の御業の意義を次のように短く記したが、誰であれ、聖霊の助けがなければ正しく理解できないだろう。
ローマ 3:23-26
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物(贖いの供え物=罪をつぐなう供え物)として、公(おおやけ)にお示しになりました。 それは、ご自身の義を現すためです。 というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』
この聖句を理解する上で、『キリスト・イエスは、誰のために供え物になられたのか?』と考えなければならない。神(=自分)のためか? 悪魔のためか? 人のためか? それとも、全てのためか? このような『聖書』の聖句に関する疑問には、『聖書』が必ず答えてくれるのであるから、『聖書』を丹念に調べてみると、使徒パウロの「エペソ」 5: 2 『愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』と書いてある。つまり、『私たち人のために 、神への供え物になられた』のだ。 従って、十字架での自己犠牲を果たす主イエス・キリストという生身の「供え物」は、『旧約聖書』の時代に遡ると、神に捧げられた雄牛や雄羊といった動物の「供え物」であり、これら動物の「供え物」が、神の祭壇の前において血を流して殺されるという犠牲があればこそ、動物の「供え物」を神へ捧げた人(祭司)と、その民の罪が、その都度、贖われ、清められてきた。 『旧約聖書』の「出エジプト」24,29,30,34章と「レビ記」の随所に記されているごとく、人(祭司)は、神の怒りを鎮め、神をなだめる「供え物」の雄牛や雄羊を殺して、その血と肉を祭壇に捧げてきた。 ところで、「供え物」とは何を意味しているのか? 「供え物」の英語「Propitiation」とは、「怒りを鎮めるもの」という意味だ。 「供え物」とは、「神の怒りを鎮めるもの」である。 そこで、『キリスト・イエスは、誰の怒りを鎮めるために十字架にて死なれたのか?』と考えてみると、『キリスト・イエスは、私たち人のために 、神への供え物になられた』(エペソ 5:2)のであるから、『キリスト・イエスは、旧約時代の祭儀のごとく、神の怒りを鎮めるためだけに、神への供え物になられた』のではなく、『キリスト・イエスは、新約時代の到来の証として、神の怒りと同時に人の怒りをも鎮め、神から人への愛を実証するために、神への供え物になられた』のである。 なお、「人の怒り」とは、人が、その人生において直面する数々の不条理に対する怒りのことだ。 要約すると、『キリスト・イエスは、神への「供え物」として、神の怒りのみならず、わたしたち過去・現在・未来の人の怒りをも鎮めるために十字架にて死なれた』のである。 だから、残酷な十字架の磔刑において血を流しながら自己犠牲を果たされ、肉体的な生命を捨てられた主イエス・キリストから人への無私の愛を知り、人から主イエス・キリストへの深い感謝の気持ち・ 尊崇の念・ 利己的な行動の放棄・ 砕かれた心・ 愛の戒めを守る事が、この世の不条理に対する怒りを鎮め、荒んだ心を癒し、神を冒涜した罪を清め、神との和解をもたらす。 主イエス・キリストは、人のために、神へ捧げられた「供え物」として十字架にて死なれ、その御血(自己犠牲による死、新しい契約)によって、価なしに、恐怖怯懦・無知迷信といった否定的感情に囚われている罪からまぬかれる道を開いて下さった。 なお、神である主イエス・キリストが、その御血(=生命)を神ご自身へ捧げたことは、神が人の悪と罪と死に対する責任をとったこと、神が自裁されたこと、神の義を人に示されたということだ。 かくして、神である主イエス・キリストご自身が義であり、愛であることを公に示された「十字架の血」(自己犠牲による死、新しい契約)を信ずることが、『罪の奴隷から解放された。義である』と神に認められる唯一の道なのだ。 使徒パウロは、『人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たち(パウロたち)の考えです。』(ローマ 3:28 )と記し、「信仰義認」を説いた。 但し、この聖句は、『律法を形式的・慣習的に守る行いは、真の信仰ではない。 真の信仰は、神と人への愛(=自己犠牲)を伴っている』 という意味だ。 そして、主イエス・キリストの十字架の贖いを「信ずる」「信仰する」とは、自称クリスチャンが主張するように「頭で理解する」という意味だけに留まらず、神である主イエス・キリストから注がれる聖霊と「一体化する」、そして、「行動する」という意味である。 神と人への愛に基づいて行動する信仰の希求は、「ヤコブの手紙」2:14-26 に詳しく書いてあり、『行いのない信仰は、死んでいるのです。』(ヤコブ2:26)と断じている。
ヨハネ 3:16-18
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣(つか)わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。 信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』
