わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのか? 『聖書はすべて、神の霊感による』(Ⅱテモテ3章16節)ものであり、 『ちり(肉体)はもとあった地(土)に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者12章7節) 『人は、肉体的には両親から生まれます。しかし、人は、霊的には御霊から生まれるのです。』 (ヨハネ3章6節) と書いてある。 わたしたちは、聖霊を受けることにより、『聖書』を正しく理解し、真理を知り、罪の奴隷から解放され、真の自由を得よう。
2012年8月9日木曜日
『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解1 』
1.クリスチャンの悪魔的な聖書理解の現状
(1) 人々を救う伝道の第一歩とは何か?
世界各国には、A.初代教会を土台に持つ原始キリスト教会 B.ローマ帝国の世俗権力と結託した旧教カトリック教会 C.旧教カトリック教会の非聖書的な教理・祭儀・組織を批判した新教プロテスタント教会 D.その他、「キリスト教」を掲げる教会 ・・・ が存在しているが、どの教会宗派(教派)に所属しているのであれ、『聖書』を人生の羅針盤とするクリスチャンである限り、『聖書』の中に頻繁に出てくる、愛すること、悪を憎むべきこと、悪魔サタンという敵と闘うべきこと、この世の権威の何たるか等に関する、最も基本的で初歩的な聖書理解に関して、『同じクリスチャンでありながら、なぜ、こうも違う理解をしているのか!』 と、驚かねばならない惨憺たる信仰生活の実態を肯定してはならない。 そして、このように千差万別な、従って、そのほとんどが間違った聖書理解をしているクリスチャンの信仰生活の惨状を認識した上で、クリスチャンを自称する人々に蔓延する悪魔的な聖書理解の現状を改革する正しい回心を促さない限り、いわゆる、「罪の奴隷」(ヨハネ8:34等)に陥っている自称クリスチャンと、キリスト教以外の諸宗教を信仰しているノンクリスチャンという隣人を、肉体的・精神的・霊的な救いへ導くことは不可能だ。 そこで、先ず、クリスチャンであることを自称し公言する人々に蔓延する悪魔的な聖書理解の現状を、「神である主イエス・キリストに清められる」(ヘブル第9章)ことの必要性を強く認識することこそが、主イエス・キリストの愛に満ちた平和な世界、即ち、神の御国である千年王国を、この地上に実現する上での不動の岩となるだろう。 なお、『聖書』には、『一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』(1コリント 1:10)と書いてある。 つまり、主イエス・キリストからの、この要求を満たすことは、真のクリスチャンの責務であり、悪魔的な聖書理解が蔓延する惨憺たる信仰生活の現状を速やかに悔い改めねばならない。 但し、ここで言う「責務」とは、責任として果たすべき務めのことであり、「一致した心」への責任を負う指導者精神を意味する。
「一致した心」に関する標語 : 『 主の御意の下にある愛は法 』(=ルカ16:17『律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい』 ローマ13:10『愛は律法を全うする』)
ヨハネ 8:30 - 34
『イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。 そこで イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。 「もし あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは ほんとうに わたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理は あなたがたを自由にします。」 彼らはイエスに答えた。 「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。 あなたは どうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」 イエスは彼らに答えられた。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 罪を行なっている者は みな、罪の奴隷です。・・・」』
1コリント 1:10
『さて、兄弟たち(コリントにある教会のクリスチャンたち)。 私(パウロ)は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。 どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』
2テモテ 4:1- 2
『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私(パウロ)はおごそかに命じます。 みことばを宣べ伝えなさい。 寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』
(2) 罪の奴隷から解放されて自由になる「救い」とは何か?
A.「救い」とは何か?
『聖書』の「救い」とは、『旧約聖書』では、災害・不幸・敵からの救助、病気の癒し、「出エジプト」の出来事、神の恵み、神の御計画、「神の民」になる契約、罪の悔い改めによる神との再会と繫がり、神の預言者の示す道を歩むこと。 また、『新約聖書』では、主イエス・キリストによる万人の罪を贖う犠牲死、信仰による罪の赦し、御再臨、天国の栄光の与り、永遠の生命、最後の審判へと至る全過程を通じての人格の完成、神との完全なる一体化、無原罪のアダムのような神の像の回復を意味する。 つまり、人の罪こそが「救い」の障害なのだ。 それでは、人の罪とは何なのだろうか? 世俗社会では、民法上の不法行為と刑法上の犯罪行為という違法行為が罪とされるが、『聖書』 が問題にしているのは、神と自己自身に対する罪だ。 「創世記」の「エデンの園」におけるアダムとイブの原罪に始まって、現代社会に生きる人の罪が問題なのである。 しかし、この罪について正しく理解している現代社会の教会や教会関係者や書物に出会ったことがあるだろうか? 「人の罪とは何か?」を追求すると、結局、人の心の問題になる。 しかし、『聖書』は、心理学の専門書ではないため、人の心の問題を詳しく分析しておらず、その解決方法のみを示している。 即ち、人の罪とは、悪魔・悪霊・悪人や死と同義語であり、人の心の中にある人生上の諸問題に対する恐怖・怯懦と、偶像礼拝・ 占い・ 悪習慣・ 誤信念といった無知・迷信に他ならない。 貧困になる事・ 死ぬ事・ 非難される事・ 老いる事などへの感情的な恐怖・怯懦、また、神と自己自身の心身・ 社会・ 自然 に対する無知・迷信を無くさない限り、神とつながれず、救われることはない。 そして、恐怖・怯懦と無知・迷信に支配された思考と行動をする人は、自己の心身を必ず不幸にする。 即ち、不健全な状態にする。 逆に、心身が健全ではなく不幸な状態にあるということは、その原因となる罪 -神の律法(モーセの十戒・ 山上の垂訓)に従わない不法に起因する、自己自身と周囲に不幸を招く恐怖・怯懦・無知・迷信といった否定的感情- に支配されているということだ。 なお、恐怖・怯懦を打ち消せるのは、神から来る確信のみであり、無知・迷信を打ち消せるのは、神から来る正しい思考(=知性=理性)によって得た自由=真理のみだ。 従って、罪の奴隷から解放されて自由になる「救い」とは、人の心にある恐怖・怯懦・無知・迷信を、神から来る確信と正しい思考によって克服し、幸福になり、最終的に、神との霊的一体化(結婚)を果たすことである。
B.「罪」とは何か?
