わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのか? 『聖書はすべて、神の霊感による』(Ⅱテモテ3章16節)ものであり、 『ちり(肉体)はもとあった地(土)に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者12章7節) 『人は、肉体的には両親から生まれます。しかし、人は、霊的には御霊から生まれるのです。』 (ヨハネ3章6節) と書いてある。 わたしたちは、聖霊を受けることにより、『聖書』を正しく理解し、真理を知り、罪の奴隷から解放され、真の自由を得よう。
2012年8月9日木曜日
『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解2 』
2. 『聖書』 における「愛」の意味
『聖書』における愛とは何を意味するのであろうか? 『聖書』における愛は、(1)神から人への愛(アガペー)、(2)人から神への愛(アガペー)、(3)人と人との愛、即ち、A.信仰上の兄弟愛(フィラデルフィア) B.万人に対する隣人愛(アガペー) C.肉体的な性愛(エロース)に分けて考えられる。 世俗社会における愛とは、「いつくしむこと、かわいがること、大切にすること、恋情、性愛」という意味がある。 しかし、『聖書』における愛の意味は、まったく違う。 (1)神から人への愛とは、神の御子たる主イエス・キリストが万人に示されたように「自らを犠牲にして、人の罪を贖い、救うこと」である。 つまり、愛とは「神」そのものであり、「救い」を意味する。 (2)人から神への愛とは、全身全霊をもって神を愛して礼拝し、神から与えられた「モーセの十戒」「山上の垂訓」に象徴される戒めを守り、悪魔のしわざを打ちこわし、神の子どもと悪魔の子どもを区別し、教会の兄弟を愛し、ことばや口先だけではなく実際に行動し、反キリストの霊に惑わされず、神の御意を知ることである。 (3)人と人との愛とは、世俗社会で言われる愛、即ち、愛すること、恋情の次元を乗り越えて、主イエス・キリストの僕として、悪魔・悪霊・悪人と闘い、隣人を肉体的・精神的・霊的に救う具体的な行動を指す。 そして、真のクリスチャンから自称クリスチャン及び異教徒に対する愛とは、主イエス・キリストを正しく信じなかったり、まったく信じなかったり、敵対して受け入れようとしない罪を悔い改めさせ、回心(改心)させるために、彼我にとって厳しい行動を起こし、正しい洗礼を通じた心の「死と再生」と、その再生した心に聖霊降臨(受霊)を果たし、主イエス・キリストとの霊的な一体化へと導き、肉体的・精神的・霊的な救い(新生・愛・永遠の生命)をもたらすことである。 ちなみに、「行動」とは、人の行いを広義に指し、行動のうちに、具体的な意思活動である狭義の「行為」を含む。 従って、本編においては、広義の行いという意味で「行動」を、狭義の具体的な意思活動という意味で「行為」を使用し、さらに、「言動」とは、発言と行動の意味で使用する。
(1) 神から人への愛(アガペー)
神は、聖なる民、即ち、イスラエル人を愛された(申命記7:8)。 神の御子イエス・キリストは、神の戒めに背いてきたイスラエル人を初めとする、万人の身代わりとして十字架にて死に、万人の罪を神に贖ってくださった(ローマ 5:8)。 かかる神の本質とは、愛である(1ヨハネ 4: 8-10、1ヨハネ 4:16)。 『聖書』における神から万人への愛とは、神の御子たる主イエス・キリストの十字架上での「贖罪死」に表れたように、「自己の生命を犠牲にして、万人の罪を自らの血を代価として贖い、悪魔の手から救うこと」である。 ここで言う「万人の罪」とは、『旧約聖書』においては、神の戒めを守らず背いたこと(創世記3:6、出エジプト32:8)であり、『新約聖書』においては、主イエス・キリストを信じないこと(ヨハネ16:9)である。 神から人への愛は、人に罪(=悪魔の子・善悪相克の世界・虚偽・霊的な死)から救われる、永遠の生命(=神の子・絶対善の世界・真理・霊的な不死)への道を開いたことに示されている。
申命記 7:7- 8
『主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。 事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。 しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。』
ローマ 5:8
『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』
1ヨハネ 4: 8-10
『愛のない者に、神はわかりません。 なぜなら神は愛だからです。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。 ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。 ここに愛があるのです。』
1ヨハネ 4:16
『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。 愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』
(2) 人から神への愛(アガペー)
人は、全身全霊をもって神を愛さなければならない(申命記 6: 5、マタイ22:37)。 『旧約聖書』においては、神から与えられた「モーセの十戒」を守ることが、人から神への愛であった(申命記 11: 1)。 『新約聖書』における、人から神への愛とは、聖母マリアの胎を通じて、万人の罪を贖う自己犠牲を果たすために、血と肉を備えた生身の「人の子」として地上に降誕された主イエス・キリストを、「神の子・救い主・贖い主」と信じ、悪魔のしわざを打ちこわし(1ヨハネ 3: 8)、神の子どもと悪魔の子どもを区別し(同3:10)、兄弟を愛し(同3:14)、ことばや口先だけではなく行動し(同3:18)、反キリストの霊に惑わされず(同4:1- 6)、神の御意を知る(同4: 7)ことである。つまり、『自己否定の心的態度を貫き、自己犠牲を果たし、神への愛を貫いた聖人たちを模範として生きよう』と言うに尽きる。 神への愛なくして、隣人愛・自己愛は成り立たない。また、神への愛があれば隣人愛を強調せずとも隣人愛・自己愛は自然と流れ果たされる。
