1.聖句に見る聖餐式の霊的な意義
「祭儀」とは、「神」である主イエス・キリストを正しく祭る霊的な儀式という意味である。つまり、旧教カトリック教会のミサ(ラテン語 Missa)及び新教プロテスタント教会の聖餐式(英語 Lord's supper/ Holy communion/ Eucharist/ Sacrament/ Mass)のごとく、形骸化・世俗化・異端化した儀式とは異なる、昇天後の主イエス・キリストより注がれし聖霊に「心」を融合した霊的な儀式という意味で「祭儀」を用いた。 なお、「心」とは、心理学的に表現すると、意識(顕在意識)と無意識(潜在意識)を指し、聖霊は真のクリスチャンの無意識(潜在意識)の中に雨のごとく降臨する。 また、「礼典」とは、内面的・主観的な「心」の中における「祭儀」を、第三者的な立場から外面的・客観的に表現した用語であるため、礼拝者の「心」という内面性・主観性を重視する故に、この「礼典」を用いずに「祭儀」を用いた。 さて、旧教カトリック教会のミサ及び新教プロテスタント教会の聖餐式の、何が形骸的・世俗的・異端的であるのかを具体的に述べると、ヴァチカン市国※と直結したカトリック調布教会のミサのように、「安息日礼拝」と異なる「主日礼拝」の日曜日の午前中に三回も実施する儀式の形骸化・世俗化、また、ニコライ堂で有名な旧教カトリックの正教会のように 司祭が種(酵母)入りのホスチア(ウエハース状のパン)を用いるごとき異端化、さらに、新教プロテスタントから成る日本基督教団の霊南坂教会の聖餐式のように、種(酵母)の入った市販の食パンを包丁で細かく四角形に切り分けて配るという異端化を通り越した悪魔化など、枚挙に暇まがない。 旧教カトリック教会及び新教プロテスタント教会を一括して「世の教会」と呼ぶが、聖霊の降臨なき「世の教会」が、いかに誤った儀式を執り行っているかを認識するため、『聖書』の中から聖餐式に関する聖句を取り挙げ、聖餐式の霊的な意義を明らかにしよう。
※ ヴァチカン市国とは、イタリヤ共和国の首都ローマ市内にある、ローマ・カトリック教会のローマ教皇を首長とする主権国家である。 1929年2月11日に、ローマ教皇庁(教会を統治する教会行政の中央最高機関)の教皇ピウス11世(1857~1939)とイタリヤ王国政府の首相ベニート・ムッソリーニ(1883~1945)との間において締結されたラテラノ条約により成立した。 ヴァチカン市国の領土の面積は、日本国の皇居の約四分の一であり、世界最小の主権国家である。 なお、『聖書』によれば、ローマ・カトリック教会を統治するヴァチカン市国は、エゼキエル書23章2節~3節、黙示録18章17節に書いてある「呪われた大淫婦」であるため、大患難時代に滅びる。 真のクリスチャンは、ローマ・カトリック教会を含む全ての旧教カトリック教会から離れねばならない。 黙示録18章4節に書いてあるごとく、その罪に与らず、災害を受けないためである。 外面上は壮麗な教会建築物を誇り、多くの聖遺物・美術品を収蔵するが、その内面は偶像礼拝・異端宗派・異教信仰・誤信迷信に満ちあふれ、中世の暗黒時代には老若男女の敬虔なクリスチャンを大量虐殺し、十字軍やイエズス会などを用いて地上の諸国・諸民族に対する領土侵略・文化破壊・住民殺戮・奴隷貿易・人身売買などを繰り返してきた。 また、『安息日礼拝を止め、主日礼拝を行う』『十戒の偶像礼拝禁止等を削除した』『司祭は、告解において人の罪を赦す権威がある』 と宣教するなど、『聖書』 の教えに背き続けている。 但し、神である主イエス・キリストは、旧教カトリック教会を筆頭とする幾多の異端教会に集う人々の回心・救いを願い求め、たった一人でも敬虔な信徒・信者がいる限り、幾多の異端教会をお見捨てになる事はない、と信ずる。
『聖書』にある聖餐式に関する聖句
マタイ 18:19-20
『 (・・・イエスは弟子たちに告げて言った。・・・) まことに、あなたがたにもう一度、告げます。 もし、あなたがたのうちのふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』
マタイ 26:26-29
『(また、) 彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。 「取って食べなさい、これはわたしのからだです。」 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。 「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。 罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 ただ、言っておきます。 わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」 』
ルカ 22:14-20
『さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。 イエスは言われた。 「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越(すぎこし)の食事をすることをどんなに望んでいたことか。 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。 そしてイエスは、杯(さかずき)を取り、感謝をささげて後、言われた。 「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」。 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。 「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。 わたしを覚えてこれを行ないなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。』
ヨハネ 6:47-63