ローマ 3:23-26
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。 それは、ご自身の義を現わすためです。 というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』
エペソ 5: 2
『また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』
1ヨハネ 2: 2
『この方(主イエス・キリスト)こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。 』
1ヨハネ 4:10
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。』
B.愛(アガペー)の頂点に位置する自己犠牲的行為
『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(マタイ5:44)という聖句の意味は、『悪魔という敵をも愛せるクリスチャンになりなさい』という意味ではなく、『クリスチャンは、神を愛し、神の御計画の下にある悪魔という敵を哀れみ、怒ったり、憎むことなく、悪に悪をもって報いることなく、悪魔という敵でさえ、神に従うようになり、救われることを祈りつつ、悪魔に立ち向かいなさい』という意味だ。『神を愛するように、敵を愛せ』という意味ではない。このように愚かしい間違いを宣伝する自称クリスチャンには、悪魔が心の奥深くへ入り込み、心が腐敗していき、ハエの姿をした魔王ベルゼブル(マタイ10:25等 サタンの別名)のごとく、腐敗堕落した精神文化を好むようになる。 さて、世俗社会における愛の意味は、「愛すること、いつくしむこと、大切にすること、恋情、性愛」であるが、『聖書』における神から人への愛とは、それとは全く異なる。 つまり、『神は愛である』(1ヨハネ4:8)と書いてあるとおり、地上に降誕された神の独り子である主イエス・キリストは、「モーセの十戒」を守らない、あるいは、守れない過去・現在・未来の人の罪を贖う(対価を求めずに罪を帳消しにする)ために、十字架の磔刑によって自らの肉体的な生命を犠牲にされ、その霊を神の御手にゆだねられた。 そして、この自己犠牲の行為こそが愛の究極の形である。 十字架に磔にされての贖罪死こそは、「神の子」の主イエス・キリストから人への愛だ。 主イエス・キリストの十字架の御業によって示された、神から人への愛、また、「人の子」という「完全な人」から神への愛とは、神の御意に殉ずる自己犠牲的行為に他ならない。 従って、人として到達しうる究極の愛とは、神の御意に従って隣人を救済するために自己の肉体的な生命を犠牲にする行為に他ならない。 自己の肉体的な生命をも、神と人に対する愛と義のために犠牲とすべきことを記した聖句には、次のものがある。
ヨハネ 4:23-24
『(イエスは、サマリアの女に語った。) 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。 今がその時です。 父は このような人々を礼拝者として求めておられるからです。 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』
ヨハネ 10:17- 18
『わたし(主イエス・キリスト)が自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父(神)はわたしを愛してくださいます。 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。 わたしが自分からいのちを捨てるのです。 わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。 わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 』
ヨハネ12:24-27
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で そのいのちを憎む者は それを保って永遠のいのちに至るのです。』
ヨハネ 15:13
『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』
ローマ 12:1
『そういうわけですから、兄弟たち。 私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。 あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。 それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』
1ペテロ 2:5
『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』
1ヨハネ 3:16
