2012年8月9日木曜日

『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解 』 9



9.「聖霊」の働きについて

(1) 「聖霊」とは何か?
 A.『聖書』 の中の聖霊
 主イエス・キリストは、十字架における死から3日目に墓(黄泉)から復活し、40日間、弟子たちの前に現れて説教をされた後、天上にある神の御国へと昇天された。昇天から10日後(復活してから50日後)、主イエス・キリストにより、予め約束されていた「聖霊降臨」が、弟子たちの心身に起こった(使徒第2章)。 「聖霊降臨」の日は、ユダヤ教の「ペサハ」(過ぎ越しの祭)から50日後に行う「シャブオット」(七週の祭)という祭日に当たる。キリスト教ではギリシャ語の「50」を意味する「ペンテコステの日」「五旬節の日」と呼び、現代のユダヤ教徒とキリスト教徒が同時に祝う唯一の祭日である。 そして、この日以降、「神」である主イエス・キリストの御霊を、特別に「聖霊」と呼ぶことになった。  なお、聖霊とは、神の右の座(神の御国の王権という意味)におられる主イエス・キリストが、『父のもとから遣わす助け主、父から出る真理の御霊』ヨハネ 14:16-17同15:26- 16:15)で、「主イエス・キリストの御霊」である。  聖霊は、『聖書』 の中で「主の使い」 「神の霊」 「主の霊」 「聖なる霊」 「御霊」として、また、「永遠のいのち」ヨハネ 6:53- 56テトス 3:7等)、「生ける水の川」ヨハネ 7:37-39)、「主の栄光」1コリント 6:20 2コリント 3:17-18)とも記される。  さらに、『聖書』 の中に出てくる「火」 「炎」 「雨」 「油」などは、聖霊の「隠喩」である。  ちなみに、「神による聖別のしるし」として、神を礼拝する聖所にある祭壇・祭具や、イスラエル王国を司る王・祭司たちに「油」が注がれてきた。このため、後になると、地上に決定的な救いをもたらす「救い主」のヘブル語である「メシヤ」は、「油そそがれた者」という意味になった。「メシヤ」のギリシヤ語が「キリスト」になる。

出エジプト3:1-2
『モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。 彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。 よく見ると、で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。』
 
マタイ 25: 3-25:13
 『愚かな娘たち(自称クリスチャン)は、ともしび(信仰心)は持っていたが、(聖霊)を用意しておかなかった。 賢い娘たち(真のクリスチャン)は、自分のともしびといっしょに、入れ物(神の宮たる肉体・精神・霊)にを入れて持っていた。  花婿(御再臨の主イエス・キリスト)が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。  ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。 迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。  娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。  ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。 「を少し私たちに分けてください。 私たちのともしびは消えそうです。」  しかし、賢い娘たちは答えて言った。 「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。 それよりも店(真の教会)に行って、自分のをお買いなさい。」  そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。 用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。  そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。  しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。  だから、目をさましていなさい。 あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

ヨハネ 6:53- 56
『イエスは彼ら(カペナウムに集まった群衆の中のユダヤ人たち)に言われた。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 人の子の肉(聖餐式の種なしパン)を食べ、またその血(聖餐式のぶどう酒)を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのち(主イエス・キリストの御霊=聖霊)はありません。  わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。  わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。  わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」 』  

ヨハネ 7:37-39
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」   これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。・・・』

ヨハネ 14:16-17
『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがた(ユダ以外の十一弟子)にお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。 』

ヨハネ 15:26-27
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。 あなたがた(ユダ以外の十一弟子)もあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。』

使徒 2: 1- 4
『五旬節の日(朝9時)になって、みなが一つ所に集まっていた。  すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことば(異言)で話しだした。』  
※ ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員シモン、ヤコブの子ユダ、脱落したユダに代わるマッテヤ、イエスの母や兄弟たち、婦人たちを含む120名ほど。