申命記 6: 5
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
申命記 11: 1
『あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。』
マタイ22:37- 38
『そこで、イエスは彼(パリサイ人の律法の専門家)に言われた。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 これが大切な第一の戒めです。』
1ヨハネ 3: 8- 4: 8
『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。 悪魔は初めから罪を犯しているからです。 神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。 なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。 その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。 義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。 兄弟を愛さない者もそうです。 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。 カインのようであってはいけません。 彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。 なぜ兄弟を殺したのでしょう。 自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 兄弟たち。 世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。 それは、兄弟を愛しているからです。 愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。 いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。 それによって私たちに愛がわかったのです。 ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。 たとい自分の心が責めてもです。 なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。 愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。 神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。 神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。 それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。 なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。 それによって神からの霊を知りなさい。 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。 それは反キリストの霊です。 あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。 子どもたちよ。 あなたがたは神から出た者です。 そして彼らに勝ったのです。 あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。 彼らはこの世の者です。 ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。 私たちは神から出た者です。 神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。 私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。 愛する者たち。 私たちは、互いに愛し合いましょう。 愛は神から出ているのです。 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 愛のない者に、神はわかりません。 なぜなら神は愛だからです。』
(3) 人と人との愛 (兄弟愛フィラデルフィア、 隣人愛アガペー、 性愛エロース)
A.信仰上の兄弟愛(フィラデルフィア)
人と人との信仰上の兄弟愛(フィラデルフィア)と隣人愛(アガペー)は、上記の(1)と(2)の愛(アガペー)に基づいてこそ成り立つ。 『聖書』にある兄弟愛と隣人愛を列挙すると、次のようになる。 神から選ばれた、同じイスラエル人を自分自身のように愛さなければならない(レビ19:18)。 愛は、教会に与えられた新しい戒めである(ヨハネ15:12)。 愛は、永遠不滅の法である(1コリント13:1-13)。 教会は、愛を実践する場である(ガラテヤ5:13、1ヨハネ4:11、1ヨハネ4:21)。 『旧約聖書』にあるイスラエル人の間における隣人愛は、主イエス・キリストによって敵にまで拡大され、『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』(=「敵さえも救うべく努めなさい」)(マタイ5:44、ルカ6:35)とされた。 『聖書』における人と人との愛(フィラデルフィア)とは、世俗社会で言われる愛、即ち、いつくしむこと、かわいがること、大切にすること、恋情、性愛エロースという次元を乗り越えて、主イエス・キリストの僕として、悪魔・悪霊・悪人と闘い、人々を肉体的・精神的・霊的に救う行動そのものである。 そして、真のクリスチャンから自称クリスチャン及び異教徒への愛とは、主イエス・キリストを正しく信じなかったり、まったく信じなかったり、敵対して受け入れようとしない罪を悔い改めさせ、回心(改心)させるため、彼我にとって厳しい行動を起こし、正しい洗礼を通じた心の「死と再生」を果たし、この再生した心に聖霊が降臨することによる主イエス・キリストとの霊的な一体化へと導き、肉体的・精神的・霊的な救い(新生・愛・永遠の命)へと至らしめることである。