罪とは、1ヨハネ 3: 4 などに書いてあるごとく、神の律法(モーセの十戒・ 山上の垂訓)に従わない不法に起因する、恐怖・ 怯懦・ 無知・ 迷信・ 高慢・ 利己・ 憤怒・ 憎悪・ 嫉妬・ 悪意 といった否定的感情に支配された 不幸で不健全な心身状態を指す。 なお、雑草は、刈り取っても、しばらくすると生えてくるように、聖霊に贖われ、清められた罪も、しばらくすると、心の中に生じてくる。 なぜなら、ローマ 8: 7 、ガラテヤ 5:16-21 にあるごとく、肉の思いは、御霊の思いと争い、神に反抗し、神の律法に服従できないからだ。 このため、心の中に生じた罪に勝利し続ける堅い信仰生活を送らねばならない。
ローマ 8: 7
『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』
ガラテヤ 5:16-21
『肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのため あなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』
1ヨハネ 3: 4
『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。 罪とは律法に逆らうことなのです。』
C.「罪の除去」は、主による調査・審判の後であり、主の御再臨の前である
信仰による罪の悔い改めを経て、水と霊のバプテスマを体験したクリスチャンは、神である主イエス・キリストの御霊である聖霊に罪を贖われ、罪を清められた後も、心の中に生じてくる罪に勝利し続ける堅い信仰生活を送らねばならない。 かくして、クリスチャンの信仰生活と、その一切の行動は、神である主イエス・キリストの調査・審判を経て、最終的に罪を除去され、神である主イエス・キリストの御再臨の前に、神である主イエス・キリストとの霊的一体化(結婚)を果たす。
(3) 同じクリスチャン同志でありながら、聖句への理解が極端に食い違う原因
なぜ、同じクリスチャン同志でありながら、聖句への理解が極端に食い違うのだろうか? この原因の第一は、『聖書』の奥義は聖霊の宿る者にしか理解できないこと。 原因の第二は、サタニストを含む自称クリスチャンたちの偽りの宣伝によって、聖書理解が混乱させられたこと。 原因の第三は、クリスチャン同志の間において、聖書用語の意味の一致を図ってこなかったことにある。 つまり、『聖書』の一部の聖句だけを取り出して、それを読んだところで、聖句の意味を正しく理解できない。 なぜなら、聖句の前後の文脈は、もとより、聖書全体の論理的な整合性を踏まえた上で、聖句本来の意味を捉える解読作業をしなければ、正しく理解できないからだ。 そして、何よりも、「愛」 「敵」 「平和」 「権威」 といった聖書用語の意味が、世俗社会における共通認識とは、かなり違っていることを、クリスチャン自身が十分に認識していない。 例えば、『新約聖書』における「兄弟」の意味は、主イエスを救い主(キリスト)と信ずる「クリスチャン同志」の意味で用いられ、「肉親の兄弟」を意味しないことが多い反面、世俗社会においては、「肉親の兄弟」という意味しかない。 従って、「兄弟」という聖書用語を使って、クリスチャン同志が対話または教理問答をしたところで、聖書用語の意味に対する共通認識が混乱していれば、一致した聖書理解に到達することは困難だ。 このため、本書では、「愛」 「敵」 「平和」 「権威」 という聖書用語の意味に関する共通認識の一致を図りつつ、『聖書』にある、いくつかの聖句の正しい意味を明らかにしたい。
(4) 『聖書』の中で重視されている、人の「心」に関する聖書用語
A.「健康」の定義
WHO(世界保健機構)憲章にある「健康」の定義の原文(英語)は、次である。 "Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity." 即ち、『健康とは、肉体的・精神的・霊的・社会的な幸福が満たされた動的状態である。単に疾病または病弱の存在しないことではない。』とある。 これが、世俗社会における人の健康に関する共通認識と言える。 しかし、未だに「霊」に関する万人の共通認識は生まれていない。
B.「人」の定義
WHO(世界保健機構)憲章にある「健康」の定義に基づき、「人」を定義すると、次のようになる。 即ち、『人とは、「肉体」(Physical being, Body)と「精神」(Mental being, Mind)と「霊」(Spiritual being, Spirit)より構成される社会的な存在である。』
C.「心」の定義
(A)「心」
人の「心」(Mind)とは、人を心と肉体(身体)から成る存在として心身二分化した際の表記であり、人の「心」は精神と霊から成る。 なお、『聖書』における「心」の意味は、神と繋がる座(場所)であり、愛の働きの源であり、信仰生活の中心だ。
(B)「霊魂」
精神と霊から成る「心」は、また、「霊魂」(Spirit)とも表記できる。 「魂」(Soul, Spirit)とは、肉体と霊の結びつきから生ずる喜怒哀楽といった感情を指し示し、個人の肉体に応じた「霊」の現れ方の状態に他ならない。 「霊」(Spirit)とは、神であり(ヨハネ 4:24)、人が死を迎えると、その肉体は土に還り、その霊は神へと帰る(伝道者12:7)と記されているように、「霊」は神と同義語である。