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。 信じる者は永遠のいのちを持ちます。 わたしはいのちのパンです。 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。 しかし、これは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがないのです。 わたしは、天から下って来た生けるパンです。 だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。 またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉をわたしたちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。 イエスは彼らに言われた。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。 わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるであろう。これは、天から下って来たパンです。 あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。 このパンを食べる者は永遠に生きます。」 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。 「これは、ひどいことばだ。 そんなことをだれが聞いておられようか。」 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。 「このことで、あなたがたはつまずくのか。 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。 いのちを与えるのは御霊です。 肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』
1コリント11:23-34 -パウロとソステネからコリント教会への手紙-
『私(パウロ)は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。 すなわち、主イエスは渡される夜、パンをとり、感謝を捧げて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。 わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 食事の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 からだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。 このために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。 ですから、兄弟たち。 食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。 空腹な人は家で食べなさい。 それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。 その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。』
2.聖餐式は、主イエス・キリストの贖罪死・復活・昇天の意義を覚える霊的儀式
「人」と言う場合、主イエス・キリストの降誕時を起点とする過去・現在・未来の「人」を指し、現在の真のクリスチャン及び自称クリスチャン並びにノンクリスチャンを含む「不完全な人」を意味する。 「完全な人」とは、神の命令に背いて「善悪の知識の木の実」を食べる以前の、神ご自身のかたちに創造されたアダム(創世記 1:27)と、「神の子」にして「人の子」である主イエス・キリストのみだ。 さて、御父にして唯一の神ヤハウェ(『旧約聖書』における御神名)は、悪と罪と死に囚われた人に、神の愛と義を示して救いの道を開くため、「神の子」である主イエス・キリスト(『新約聖書』における御神名)を、処女マリアの胎を通じて「人の子」として地上へ遣(つか)わされた。 なぜなら、御霊である神ご自身が肉体を備えた人にならなければ、神ご自身の御血を注ぎ出して殺される(死ぬ)という、神の愛と義を示す自己犠牲によって万人を救う道を開けないからである。 かくして、偶像礼拝などによって神を冒涜してきた人の罪を、主イエス・キリスト御自らの生命(=御血)によって贖うため、御自らには何ら責められる罪がないにもかかわらず、『神を冒涜した』(マルコ2:7、ヨハネ10:33-36)というユダヤ人たちの糾弾を受けながら十字架に磔になられた。 つまり、主イエス・キリストは、悪と罪と死に囚われている人の怒りをなだめる「供え物」(ローマ 3:25)となり、人の罪を価(あたい)なしに御自らの生命を犠牲にして贖うという義を示されたのである。 ちなみに、「供え物」の英語「Propitiation」は、「怒りを鎮めるもの、なだめるもの」という意味であるが、主イエス・キリストは、神から人への愛と義を示す自己犠牲を果たし、人の怒りを鎮め、人を悪と罪と死から救う道を開くため、神へ捧げられた「供え物」である。 但し、『旧約聖書』 の時代には、「出エジプト」の24,29,30,34章と「レビ記」の随所に記されているごとく、人(祭司)は、神の怒りを鎮め、神をなだめる「供え物」としての雄牛や雄羊を殺して、その血と肉を祭壇に奉献していた。 なお、「贖罪」とは、「人の罪をまぬかれさす」「人の罪をつぐなう」「人の罪滅ぼしをする」という意味である。 主イエス・キリストの十字架の贖罪死は、使徒ヨハネまたはエペソ教会の長老ヨハネによる「ヨハネ福音書」 3:16-18、「ヨハネ第一の手紙」 4:8-10 において神の愛とされ、異邦人への使徒 パウロによる「ローマ人への手紙」 3:23-26 において神の義とされる。 但し、パウロも、「エペソ人への手紙」 5:2 においてキリストの愛としている。
ヨハネ福音書 3:16-18
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 神が御子を世に遣(つか)わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。 信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』
ローマ 3:23-26
『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。 それは、ご自身の義を現わすためです。 というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』
エペソ 5: 2
『また、愛のうちに歩みなさい。 キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。』
1ヨハネ 2: 2
『この方(主イエス・キリスト)こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。 』
1ヨハネ 4:10