使徒 19: 1- 7
『アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、 「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。 「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。 そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。  これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。 その人々は、みなで十二人ほどであった。』  

1コリント 6:19- 20
『あなたがた(コリント教会の真のクリスチャン)のからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない(主イエス・キリストのものである)ことを、知らないのですか。 あなたがたは、代価を払って(主イエス・キリストの贖罪死という代償によって)買い取られた(悪魔サタン=悪・罪・死の魔手から引き戻された)のです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光(聖霊・賜物・祝福・悪魔サタンに対する勝利)を現わしなさい。』  

1コリント 12:2- 3
『ご承知のように、あなたがた(コリント教会の聖徒たち)が異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私(パウロ)は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』  

2コリント 1:22
『神はまた、確認の印を私たち(パウロたち)に押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。』  

2コリント 3:17-18
『主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。  私たち(パウロたち真のクリスチャン)はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』  

エペソ 1:13-14
『この方(主イエス・キリスト)にあって あなたがた(エペソ教会の聖徒たち)もまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。・・・』

テトス 3:5- 7
『神は、私たち(パウロと、クレテ島に居るテトス)が行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。  神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、(神の御国の)相続人となるためです。』

2ペテロ 1:19-21
『また、私たち(ペテロと聖徒たち)は、さらに確かな預言のみことばを持っています。 夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それ(聖書の預言)に目を留めているとよいのです。  それには何よりも次のことを知っていなければいけません。 すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。』 

 B.「聖霊降臨」から見たキリスト教会史
『聖書』に書いてある「先の雨と後の雨」 「秋の雨や春の雨」とは、気象の雨であると共に、天国(神の御国)より降り下る聖霊の「隠喩」である。(申命記 11:13-15エレミヤ 3: 1-3同 5:22-26ホセア 6: 3-4ヨエル 2:23ゼカリヤ 10: 1ヤコブ 5: 7) そして、「先の雨にして秋の雨」である「聖霊降臨」により、ヤコブ・ペトロ・ヨハネを長とする初代教会(エルサレム教会)が誕生した。ところが、4世紀以降の聖霊の枯渇期に陥ったキリスト教会は、世俗権力そのものであるローマ帝国政府によって国教化されて世俗化して腐敗堕落し、5世紀~16世紀の暗黒時代になると、敬虔なクリスチャンを大量虐殺する異端化を超えた悪魔教会と化した。 しかし、17世紀以降の聖霊の微弱期になると、この旧教カトリック教会の非聖書的な在り方を改革する宗教改革運動が巻き起こり、新教プロテスタント教会が誕生するに至った。 そして、20世紀の聖霊の隆盛期に入ると、旧新両方の教会の世俗化・異端化の後、『聖書』の中で預言されていた「後の雨にして春の雨」である「聖霊降臨」が始まり、米国カンザス 州 トピカ にあるベテル聖書学院 の年末年始祈祷会-1901(明治34)年1月1日-の「聖霊降臨」から「初代教会」=「真の教会」が、その姿を現し始めた。 なお、戦前戦中の大日本帝国及び戦後の日本国における「真の教会」の現れとは、1933(昭和8)年7月23日、東京市 豊島区 西巣鴨の日本聖書教会 宮仲教会における「聖霊降臨」を礎とするイエス之御霊教会で、この教会が日本国の戦中戦後を通じて「初代教会」の教理と祭儀の復興を開始した。但し、「後の雨にして春の雨」である「聖霊降臨」は、預言によれば、近未来まで継続的に起こる。