(C)心理学を包含する精神分析学における「意識」
心理学を包含する精神分析学が、心を「意識」と表記して研究してきた。 「意識」は、「意識」(顕在意識)と「無意識」(潜在意識)の2つに大きく区分できる。 なお、精神分析学者 カール・グスタフ・ユング(1875~1961)は、個人の「意識」と「無意識」を超えた、人類に普遍的に存在する「集合的無意識」の存在を提唱した。
(D)「肉体・精神・霊」の三重構造から成る「人」
「心」とは、人を「心・身」に2区分した場合の表現方法だ。 また、人を「肉体・精神」に2区分して表現する場合もある。 だから、「心」とは、「精神=意識・無意識=魂・霊」と同義語だ。 「魂」とは、肉体と霊の結び付きから生ずる感情を指す。 「感情」とは、人の「心」(=精神=意識・無意識=魂・霊)の状態を指し、喜怒哀楽・好悪・美醜・動静など多様な状態がある。 従って、人とは、「肉体・ 精神・ 霊」=「体・ 魂・ 霊」=「Body・ Mind・ Spirit」の三重構造から成る社会的存在である。
(E)『聖書』に記される数々の未知現象を解明しうる研究方法
人の「心」を理解する上において、人の視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚・松果体から成る【六感】。 概念的思考を行う「理性」・感性の現れで心の状態を示す「感情」・道徳的評価に基づく「意志」から構成される「我」(われ)という【意識】。 この「意識」では統御できない心臓等を動かしている【無意識】。 民族及び人類が共有する巨大な【集合的無意識】 という意識の三区分に立脚した精神分析学の研究方法が、『聖書』に頻繁に出てくる 霊・ 聖霊・ 預言・ 異言・不思議なわざ・ 偶然の一致・ デジャビュ(既見体験)・ 啓示、即ち、①神の御言葉 ② 御使い ③ 幻 ④ 夢 ⑤ 異象 といった未知現象と人の「心」との繋がりを科学的に解明しうる近道であると考えられる。 なお、松果体は、いわゆる「第六感」を司るが、この生理学的・心理学的な機能を解説すると長くなるため省略した。 また、「思考=知性=理性」であるから、いずれの表現を用いても構わないだろう。
D.『聖書』全体を貫く論理的な整合性に基づき、聖句本来の正しい意味を理解する必要性
本編は、人の「心」を科学的に解明することを目的とせず、『聖書』がクリスチャンに求めている『一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』(1コリント 1:10)に応じて、『聖書』全体を貫く論理的な整合性に基づき、聖句本来の正しい意味を解き明かすことを目的としている。 以下に、人の「心」、即ち、精神と霊に関する聖句の極一部を挙げよう。
創世記 1: 2
『地は形がなく、何もなかった。 やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
創世記 2: 7
『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 そこで、人は、生き物となった。』 (「いのちの息」とは、「霊魂」のこと)
伝道者12:7
『ちり(肉体)はもとあった地(土)に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』
マルコ12:30
『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
ヨハネ 3:6
『人は、肉体的には両親から生まれます。 しかし、人は、霊的には御霊から生まれるのです。』
( 『肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。』 は、誤訳である。 )
ヨハネ 4:24
『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』
ローマ8:27
『人間の心を探り窮める方(神)は、御霊(主イエス・キリスト=聖霊)の思いが何かをよく知っておられます。 なぜなら、御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』
1コリント 1:10
『さて、兄弟たち(コリント教会の信者たち)。 私(パウロ)は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。 どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』
ピリピ 2: 2
『私(パウロ)の喜びが満たされるように、あなたがた(ピリピにいる聖徒たち)は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。』
1テサロニケ 5:23
『(パウロ・シルワノ・テモテからの手紙) 平和の神(イエス)ご自身が、あなたがた(テサロニケ教会の信者たち)を全く聖なるものとしてくださいますように。 主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。』
公開2012(平成24)年8月9日(木)02:04
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