『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 』
主イエス・キリストの十字架の贖罪死により、神から人への愛と義が貫徹されたゆえに、悪魔・悪霊・悪人に対する裁きが、この地上で果たされつつあり、今現在も、『聖書』 の預言に示されている「神の御計画」が成就しつつある。 従って、主イエス・キリストの隣人愛の戒め、十字架の磔刑で流された御血(自己犠牲の贖罪死、新しい救いの契約)、死(黄泉)からの復活、天国(神の御国)への昇天、主イエス・キリストの御再臨を信ずる真のクリスチャンと、唯一の神ヤハウェ(=主イエス・キリスト)との対立・不和・分離の関係は過ぎ去り、神と人とは和解し、真のクリスチャンの罪は赦され、永遠のいのち(不死・栄光・愛)を与えられるに至った。 真のクリスチャンは、御父ヤハウェと御子イエス・キリストと助け主の聖霊とが同一の御霊であり、この同一の御霊の中心が主イエス・キリストであることを知り、主イエス・キリストを唯一の神として礼拝する霊的な儀式である聖餐式を通じて、主イエス・キリストの自己犠牲によって示された愛・義・救い・恵みを覚えることにより、主イエス・キリストとの霊的な一体化を遂げる。
マタイ 18:19-20
『 (・・・イエスは弟子たちに告げて言った。・・・) まことに、あなたがたにもう一度、告げます。 もし、あなたがたのうちのふたりが、どんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』
マタイ 22:36-40
[ (パリサイ人のうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた) 「先生。 律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。 『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 これがたいせつな第一の戒めです。 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』]
ヨハネ 4:24
『 (ヤコブの井戸にひとりの女が水をくみに来た。イエスは彼女に言われた。・・・) 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』
ヨハネ 14:26
『 (イエスはイスカリオテでないユダに答えられた。・・・) (しかし、)助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』
ヨハネ 17:3
『 (イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。・・・) (その)永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』
使徒の働き 17:30-31 -ルカ書の著者がルカ書の続編として記した-
『神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。 なぜなら、神は、おたてになったひとりの人により義をもってこの世界を裁くため、日を決めておられるからです。 そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。』
1コリント 5:6-8 -パウロとソステネからコリント教会への手紙-
『あなたがたの高慢は、よくないことです。 あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。 あなたがたはパン種のないものだからです。 私たちの過越の子羊キリストが、すでにほふられたからです。 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。』
1コリント 8:4-6
『 (そういうわけで、)偶像にささげた肉を食べることについてですが、私達たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。 また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。』
3.聖餐式を執り行う上での留意事項
(1) 聖餐式の雛型は、過越祭にあり
出エジプト 12:1- 27
[ 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。 イスラエルの全会衆に告げて言え。 この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。 それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。 そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。 その夜、その肉を食べる。 すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。 その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。 それを朝まで残してはならない。 朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。 腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。 これは主への過越のいけにえである。 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。 わたしは主である。 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。 わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。 わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。 あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。 その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。 第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。 また第一日に聖なる会合を開き、第七日にも聖なる会合を開かなければならない。 この期間中、どんな仕事もしてはならない。 ただし、みなが食べなければならないものだけは作ることができる。 あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。 それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。 あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。 だれでもパン種のはいったものを食べる者は、在留異国人でも、この国に生まれた者でも、その者はイスラエルの会衆から断ち切られるからである。 あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。 あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」 そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。 「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。 朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家にはいって、打つことがないようにされる。 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。 また、主が約束どおりに与えてくださる地にはいるとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。 あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、 あなたがたはこう答えなさい。 『それは主への過越のいけにえだ。 主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」 すると民はひざまずいて、礼拝した。]
聖餐式は、最後の晩餐において、主イエス・キリストが弟子たちに下した戒めに由来するが、『旧約聖書』 の時代に遡ると、モーセによる「出エジプト」を記念する過越祭が、聖餐式の雛型である。 但し、『旧約聖書』 の「出エジプト」の中には、主イエス・キリストによる「新しい契約の血」の象徴である「ぶどう酒」は出てこない。 なぜなら、『旧約聖書』 のモーセの時代においては、「ほふった羊」(主イエス・キリストの雛形)の血を、家々の二本の門柱と、かもいに実際に塗りつけたし、モーセ以後のアロンの祭司たち(レビ族の祭司たち)の時代になると、年毎の「供え物」(雄牛や雄羊など)を殺し、その血と肉を神の前の祭壇に捧げ、イスラエルの民全体の罪を贖い続けていたからだ。 ところが、『新約聖書』 の主イエス・キリスト以降の時代においては、神への「供え物」である雄牛や雄羊などを殺して、その血と肉を祭壇に捧げる贖罪の祭儀を廃止し、「出エジプト」(=罪の奴隷からの解放の雛形)を記念して、「ほふられた羊」(=主イエス・キリスト)の血(=神と人との新しい契約を交わすための自己犠牲を甘受して十字架に磔にされた主イエス・キリストの御血)の象徴である「ぶどう酒」を飲むようになった。 ちなみに、ヤコブ・ヨハネ・ペトロを三本柱とする初代教会(主イエス・キリスト昇天後のエルサレム教会)の聖餐式は、年一回の過越祭で盛大に執り行われる他、「使徒」2:42の様子から安息日ごとに行われていた可能性が高い。 そもそも、『聖書』 に記されている「先の雨」としての聖霊降臨によって成立した初代教会の勃興以来、久しく途絶えていた「真の教会」の産声は、聖霊中心主義のぺンテコステ派に他ならない。 つまり、1901年に米国カンザス州トピカにあるベテル聖書学院で行われた年末年始の祈祷会で、その指導者であるチャールズ・フォックス・パーハム(1873~1929)をはじめとするベテル聖書学院の神学生たちが 聖霊のバプテスマ を体験し、異言で神を讃美した現象に始まる聖霊中心主義のペンテコステ派が、「後の雨」としての聖霊降臨によって成立した「真の教会」の産声になる。但し、「後の雨」は、これからも起こると多々預言されている。 従って、聖餐式は、1901年の米国カンザス州トピカのように、年末の大晦日の深夜23時頃に集い、人となって来た神である主イエス・キリストを賛美しながら新年を迎えた元旦に行うこと。ユダヤ暦に基づく主要な例祭の日に行うこと。毎週の安息日に行うことが最も適正である。だから、『旧教カトリック教会のミサ及び新教プロテスタント教会の聖餐式のごとく、安息日と異なる日曜日(主日礼拝)の午前中に三度も実施したり、市販のクラッカーをパンとして用いたり、ぶどう酒を飲まないなど、デタラメに実施する「世の教会」は、尊い霊的な儀式である聖餐式を精神的・霊的に軽んじ、形式的・世俗的・肉的な儀式へと貶(おとし)めている』と言えよう。
1コリント 10:17
『パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。 それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。』
聖餐式において配られるパンは、主イエス・キリストの霊的な体の一部である御肉を象徴する。 また、真の教会は、主イエス・キリストの体であり、教会の頭は、主イエス・キリストご自身である。 即ち、主イエス・キリストの体は一つだけであって、複数の体が存在しているのではない。 従って、聖餐式に用いるパンは、一つだけの種なしパンを用いる。 絶対に複数の種なしパンを用いてはならない。 なお、種とは、酵母(イースト菌)のことであり、腐敗堕落・高慢心・増長心の象徴である。 聖餐に与るクリスチャンはみな、主イエス・キリストにあって一体であるため、常に謙遜と柔和と寛容と愛とをもって、お互いに一体であるとの想いを抱かねばならない。
斎戒沐浴と断食と祈りによって自己の心身を聖別した祭司が、パンを作る。 この場合、小麦を石臼(いしうす)で挽(ひ)いて小麦粉にし、この白い小麦粉に適量の聖別された水を加えて十分に練り上げた後、これを熱した鉄板の上に平らに引き延ばして焼き上げて作る。 便利な現代社会では、市販の小麦粉に聖別された水を加え、神に感謝の祈りを捧げながら、これを練り上げ、フライパンの上で焼いてパンを作る。 この際、パン種 (酵母=イースト菌 )を混ぜてはならない。 ちなみに、日本列島の山系から湧き出る水は、カルシウムとマグネシウムの含有量が比較的に少ない軟水である。 軟水は、日本茶や日本料理のうまみを引き出すのに最適な水だ。 そして、この軟水を瓶などに入れ、安息日礼拝の時に祈りの力によって霊的に清めた水を、聖別された水、即ち、聖水と言う。