ローマ12:10
『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』
1テサロニケ 4: 9
『兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。 あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。』
ヘブル13: 1
『兄弟愛をいつも持っていなさい。』
1ペトロ 1:22
『あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。』
1ペトロ 3: 8
『最後に申します。 あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。』
1ペトロ 4: 8
『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。』
1ペトロ 5:14
『愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。 キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。』
2ペトロ 1: 7
『敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。』
B.隣人愛(アガペー)は、自己愛(アガペー)と表裏一体の関係にある
隣人愛の聖句は、『聖書』の中に8つある。 そして、『万人への隣人愛と自己愛は、「利他的な親切」と「利己的な自尊」のごとく相反する関係にある』と考えられがちであるが、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 (レビ19:18 他)という聖句を慎重に吟味する限り、隣人愛と自己愛は表裏一体の関係にあり、相補性を有している。 つまり、隣人愛または自己愛の一方しか語らないのであれば、人と人との愛(アガペー)に関する50%の真理しか語っていないことになる。 つまり、自己愛なき隣人愛は有り得ず、隣人愛なき自己愛も有り得ない。 なぜなら、自己とは、肉体・ 精神(魂)・ 霊の三重構造から成る社会的存在であり、自己を愛して、自己の健康を保たねばならない。また、自己と、その周囲の社会環境が相互作用し合う不離一体の関係にあるように、自己と隣人も、不離一体の関係にあるからだ。 例えば、隣人が不幸でありながら、自己だけを幸せにすることはできない。 隣人や社会環境が疫病・災害・戦争などで機能不全に陥りながら、自己の健康・平穏・安全を保つことはできない。 さらに、『人は種を撒けば、その刈り取りもすることになります。』(ガラテヤ 6: 7)という因果応報の霊的法則からしても、隣人に対する愛こそが自己に対する愛となる。 従って、自己愛とは、自己を愛して、自己を健康にしようとすることではあるが、罪※深い自己を肯定することではなく、罪深い自己を悔い改めて自己を否定することであり、高慢で利己的な自己を隣人愛の戒めに服従させることである。 ところが、悪魔・悪霊・悪人には、自己愛と隣人愛が無い。 だから、隣人の悲惨な不幸を見て喜び、自己の目的感・満足感・優越感を得るのであり、隣人に無関心で、隣人を無視し、隣人を虐待し、隣人を苦しめる。 しかし、隣人の不幸を見て喜ぶ悪魔・悪霊・悪人の心的態度と行動は、自己の不幸を嘆いて不満を吐露し、隣人を嫉妬し、憎悪する自己憐憫であるし、また、キリスト不在の高慢と侮蔑の現れである自惚れ(うぬぼれ)に他ならない。 自己憐憫と自惚れは、自己愛=隣人愛ではない。 自己憐憫と自惚れは、利己的な欲求を追い求める時に現れる、隣人に対する嫉妬・憎悪と高慢・侮蔑だ。 なお、2テモテ 3: 1- 5 の『自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者・・・』にある「自分を愛する者」とは、「自分の罪深いエゴを愛する者」 「神と隣人のことを考えない自己中心の自分を肯定する者」 という意味である。
※ 罪とは、1ヨハネ 3: 4 『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。』と書いてあるように、神の律法(モーセの十戒・ 山上の垂訓)に従わない不法に起因する、恐怖・ 怯懦・ 無知・ 迷信・ 高慢・ 利己・ 憤怒・ 憎悪・ 嫉妬・ 悪意 といった否定的感情に支配された 不幸で不健全な心身状態を指す。 なお、雑草は、刈り取っても、しばらくすると生えてくるように、聖霊に贖われ、清められた罪も、しばらくすると、心の中に生じてくる。 なぜなら、ローマ 8: 7 にあるごとく、肉の思いは、御霊の思いと争い、神に反抗し、神の律法に服従できないからだ。 このため、信仰による罪の悔い改めを経て、水と霊のバプテスマを体験したクリスチャンは、神である主イエス・キリストの御霊である聖霊に罪を贖われ、罪を清められた後も、心の中に生じてくる罪と闘い勝利し続ける堅い信仰生活を送らねばならない。 かくして、クリスチャンの信仰生活と、その一切の行動は、神である主イエス・キリストの調査・審判を経て、最終的に罪を除去され、神である主イエス・キリストの御再臨の前に、神である主イエス・キリストとの霊的一体化(婚姻)を果たす。
レビ19:18
『復讐してはならない。 あなたの国の人々を恨んではならない。 あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。 わたしは主である。』
マタイ19:19
『父と母を敬え。 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
マタイ22:39
『“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。』
マルコ 12:31
『次にはこれです。 “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” この二つより大事な命令は、ほかにありません。』