C.聖霊に関する最新の認識
 イエス之御霊教会の創設者である村井ジュン師によれば、『マタイ伝18章20節にあるように、聖霊を受けた者が二三人集まっているところに、主もまた臨在しているのであるから、聖霊が「濃厚」とか「希薄」というのは人間の感情である』との教えである。 従って、「世の教会」の言う『聖霊の満たしがあった』 とか、『聖霊の満たしが足りない』 という表現も、同様に誤っていよう。 なぜなら、『聖書』 が明らかにしている聖霊とは、人の心に愛・義・真理・良心をもたらす主イエス・キリストの御霊のことである。 また、聖霊を宗教的に表現するなら「霊体」となり、心理学的に表現するなら「意識体」となる。 つまり、聖霊は、「主イエス・キリストの御霊」 「神の霊」 「主の霊」 「霊体」 「意識体」であり、この御臨在が一滴の雨粒のごとき臨在であろうとも、人の言葉を聞き分け、人の心の全てを把握し、天上の神の御国におられる主イエス・キリストへ、その全情報を瞬時に伝達していると考えられる。 さて、ここで、古今東西の諸国民・諸民族の精神文化の中において、「聖霊を表現したと思しき神秘的な象徴」について言及しておくと、完成・完璧の象徴としての「球体」、欧州における王権の象徴である王冠と笏と十字架付の「宝珠」、日本における神社神道の境内にある狛犬・狐・龍などが口にくわえたり、手に持つ「球体」を挙げられる。 これらの「球体」(英語 オーブ ORB)は、通説では「霊の力」を象徴するという。そして、『これらの「球体」(オーブ)が象徴する「霊の力」とは、聖霊のことであろう』と想い、ネットで「オーブ」を検索してみると、『オーブとは、水滴のような光球』という情報があった。しかし、聖霊は、神と同義であるから、「聖霊の僕なる善霊」という表現がより正確だと思う。 つまり、悪魔・悪霊・悪人と対置しうる、聖霊と繋がっている天使・善霊・善人という意味での「善霊」である。 そして、日本全国のみならず、世界中の至る所で、現像した写真にオーブが写っていたり、ビデオカメラにオーブが録画されていることなどを知った。 これと同時に、オーブに対する懐疑論も根強くあり、『空気中に漂う微小なチリがカメラのフラッシュの光を反射してオーブのように写り込む』 とか、『露光時間の設定ミスなど、カメラの操作ミスによってオーブのように写る』という分析もある。 しかし、オーブが高性能の暗視用のビデオカメラによって撮影されていることなどを考慮すると、オーブは、科学的に検証できない説明不可能な「未知現象」に他ならない。例えば、下記のYouTube 動画は、ロンドン市の北部で2012(平成24)年10月23日の夜間に撮影されたとあるが、暗視用のビデオカメラによって撮影された「光輝きながら動く水滴のような球体」は、『聖霊の僕なる善霊であろう』と直観した。 もちろん、「聖霊の僕なる善霊」は、人間の肉眼では見ることはできないが、カメラやビデオカメラといった光学機材には何らかの物理的な反応を引き起こし、それに写る事例があると考えられる。 なお、心霊現象の研究者によれば、『球体ではない変形したオーブ、虫食い状の黒点のあるオーブ、透明・白色・黄色ではない青色・橙色・赤色のオーブは、低級で不浄な悪霊または人魂(火の玉)だ』という。 また、プラスとマイナスの電気を帯びている粒子(荷電粒子)の共存により、電気的に中性になった気体をプラズマと呼ぶが、『オーブは、プラズマからできている。このため、強力なオーブが出現すると、その空間の電磁波に影響を与え、テレビ画像・ラジオ音声・蛍光灯を乱したり、不可解なラップ音を引き起こす』という。 このように見てくると、神が創造したエデンの園の中央に「いのちの木」「善悪を知る知識の木」があったように、また、双子のカインアベル羊(ひつじ)山羊(やぎ)天使悪魔キリスト反キリスト・・・という 『似て非なるもの(性質)』 が常に隣り合わせに共存していることを考慮すれば、オーブにも、善霊と悪霊という二つの 『似て非なるもの(性質)』 があると考えられる。Orb Phenomena, London 23rd October 2012 http://www.youtube.com/watch?v=QWAt9KYncig
追記: 2013(平成25)年11月23日 (土)