一方、杯の中にある聖別されたぶどう酒は、霊的な実体において、真のクリスチャンの罪を赦して下さる主イエス・キリストの「新しい契約の血」である。 万人を贖う主イエス・キリストの犠牲死を想いながら、これを飲むたびごとに主イエス・キリストの高き深き愛に基づく新しい契約を覚えよう。 そして、現在、天国(神の御国)におられる主イエス・キリストと、地上に暮らす真のクリスチャンとの霊的な一体化を助けて下さるのは聖霊だ。 御父ヤハウェが御子イエス・キリストの御名によってお遣わしになる聖霊は、真のクリスチャンの助け主である。 聖餐式において、聖霊の助けに与りながら、主イエス・キリストの御肉(種なしパン)を食べ、その御血(ぶどう酒)を飲む真のクリスチャンは、主イエス・キリストと霊的に一体化される。
(2) 聖餐式のパンは、パン種 (酵母=イースト菌 )のないものを使う
出エジプト 12:15 ―主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。―
『あなたがたは七日間 種を入れないパンを食べなければならない。 その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。 第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。』
出エジプト 12:17- 18
『あなたがたは種を入れないパンの祭りを守りなさい。 それは、ちょうどこの日に、わたしがあなたがたの集団をエジプトの地から連れ出すからである。 あなたがたは永遠のおきてとして代々にわたって、この日を守りなさい。 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種を入れないパンを食べなければならない。』
出エジプト 12:20
『あなたがたはパン種のはいったものは何も食べてはならない。 あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。』
出エジプト 23:15
『種を入れないパンの祭りを守らなければならない。・・・』
出エジプト 34:18
『あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。・・・』
レビ 23: 6 ―主はモーセに告げて仰せられた。―
『この月(第一月)の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。・・・』
民数記 9:11 ―主はモーセに告げて仰せられた。―
『・・・種を入れないパンと苦菜といっしょにそれ(過越のいけにえ)を食べなければならない。・・・』
申命記 16: 3 ―モーセがイスラエルのすべての民に告げたことばである。―
『それ(過越のいけにえ)といっしょにパン種を入れたものを食べてはならない。 七日間は、それといっしょに種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない。 あなたが急いでエジプトの国から出たからである。 それは、あなたがエジプトの国から出た日を、あなたの一生の間、覚えているためである。』
(3) 7つの悪いパン種
『旧約聖書』 の過越祭=『新約聖書』 の聖餐式に用いるパンは、パン種を除かねばならない。 パン種を除く理由は、酵母(イースト菌)によるパンの醗酵と増長の変容過程が、人の心の腐敗堕落と高慢増長の変容過程と同一の相似象(象徴)であるためだ。 これ故、聖餐式は、種なしパンを用いて祝わねばならない。 『聖書』は、「パン種のはいらない、純粋で真実なパン」とは違う、7つの悪いパン種を示し、悪いパン種を取り除くように命じている。ちなみに、日本伝統の食文化である正月の「おせち料理」は、出エジプト時の日持ちのする携行食と同じであり、「餅」(ヘブライ語 単数形マッツァ 複数形モチ)は、種なしパンそのものである。
A. 高慢のパン種---------1コリント 5: 6 = 高慢・自慢・自尊・利己
B. 古きパン種------------1コリント 5: 7 = 古い時代の文化文明・旧約時代の慣習
C. 悪意のパン種---------1コリント 5: 8 = 悪意・敵意・嫉妬・憎悪
D. 不正のパン種---------1コリント 5: 8 = 不正・不法・捏造・詐欺
E. パリサイ人のパン種----マタイ 16: 6、マルコ 8:15 = 形式・偽善・権威主義的な宗教権力
F. サドカイ人のパン種-----マタイ 3: 7、マタイ 16: 6 = 世俗主義・功利主義・霊否定の唯物論
G. ヘロデのパン種----------マルコ 8:15 = 殺戮・猜疑心・狡猾・横暴な政治権力
マタイ 3: 7
『しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。 「まむしのすえたち。 だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」』
マタイ 12:34
『 (イエスは、パリサイ人に言った。) まむしのすえたち。 おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。 心に満ちていることを口が話すのです。』
『イエスは彼らに言われた。 「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」』
マタイ 16:12
『彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。』
マタイ 23:33
『 (イエスは、群集と弟子たちに、パリサイ人について話した。) おまえたち蛇ども、まむしのすえども。 おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。』
マルコ 8:15
『そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。 「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」』
1コリント 5: 6- 8
『あなたがたの高慢は、よくないことです。 あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。 あなたがたはパン種のないものだからです。 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。』
ガラテヤ人 5: 9 -パウロと共にいる兄弟たちからガラテヤにある諸教会への手紙-
『わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。』