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。 それによって私たちに愛がわかったのです。 ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』
従って、人の「愛」の究極の形は、人の「自己犠牲的行為」を意味する。 なお、「自己犠牲的行為」を頂点に戴く、信仰的な兄弟愛・ 霊魂体の三重構造から成る自己への自己愛・ 万人への 隣人愛に関しては、『クリスチャンの正しい回心のための聖書義解 2』 を参照してほしい。 ちなみに、人の「愛」を破壊する悪魔・悪霊・悪人の邪悪な働きを常に警戒していなければならない。例えば、「愛」という聖書用語の表面上の意味の「愛すること、大切にすること」だけを捉えて、聖句を理解したつもりになっている自称クリスチャンの「間違い」である『神を愛するように敵を愛せ』という「偽りの宣伝」を信じて、悪魔という敵を愛して、悪魔のために悔い改めてはならない。 なぜなら、悪魔どもが天上にある神の御国を攻めて、悪魔の霊的領土を拡大すれば、地上の人間世界に不幸が増大するからだ。 『聖書』には、『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。 そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』(マタイ11:12) と書いてある。 真のクリスチャンは、この地上における悪魔・悪霊・悪人との闘いを通じ、究極的には「自己犠牲的行為」をもって、神の御意に殉じて隣人を救い、主イエス・キリストのおられる神の御国を、悪魔・悪霊・悪人の攻撃から守らなければならない。
(2)真のクリスチャンたる三島由紀夫
A.聖セバスチャンの殉教
人の愛、即ち、人の自己犠牲的行為に関する聖句『友のために自分のいのちを捨てる愛』ヨハネ15:13 等を、戦前戦中の大日本帝国から戦後の日本国へと移り変わる現代史に当てはめた場合、次のごとき歴史と人物に思い当たる。 (1) 農村部の若い女性が身売りをしたり、餓死者が続出する悲惨な状況に置かれた日本国民を救うため、帝都(東京市)で決起するも紆余曲折を経て鎮定され、自決または十字架に縛られながら銃殺刑に処せられた二二六事件の野中四郎(1903~1936)陸軍大尉を筆頭とする陸軍青年将校ら二十二烈士 (2) 大東亜戦争(第二次世界大戦)において敵国の攻撃から日本国民を守るために自己の命を捧げた関行男(1921~1944)海軍中佐を筆頭とする一万四千人以上の特攻隊員たち (3) 戦後日本における共産主義運動の拡大阻止を企図して社会党委員長を私心なく刺殺した後に拘置所内において「天皇陛下万歳」と「七生報国」という辞世を記して自裁した山口二矢(1943~1960) (4) 神国思想と武士道精神なき経済動物と化した日本国民に反省と覚醒を促すため、市ヶ谷駐屯地へ乗り込み自衛隊の決起を促すも、果たせずして自決した三島由紀夫と森田必勝(1945~1970)・・・ これら幾多の殉国の烈士たちを思い出す。 そして、三島由紀夫に関しては、キリスト教の自己犠牲の精神を極めた真のクリスチャンたる証拠がある。 例えば、文学者よりも思想家として高く評価すべき 三島由紀夫(1925~1970)の生涯を貫くモチーフは、イタリアの画家 グイド・レーニ(1575~1642)が描いた『聖セバスチャンの殉教』であった。 これは、自伝的な長編小説 『仮面の告白』(1949年-昭和24年-)によって明らかだ。 また、三島由紀夫は、1952(昭和27)年のクリスマスから半年間にわたる世界各国の観光旅行をおこなった際、ヴァチカン市国を二度訪問した。 ヴァチカン市国とは、ローマ・カトリック教会のローマ教皇を首長とする、ローマ市内にある1929(昭和4)年に成立した主権国家である。 ヴァチカン市国を二度も訪問した三島由紀夫が、旧教カトリック教会の歴史(教理・組織・行動)と芸術(美術・音楽・文芸)に強い関心を抱き、これらを深く研究していたことは当然であろう。 但し、世俗権力そのものであるローマ帝国の国教となって以来、中世の暗黒時代になると敬虔なクリスチャンを大量虐殺して異端化を超えた悪魔教会と化した旧教カトリック教会と、この旧教カトリック教会の非聖書的な在り方を改革する宗教改革運動から誕生した新教プロテスタント教会という旧新両方の教会の世俗化・異端化の後に、米国カンザス 州 トピカ にあるベテル聖書学院 の年末年始祈祷会-1901(明治34)年1月1日-の「聖霊降臨」から姿を現し始めた「初代教会」=「真の教会」、これ即ち、大日本帝国においては、1933(昭和8)年7月23日、東京市 豊島区 西巣鴨 の日本聖書教会 宮仲教会における「聖霊降臨」を礎とするイエス之御霊教会を、三島由紀夫が認識していたか否かは不明である。 しかし、あらゆる宗教情報を収集分析していた三島由紀夫が、戦後の日本社会の一世を風靡したイエス之御霊教会を知らないはずがない。 そして、「1933(昭和8)年の聖霊降臨」の中心人物であると共にイエス之御霊教会の創設者である村井ジュンが召天した1970(昭和45)年3月26日の後に、三島由紀夫が自己犠牲的な自決を果たしたという、この「偶然の一致」に聖霊の働きを感ずる。 