 (2) 「キリストに在る」とは、いかなる状態か? 
 多くのクリスチャンが、『在主』 とか、『キリストに在る』 と気軽に述べたり、手紙に書いたりしているが、『キリストに在る』 とは、『キリストを通して』 とか、『キリストによって』 とか、『キリストを信ずる』という意味ではない。 つまり、『キリストが我に、我がキリストに在る』(ヨハネ 6:56)という肉体的・精神的・霊的な状態を指す。 ちなみに、人の「心」とは、WHO的には精神と霊、宗教的には魂と霊、心理学的には意識(顕在意識)と無意識(潜在意識)として表現されるが、『在主』 の状態とは、天上にある神の御国から雨のように降り下る聖霊を自己の「心」(=霊=無意識)の中に受け、自己の肉体と精神と霊とが「神の宮」となり、神の御国と繋がっている状態をいう。だから、『キリスト(主)に在るクリスチャン』(在主の聖徒)は、自己の「心」に宿る主イエス・キリストの御霊(聖霊)のために、毎週金曜日の日没後から土曜日の日没前までの安息日に礼拝を行い、安息日や年末年始には正しい聖餐式に参加し、そこで主イエス・キリストの御肉(種無しパン / キリストの霊的な体の御肉)と、主イエス・キリストの御血(ぶどう酒 / 新しい契約の血)とに与らねばならない(ヨハネ 6:53- 56)し、このような信仰生活であらねばならない。そして、安息日礼拝を敬虔に継続し、正しい聖餐式に与っていると、第三者の目にも、聖霊の宿りを示す客観的な証が現れる。即ち、「心」の奥深いところ、即ち、無意識から「異言」(使徒19:6等)が湧き出るようになる。 無意識から湧き出る不思議な言葉である「異言」が現れないにもかかわらず、『在主』 とか、『キリストに在る』 と、自分勝手に自称したり、周囲に宣伝することは、霊的な偽りとなり、聖霊に対する高慢な態度となるだろう。それは、丁度、悪魔サタンに憑依された世界的な政治指導者にして悪の祭司である「666の獣」(祭政一致のローマ・カトリック教会のローマ教皇)が、ダニエル書7章-9章黙示録13章に書いてあるごとく、「神」である主イエス・キリストに対して行う冒涜行為と相似象になるからだ。 別言するなら、聖霊の宿りを示す客観的な証、即ち、「異言」などの客観的な現象が現れないにもかかわらず、『私の心は、主イエス・キリストと繋がっている』と友人に宣伝したり、自己の利己的な意志を『神の意志である。神からの召命を受けた』と妄信的に主張したり 、悪魔サタンのように『私は神である』と究極の高慢心に陥ったり、旧教カトリック教会の間違った「告解」のように『司祭には、人の罪を赦す権威がある』と霊的な偽りを宣教することは、「神」(=主イエス・キリスト=聖霊)に対する冒涜行為であると認識しなければならない。  

2テサロニケ 2:4
(獣、不法の人、滅びの子)は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く掲げ、神の宮(エルサレム神殿)の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。』
 


(3) 『聖書』 に書いてある「聖書観」 A ~ E
A.『聖書』をいくら読んでも、心に聖霊がなければ聖書を理解できない 
ヨハネ 5:39- 40
『あなたがた(ユダヤ人たち)は、聖書の中に永遠のいのち(聖霊・真理・不死)があると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(主イエス・キリスト)について(預言されていたキリストであると)証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません(信じようとしません)。』

B.『聖書』 に書いてある真理は、聖霊を通じてのみ明かされる
ヨハネ 16:12- 16
『わたし(主イエス・キリスト)には、あなたがた(十二弟子)に話すことがまだたくさんありますが、今(最後の晩餐の時)あなたがたはそれに耐える力(霊的な理解力)がありません。 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来る(聖霊が降臨する)と、あなたがたをすべての真理に導き入れます。 御霊(聖霊)は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。  御霊はわたしの栄光(臨在・賜物・祝福)を現わします。 わたしのもの(霊)を受けて、あなたがたに知らせるからです。  父が持っておられるもの(霊)はみな、わたしのもの(霊)です。 ですからわたしは、御霊がわたしのもの(霊)を受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります(十字架の磔刑により死別します)。 しかし、またしばらくするとわたしを見ます(死から復活した姿を見ます)。」』