(4) 聖餐式は、主イエス・キリストの御再臨の日まで継続される
1コリント 11:23-32 -パウロとソステネからコリント教会への手紙-
『私(パウロ)は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。 すなわち、主イエスは渡される夜、パンをとり、感謝を捧げて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。 わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 食事の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。』
聖餐式は、主イエス・キリストの御再臨の日まで教会において継続される。 なお、ここで言う「教会」とは、「神の教会」「真の教会」のことであって、旧教カトリック教会及び新教プロテスタント教会という「世の教会」のことではない。 聖霊の降臨なき「世の教会」の聖餐式は、霊的に形骸化しており、聖餐式に関係した1コリント 11:23-25 などを漫然と朗読しながら、「世の教会」に集う関係者の親睦を図るだけの、儀式めかした飲食会へと堕ちている。 また、聖餐に与る条件に関して、『洗礼を受けたクリスチャンに限る』 とか、『成人に限る』 とか、『聖書』 には具体的に何も記されていない。 このため、「世の教会」の内部においては、聖餐に与る条件に関する論争と紛議が生じているが、『もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』 と1コリント 11:27-28 に書いてあるように、洗礼を受けていないノンクリスチャンであっても、主イエス・キリスト=聖霊に導かれた者、あるいは、イエス・キリストを自らの主(所有者・中心者)として受け入れた者である限り、聖餐に与ることができる。 個々人の信仰心が教会の礼典の礎であり、教会の礼典よりも個々人の信仰心を優先しなければならない。 従って、洗礼を受けてクリスチャンになるのは、聖餐に与った後でも構わないのである。 但し、子供は、その子供の養育に責任を持つ親が余程の堅い信仰者でない限り、子供が聖餐を貶(おとし)める言動をしたり、聖餐の味などから子供が何らかの偏見を聖餐に抱いたり、子供であるが故に自らの信仰心を吟味できないため、聖餐に与らせるべきではない。 なお、悪魔・悪霊に憑かれている自覚のない者が、真の聖餐に与るならば、病気・事故・災害・災難・死亡という不幸を招くことになるが、形骸化した非聖書的で冒涜的な聖餐に与る限りにおいては、日常の飲食と変わらないため、何らの不幸も招かないだろう。 さらに、真の聖餐に与ったか否かという霊的儀式の真偽を問う事とは別に、実際に見聞した「世の教会」の霊的実態について言及しておくと、出鱈目な聖餐式を繰り返した名ばかりの牧師に関しては、現代医学でも解明できない原因による骨と皮ばかりになる極端な痩身化・ 女性信者とのホテルからの飛び降り自殺・ 多重人格化した精神錯乱・ 家庭内暴力による家族崩壊などがあったし、これらの牧師を中心に集う信者たちに関しても、運転中の重大な交通事故の頻発・ 親族の連続する突然死や病死・ 階段からの転落による顔面負傷・ 従来の健康状態からは考えられない急速な病弱化・ 強毒性インフルエンザへの感染などの不幸が、通常の社会生活を営む個人の「不幸に陥る確率」からすればありえないほどの高い比率と頻度で起き、聖霊のもたらす心の平安も見られない。
(5) 聖餐式に用いるパンと杯(ぶどう酒)を吟味し、その祭儀要領を守る
聖餐式に用いる飲食物は、種なしパン一個と杯(ぶどう酒)だけである。 杯(ぶどう酒)は、酸化防止剤などの食品添加物の入っていないものを用いる。 なお、ぶどう汁は、自然に発酵してぶどう酒になるため、『聖餐式でぶどう酒を飲むのは不見識だ』 という主張をする者の方が不見識なのである。 また、主イエス・キリストの最初の奇跡が、水をぶどう酒に変えたことを想起しよう。 つまり、ヨハネ 2:1-11のごとく、ガリラヤのカナでの婚礼時に、母マリアが主イエス・キリストに向かって『ぶどう酒がありません。』 と言うと、主イエス・キリストは、『女の方。わたしの時はまだ来ていません。』 と答え、水をぶどう酒に変えた。 『わたしの時はまだ来ていません。』 とは、最後の晩餐の時に、弟子たちに対し、主イエス・キリストの御血、即ち、新しい契約の血の象徴であるぶどう酒を飲むように戒める時が来ることを預言したものだ。 主イエス・キリストの御血、即ち、新しい契約の血を象徴するぶどう酒の創造こそが、『新約聖書』 における最初の奇跡であるが、このぶどう酒は、真のクリスチャンにとって永遠に奇跡であり続ける。 なぜなら、霊的に正しく執り行われた聖餐式のぶどう酒を飲むことにより、『聖書』 の隠喩において 「火」 「油」 「雨」 などと表現される「聖霊」が、聖餐に与る真のクリスチャンの心の中に注がれ、永遠の生命という奇跡そのものを得るからだ。 さて、聖餐式を司る祭司(伝道者・牧師など)は、主イエス・キリストが為されたように、先ず、パンを祝し、クリスチャンの数に応じてパンを自らの手で裂いて与え、次に杯(ぶどう酒)を祝して、これを分け与える。 ここで言う「祝す」とは、主イエス・キリストの御愛に感謝の祈りを捧げ、心の中で、霊的な実体において、種なしパン一個は主イエス・キリストの霊的な体の御肉であり、杯(ぶどう酒)は主イエス・キリストの御血であると想像しながら、主イエス・キリストとの霊的な一体化を果たして救われることを歓喜して祝うという意味である。 従って、主イエス・キリストの霊的な体の御肉である種なしパン一個を、ビニール手袋を着けた手で裂いたり、複数の者が手分けして裂いたりしてはならない。 なぜなら、主イエス・キリストの霊的な体の御肉は清く、『(主イエス・キリストを信ずる者は)毒を飲んでも決して害を受けず』(マルコ16:18)、聖餐式の霊的な責任を負う祭司は、一人のみだからだ。 なお、杯(ぶどう酒)に関しては、ぶどうの果肉だけを用いて作られた白ぶどう酒ではなく、ぶどうの果肉・種・皮のすべてを用いて作られた赤ぶどう酒を用いる。 さて、現代のローマ・カトリック教会のミサでは、司祭がカリス(ぶどう酒の入った杯)を持って信徒に配ったり、信徒が祭壇上に置かれたカリスにホスチア(ウェハース状の薄いパン)を浸して与ったり、信徒が司祭から手の平に与ったホスチアを口に入れてからカリスを持って、ぶどう酒に与っている。 なお、司祭が信徒の口の中にホスチアを入れる理由は、信徒の手の平に乗せるとホスチアの粉末が手の平に残ったり、邪悪な信徒がホスチアを持ち帰って悪魔礼拝に悪用する危険性があるからだ。