ルカ 10:27
『すると彼は答えて言った。 “心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 また ”あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。“ とあります。』
ローマ 13: 9
『“姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。” という戒め、また ほかにどんな戒めがあっても、それらは、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” ということばの中に要約されているからです。』
ガラテヤ 5:14
『律法の全体は、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” という一語をもって全うされるのです。』
ヤコブ 2:8
『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、 “あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないは立派です。』
マタイ5:44
『しかし、わたしはあなたがたに言います。 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』
ルカ6:35
『ただ、自分の敵を愛しなさい。 彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。 そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方(主イエス・キリスト)の子どもになれます。 なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。』
ヨハネ15:12
『わたし(主イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』
1コリント13:4- 8
『愛は寛容であり、愛は親切です。 また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 預言の賜物ならばすたれます。 異言ならばやみます。 知識ならばすたれます。』
ガラテヤ5:13
『兄弟たち。 あなたがたは、自由(罪の奴隷からの解放)を与えられるために召されたのです。 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。』
1ヨハネ4:11
『愛する者たち。 神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。』
1ヨハネ4:21
『神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。 私たちはこの命令をキリストから受けています。』
(4) 愛を表現しようとした現代社会の芸術 (美術・音楽・文芸) の一例
米国歌手 アマンダ・マクブルーム(1947-)の作詩作曲による 「ザ・ローズ」(1979)
Some say love it is a river That drown the tender reed Some say love it is a razor That leaves your soul to bleed Some say love it is a hunger An endless aching need I say love it is a flower And you its only seed It's the heart afraid of breakin' That never learns to dance It's the dream afraid of wakin' That never takes the chance It's the one who won't be taken Who can not seem to give And the soul afraid of dyin' That never learns to live When the night has been too lonely And the road has been too long And you think that love is only For the lucky and the strong Just remember in the winter Far beneath the bitter snows Lies the seed that with the sun's love In the spring becomes the rose
愛は河だと言う人がいる。柔らかい葦(あし)を飲み込んでしまう河だと。愛はカミソリだと言う人がいる。あなたの魂から血を流す刃物だと。愛は飢えだと言う人がいる。終わりなき、つらい窮乏だと。私は愛は花だと思う。そして、その唯一の種があなた。傷つくことを恐れる心。そんな心では決して踊れるようにならない。目覚めることを恐れる夢うつつの状態。そんな状態では決してチャンスをつかめない。誰からも受け入れられない人。そんな人は与える喜びを知らない人のように見える。そして、死ぬことを恐れる魂。そんな魂では決して真に生きれるようにならない。夜があまりにも寂しいとき。そして、歩む道があまりにも長すぎると感じたとき。また、あなたが 愛は幸運で強い人だけのものだと考えるとき。厳しい冬の中にいることを思い出しなさい。身を刺すように冷たい雪のずっと下には、太陽の暖かい愛を受けることになる種が埋まっており、春になれば、バラの花を咲かせるということを。
■ 米国女優 兼 歌手 ベッド・ミドラー(1945-)版の 「ザ・ローズ」(1979) の視聴
http://www.youtube.com/watch?v=CB4EgdpYlnk
公開2012(平成24)年8月9日(木)02:04
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