なお、三島由紀夫は、「キリスト教」への嫌悪感を示したが、三島由紀夫の言う「キリスト教」とは、「世俗化・異端化した旧教カトリック教会と新教プロテスタント教会のこと」であり、「名ばかりのキリスト教であり、偽りの教会・悪魔教会のこと」である。 ちなみに、三島由紀夫は、中江藤樹(1608~1648)の儒教系陽明学の『知行合一による殺身成仁』 を武士道精神として高く評価したが、『己ノ身ヲ殺シテ仁ヲ成ス』 とは、十字架の磔刑によって贖罪死を遂げた主イエス・キリストから万人への「愛」に関する東洋的な表現に他ならない。 そして、三島由紀夫と同様に多くの日本人は、「異端化した旧教カトリック教会と新教プロテスタント教会」を受け入れようとはしない。 このことは、日本人が極めて賢明な民族であり、その日本文化が諸宗教の諸宗派を篩(ふるい)にかけて、その真偽正邪を的確に識別しうる極めて高度な文化体系を有することを実証している。 ここで言う日本文化とは、天神地祇(天地万物を司る神)と一体化した皇祖皇宗(皇祖と神道)を厚く祭る天皇を中心とする国体(国家体制)、自己犠牲を尊ぶ武士道、その他、日本人の数々のアイデンティティーのことだ。 なお、三島由紀夫が制作・主演した映画 『憂国』(1961-昭和36-年1月公表、1965-昭和40-年4月制作)では、神道の神棚に向かって日本人の神を敬虔に礼拝するシーンが冒頭に出てくるが、「神道の神」と「聖書の神」の同一性を直観していた可能性が高い。 さて、1968(昭和43)年になると、三島由紀夫は、グイド・レーニの『聖セバスチャンの殉教』と全く同じ構図の殉教写真を残した。 即ち、木の前で両手を頭上に縛り上げられた半裸体に三本の矢が突き刺さりながらも、天上の神の御国にいる主イエス・キリストを想い仰ぐ聖セバスチャン※に扮した三島由紀夫の写真である。 この写真撮影は、篠山紀信が行い、澁澤龍彦の責任編集『血と薔薇』創刊号(1968年-昭和43年-)において『聖セバスチャンの殉教』として公表された。 三島由紀夫が自決する二年前のことだ。 そして、ここで、『三島由紀夫が、クリスチャンになる洗礼(バプテスマ)を受けたか否か』について議論することは、真のクリスチャンからすれば愚かしく感じられる。 なぜなら、聖霊に導かれている真のクリスチャンである限り、「世俗化・異端化した旧教カトリック教会と新教プロテスタント教会」において執り行われている「非聖書的な洗礼式」を精神的・霊的に拒絶するからである。 また、ピリピ2:13 『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』という聖句のごとく、三島由紀夫らは、聖霊に突き動かされ、日本人のために自己の心血を注ぎ出し、戦後日本社会において正義(神聖な霊魂)よりも利益(世俗の金銭)を最優先した経済至上主義によって精神的・霊的に腐敗堕落した日本人を、神である主イエス・キリストに贖う「殉教」を果たし、日本人の精神的覚醒を促したことは明白である。 かかる非凡なる行動を見る限り、感受性の強い三島由紀夫らの無意識の中へ、彼らの意識では抗(あらが)えない、聖霊の壮絶な力(エネルギー)が流れ込んでいたとしか考えられない。 ちなみに、パウロらも水の洗礼を受けずして聖霊の洗礼を受けたように、自己犠牲を果たして死ぬ前の彼らは、水の洗礼を受けてはいないが、見えざる神に対する信仰心が厚く、時には神懸り状態になって不思議な声を聞いたりをした。 つまり、パウロや使徒の働き10:44-48 の事例にあるように、教会による水の洗礼を受けずとも聖霊の洗礼を受ける場合があり、彼らの崇高なる義挙を各種の文献資料に基づいて検証する限り、『彼らは聖霊の洗礼を受けていた』 と考えられる。 あるいは、三島由紀夫の組織した民間防衛組織「楯の會」の会員(大学生)たちと富士山麓にある陸上自衛隊の広大な演習場で遊撃戦の訓練を終えた後、滝ヶ原分屯地(現在、駐屯地)で入浴した際、湯船の中でお互いに親しく湯水をかけあったとすれば、これが無意識のうちに行われた水による洗礼となった。 なお、当然のことながら、彼らの心には自責の念もあったであろう。 しかし、『聖書』は言う。 『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 たとい自分の心が責めてもです。 なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。 愛する者たち。 もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。 なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。』(1ヨハネ3:18- 22)と。 凡俗な人からすれば理解し難い、彼らの、死を決意した勇気ある行動は、汚れ無く純粋であり、悠久の神国たる日本への無私の愛があった。 さらに、『聖書』には、凡俗の汚れた人間性を超越した輝かしい「志」は、神の御意(みこころ)に由来すると書いてある。 『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』(ピリピ2:13) このように、有名人か無名人かを問わず、「志」を立てた者に現れる輝かしい栄光のすべては、神に由来している。