(6) 聖餐に与るクリスチャンの心得
出エジプト 12:7-8 ―主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。―
『 (羊は傷のない、一歳の雄でなければならない。・・・夕暮れにそれをほふり、) その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。 その夜、その肉を食べる。 すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。』
この聖句は、腐敗しない、真理の、永遠の命である種なしパンを食べ、「ほふられた子羊」(後の世に現れる主イエス・キリストの象徴)の苦しみを、苦菜を添えて食べることで覚えるべきことを示している。 なお、苦菜(にがな)とは、山葵(わさび)であると考えられる。
マタイ 26:26- 28
『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。 「取って食べなさい、これはわたしのからだです。」 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。 「みな、この杯から飲みなさい。 これは、わたしの契約の血です。 罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』
主イエス・キリストは、弟子たちとの最後の晩餐において、御自らの体の象徴である種なしパンを食べ、人の罪(人の心にある恐怖怯懦と無知迷信という否定的感情のもたらす不幸な現象)を赦す契約の血の象徴である杯(ぶどう酒)を飲むように命じられた。 この聖餐式の雛型は、過越祭を記した「出エジプト」12:1- 27にある。 従って、聖餐式は、過越祭のように年一回だけ執り行うことを原則とすべきだ。但し、世界各国と日本全国に散在している兄弟姉妹と再会する「大聖会」等の特別集会の時を例外とする。霊的・精神的な集中力を欠いた状態で漫然と毎週・毎月・年数回も形式的に執り行うべきではない。
主イエス・キリストは、当時のパリサイ派等のユダヤ教の祭司・長老・ユダヤ人たちから、『神を冒涜した』(マルコ2:7、ヨハネ10:33-36)と糾弾され、ローマ帝国ユダヤ属領総督のポンテオ・ピラト(在任26- 36)の下で不条理にも裁かれ、ユダヤ人やローマ軍兵士からの罵詈雑言を浴びつつ痛ましい拷問を受け、大きな木の十字架に釘で磔にされるという極めて残酷な方法で公開処刑されたが、『イエスは、ユダヤ社会の改革に失敗した、反逆的な指導者だ』 という見方は、あまりにも表層的で世俗的な見方である。 つまり、『聖書』による真相的で霊的な見方によれば、主イエス・キリストを信ずるクリスチャンの罪を贖い、悪と罪と死に囚われている人を救うため、「神の御計画」(使徒 2:23、同左 20:27、ローマ 8:28、エペソ 3:11)に従い、自発的に御自らの生命を犠牲にされた。 従って、主イエス・キリスト御自らの一身上に、人の悪と罪と死を背負い、御自らの生命を犠牲にされた、その気高き愛と義を悟り、その自己犠牲に感謝の気持ちを抱き、十字架に磔にされながら死へと至る、その苦しみを偲びつつ、主イエス・キリストを通して人の悪と罪と死に対する完全なる勝利への道が開かれたことを知り、主イエス・キリストの世々限りなき栄光を賛美しつつ、聖餐に与かるべきである。
4.真のクリスチャンの集う安息日礼拝に参加する意義
聖餐式を執り行うか否かにかかわらず、クリスチャンが集う「安息日礼拝」(金曜日の日没後から土曜日の日没前までの間)を継続する意義は、次の聖句にある。つまり、マタイ18:20 に書いてあるように「主イエス・キリストの御臨在」に与ることにある。
出エジプト 20: 8
『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。』
レビ記 23: 3
『六日間は仕事をしてもよい。 しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。 あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。 この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。』
申命記 5:12
『安息日を守って、これを聖なる日とせよ。 あなたの神、主が命じられたとおりに。』
申命記 5:15
『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。 それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。』
エゼキエル 20:20
『また、わたしの安息日をきよく保て。 これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ」と。 』
マタイ 12: 8
『人の子(イエス)は安息日の主です。」』
マルコ 2:27-28
『また(イエスはパリサイ人に)言われた。 「安息日は人間のために設けられたのです。 人間が安息日のために造られたのではありません。 人の子(イエス)は安息日にも主です。」』
ルカ 6: 5
『そして、(イエスは)彼ら(パリサイ人)に言われた。 「人の子は、安息日の主です。」』
マタイ18:20
『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたし(イエス)もその中にいるからです。』
※ この聖句に関しては、「仲の良い夫婦のように心(意識)を完全に一致させた二人以上」が集わないことには容易に実現しないと実感するが、『悪魔礼拝に堕ちたキリスト教の集会でない限り、その時と状況に応じて、神である主イエスの御意による』と言える。