C.神の御霊(聖霊)と御力のみが、『聖書』を解き、その知恵を語りうる
 1コリント 2: 1- 3: 1
『さて兄弟たち(コリントにある教会の人々)。私(パウロ)があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。(神を愛さない者には、見えず、聞こえず、思いもしないものを、神は備えてくださる。)」  神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。 御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。 同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。  ところで、私たちは、この世の霊(悪霊)を受けたのではなく、神の御霊(聖霊)を受けました。 それは、(神からの)恵みによって神から私たちに賜わったもの(主イエスの教え・愛・義・賜物)を、私たちが知るためです。  この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。 その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。 生まれながらの人間(洗礼と受霊に与っていない、主イエスを信じない人間)は、神の御霊に属すること(神の愛・神の御計画)を受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。 また、それを悟ることができません。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。  御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分(パウロ)はだれによってもわきまえられません(理解されません)。  いったい、「だれが主(イエス・キリスト)のみこころを知り、主を導くことができたか。」  ところが、私たちには、キリストの心があるのです(キリストの御霊が内在しているのです)。  さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人(受霊に与った真のクリスチャン)に対するようには話すことができないで、肉に属する人(受霊に与っていない自称クリスチャン)、キリストにある幼子(初級レベルのクリスチャン)に対するように話しました。』

D.『聖書』は、神の霊感(聖霊)を受けた者たちに記された神の御言葉の書
 2テモテ3:16- 4:7
『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私(パウロ)はおごそかに(テモテに)命じます。(聖書の)みことばを宣べ伝えなさい。 時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。 寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 というのは(神を知らない、悪魔に感化された)人々が健全な教え(正しい聖書の教え)に耳を貸そうとせず、自分につごうの良いこと(悪と罪に染まった生活を肯定する教理)を言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に(聖書の)教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 しかし、あなた(テモテ)は、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。 私(パウロ)は今や注ぎの供え物(神のために自己の心血を注ぎ出す自己犠牲)となります。 私が世を去る時はすでに来ました。 私は勇敢に(この世の悪魔と)戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。』

E.『聖書』の預言は、人の私的解釈をしてはならない。滅びを招く『聖書』の曲解
2ペテロ 1:18- 2:3
『私たち(ヤコブ・ペテロ・ヨハネ)は聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声(「これはわたしの愛する子」という神の御声)を、自分自身で聞いたのです。  また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。 夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。  それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。  なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。 同じように、あなたがた(クリスチャン)の中にも、にせ教師(悪魔に憑かれた神父・牧師・伝道者)が現われるようになります。 彼らは、滅びをもたらす異端(誤信迷信・悪魔礼拝)をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主(人の罪を贖ってくださった主イエス)を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。  そして、(異端の教えを信じた)多くの者彼らの好色(精神的な腐敗堕落)にならい、そのために真理の道(主イエスの教え)が(誤解されて、「腐敗堕落した教えは信用できない」と)そしりを受けるのです。 また彼ら(にせ教師)は、貪欲なので、作り事のことば(偽りの教理)をもってあなたがたを食い物(金銭を搾取する対象者)にします。 彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。』
※  『新約聖書』に山の名前はない。ガリラヤのナザレ近くのタボル山と伝承される。 彼ら三人は、この山頂で、モーセとエリヤと語り合う、光輝く主イエス・キリストの変容に遭遇した。

2ペテロ 3:16
無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙(兄弟パウロからの手紙)を曲解し、自分自身に滅びを招いています。』




公開2012(平成24)年8月9日(木)16:00
saintsfellowship@outlook.com 聖書伝道会



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