※ 聖セバスチャンは、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌス(在位:284~305年)の時代の軍人(近衛隊長)である。 しかし、皇帝の命令に背いて多くのクリスチャンを救助し、多くの人々に主イエス・キリストによる救いを伝道した。 このため、複数の矢で射られる死刑に処せられるも、奇跡的に死ぬことがなかった。 その最期は、クリスチャン迫害を止めるように皇帝を諌め、この諫言に逆上した皇帝によって撲殺されたと伝承される。
B.映画 Mishima : A Life In Four Chapters (1985年作品、時間2:01:26)
映画 Mishima は、映画「スター・ウォーズ」(1977年)と映画「レイダース 失われたアーク」(1981年)で知られるイングランド系の映画監督ジョージ・ルーカス(1944- )と、映画「ゴッドファーザー」(1972年)と映画「地獄の黙示録」(1979年)で有名なイタリア系の映画監督フランシス・コッポラ(1939- )が制作総指揮した日米合作映画であり、ドイツ系の親日的な脚本家のポール・シュレーダー(1946- )が現場監督を務め、ユダヤ系の作曲家フィリップ・グラス(1937-)が霊妙な音楽を担当した。 さて、この映画 は、日本未公開作品のままであるが、『三島由紀夫を同性愛者風に描写した部分があることに強く反発した遺族(妻子)の意思によるものだ』 という。 この点に関して述べておくと、三島由紀夫は、人としてのアダムやキリストや聖セバスチャンが男性であるように、人の「美」の理想像を、男性の自己犠牲的な行動力の生み出す幻想的な芸術性の中に見ていたのであり、三島由紀夫が『聖書』の禁ずる同性愛者であろうはずがない。 このような理由から、映画 Mishima は日本未公開のままなのであるが、2013年10月からネット動画YouTube にアップされ、誰でも無料で視聴できるようになったが、2017年に削除された。 この映画では、三島由紀夫の生涯を美 Beauty(「金閣寺」)・ 芸術 Art(「鏡子の家」)・ 行動 Action(「奔馬」)・ 文武両道 Harmony of pen and sword(-三島事件-) の4幕構成で描いている。 但し、三島由紀夫自決の約1週間前である昭和45(1970)年11月12日(木)~17日(火)の間、東京都・池袋駅にある東武百貨店7階大催事場で「三島由紀夫展」が開催された時に、三島由紀夫自身が総括して展示した、その生涯は、書物の河・舞台の河・肉体の河・行動の河の4部構成であった。 また、映画「羊たちの沈黙」(1991年)で有名な米国女優ジョディ・フォスター(1962~)は、映画雑誌「ロードショー」(1996年10月号)の “もっと評価したい、この映画” という企画特集で、『最も印象に残った素晴らしい作品は、映画 Mishima でした』と述べた。 映画プロモーションのために頻繁に来日しているジョディ・フォスターは、『三島文学をかなり読んでいたので、映画にも興味を惹かれて見ました。 三島の文学作品を撮った部分と、その生涯を対比して描いたところが素晴らしかった。作品の部分は凝った構成で、生涯の部分はドキュメンタリー・タッチになっている。その対比が絶妙だと思った』という。(「三島由紀夫論集III 世界の中の三島由紀夫」 勉誠出版 2001年) ここで、三島由紀夫の霊的な系譜について想いを馳せると、三島由紀夫の自伝小説 『仮面の告白』には、『子どものころ、私はすでに世界がふたつの相反するもので出来ているのだと感じていた。 ひとつは世界を塗り替えることのできる言葉。 もうひとつは言葉とはまったく関係のない現実の世界。 世の常の人は、体が先にできて、そして、言葉を覚えるのであろうに、私の場合は、言葉が先に来た。』とある。 この一節なども、三島由紀夫が『聖書』 (ヨハネ6:63、ローマ8:13、ガラテヤ5:16-17 等)にある肉と霊、即ち、体と言葉の対立を直観的に悟っていたこと。 そして、三島由紀夫自身が予め神の御意に基づいて、この地上(戦前の大日本帝国)に生まれたことを直観しており、この直観を文学的に表現した文章であろうし、また、1970(昭和45)年7月7日付の産経新聞夕刊に掲載された三島由紀夫の回想 『私の中の25年』にある「果たし得ていない約束」とは、「この地上(戦前の大日本帝国)に生まれる前に神と交わした、果たし得ていない約束」であると想われる。 こう回想した三島由紀夫は、この4カ月後に、神との約束を完全に果たした。
詩篇116:14-15
『私は、自分の誓いを主に果たそう。 ああ、御民の全ての居る所で。 主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。』
公開2012(平成24)年8月9日(木)02:15
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