主イエス・キリストが、地上に御再臨されるまでの間、主イエス・キリストは、天国(神の御国)におられるため、その御霊である聖霊が、地上で暮らす真のクリスチャンの心の中に雨のごとく降り注がれている。 しかも、真のクリスチャンが単独でいる場所よりも、複数で集う時と場所に、主イエス・キリストも、霊的に存在しうることが示されている。 もちろん、真のクリスチャンが単独で暮らす家の中、家族団欒の時、職場の中、仕事に励む中、電車や自動車で移動している時など、いかなる時間・場所・状況においても、聖霊は、真のクリスチャンの心に雨のごとく浸透し融合している。 しかし、真のクリスチャン個人が直面する困難な問題を解決する上において、真のクリスチャンが複数集う牧会に参加した方が、より速く大きな霊的効果を得られるものだ。 霊的効果とは、問題を相談したことによって得られた回答かもしれないし、愛のある人間関係かもしれないし、牧会とは無関係な「偶然」の出来事かもしれない。 そもそも、真のクリスチャンは、「地の塩」 「世の光」(マタイ5:13-16、マルコ9:48-50、ルカ14:34-35)として、主イエス・キリストの愛と義を広めるべく働いているのであり、主イエス・キリストを信じ、その教えに従う限り、聖霊が、いつ、いかなる時であっても助けてくれる。 人の眼に見えない霊的な存在である聖霊は、地上で暮らす真のクリスチャンに困難を乗り越える意思と勇気と知恵を与え、周囲の状況を変え、新たな道を切り開いてくださる。 実際に、こうでなければ、主イエス・キリストを信仰する意味がなく、肝心の「救い」「恵み」が眼に見える形で現実化しないのであれば、その人の信仰は、悪魔の霊的支配下にあり、真のクリスチャンの信仰とは言えない。
5.祈りをかなえる秘訣
(1) 『すでに受けた』(マルコ11:24) と無意識の次元で信ずる
A.無意識の次元で想像して信じたとおりになる
マルコ 11:24 は、人の「現実」を形成する無意識(潜在意識)の「力」、即ち、人の心の奥底に宿る不思議な「力」を簡潔明瞭に明かした。 つまり、『人の未来は、人の想像力から始まる。 人の未来は、その人が無意識の次元で想像したとおりの未来になる』 ということだ。 別言するなら、『人に想像さえできないことは、その人に実現できない』 とも言える。 人の「現実」は、『わたしは、こうしたい』 と具体的に細かく想像することから創造されて行く。 そして、『わたしの心の中だけで想像した夢物語に過ぎない』 というように、「神」の眼から見れば、極めて限定された人の理性をもって客観視することなく、『わたしは、既に現実化しました。手に入れました。主の恵みと憐みに深く感謝を致します』 と、心の奥底、即ち、無意識から信じたのであれば、そのように信じた人の「現実」は、信じたとおりになる。 つまり、天地の創造者である唯一の大能の「神」である主イエス・キリストの御霊(=聖霊)と心(=意識・無意識)において直結した真のクリスチャンであれば、『聖書』 の教えに背くことなく、主イエス・キリストの御意にかなう祈りを捧げるのであり、こうした心の状態を保ちながら、具体的に細かく想像し、強く求め、『すでに受けた』 と無意識の次元において信じたことは、この地上において「現実化」する。 しかも、人の理性的な判断からすれば思いもよらない形で、人の考える因果律(原因と結果の連鎖)とは無関係に、何らの脈絡もないまま、忽然と「現実化」する。 但し、「現実化」の成就の時期は、神の御意に基づき、数日後・数週間後・数カ月後・数年後・数十年後と多種多様だ。 また、民族全体の歴史に関わる祈りであれば、預言の成就のごとく数百年後になる場合もある。 だから、1ヨハネ 5:14-15 に書いてある強い信仰心を保ち続けられるか否か、これが祈りをかなえる秘訣になる。
B.神の視点からすれば、原因と結果の因果関係を持つ「不思議」な奇跡と運
(A) 『情けは、人のためならず、自分のため』
人の視点からすれば、『不思議だ』 『奇跡だ』 『運が良い』 『偶然だ』 と考えざるを得ない現象世界の様々な出来事が起きる。 しかし、神の視点からすれば、人にとって「不思議」としか表現のしようのない奇跡と運にも必ず原因と結果の因果関係がある。 例えば、『情けは、人のためならず、自分のため』 『自分の撒いた種は、自分で刈り取る』という諺、即ち、『人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』(ガラテヤ 6:7)という聖句のごとく、人にとって「不思議」な奇跡と運にも必ず原因(種)と結果(刈り取り)の因果関係がある。 このため、神に祈り求める物事を「現実化」することを助ける「良い種」を、常日頃から撒いておく必要がある。
(B) 無意識の扉を開いて神に祈る
『無意識の次元で、祈り、想像し、信ずる』 と言っても、「異言の祈り」を実際に体験していない人には理解困難だろう。「異言の祈り」とは、無意識から湧き出る聖霊の言葉による祈りに他ならないが、この時に、神に祈り求める物事を具体的にヴィジュアルに想像しながら、『すでに受けた』と信ずると、それが「現実化」される。 なお、「異言の祈り」の他にも、無意識の扉を開いて神に霊的に祈る方法は、他にもある。「無意識の扉を開く」とは、別の同義語を用いて表現すると、「変性意識・ 催眠状態・ 瞑想状態・ トランス状態を作り出す」という意味だ。いずれの祈祷方法にせよ、人は寝ている時に無意識に落ち込み、そこで夢を見るわけであるから、眠って夢を見ている時と同じ無意識の状態を作り出し、この状態で神に祈る必要がある。
C.自己の神聖なる祈りの時間と 自己の世俗社会の生活を明確に区別する
神に賛美と感謝の祈りを捧げ、また、何かの物事を神に祈り求める時には、神に祈り求めた物事の現実化を、一切の客観性を排除して無意識の次元で信じられるようにならなければならない。 しかし、神に祈り求める時以外の通常の世俗社会の生活では、自己の意識・無意識の中の客観性と主観性を均衡・調和させなければならない。 なぜなら、そのようにしなければ、世俗社会の生活において自己の精神の調和を保てず、自制心を失い、正しい思考に基づく正しい判断を下せず、世俗社会の物事の真理・真実・事実を認識できなくなるからだ。 この意味で、自己の祈りの時間とは、自己の意識・無意識を主観性だけで満たす、世俗社会の生活と隔絶した非日常的で神聖な時間である。
D.自己の神聖なる祈りとは異なる世俗社会の中における「祈り」
世俗社会の生活と隔絶した非日常的で神聖な祈りの時間とは異なる、世俗社会の中における「祈り」もある。但し、正確には「祈り」と言うよりも「心の持ち方」「願望の実現方法」と呼ぶべきだ。これ即ち、「欲求+思考×感情×意志=行動」という図式になり、自己の五感から生ずる生理的欲求を満たし、また、自己の思考を現実化するために、物事を正しく思考し、情熱を持ち、意志を貫き、計画的に行動することである。別の表現をすれば、自己の人生の明確な目標を持ち、明確な計画の下に、粘り強く継続的に追求する事が、世俗社会の中における最も効果の高い「祈り」になる。
(2) 人の祈り求めに対して、常に 『その通り』 という、人の祈り求めを肯定する神の応答システム
マルコ 11:24 にある『すでに受けた』 と無意識の次元で信ずることは、通常の人には不可能だ。 なぜなら、人の意識は、直面している「現実」を受け入れてしまい、『 ~ して下さい』 『 ~ をお願いします』 『 ~ が必要です』 という祈りをするだけで、直面している「現実」を完全に忘れ去って、『すでに受けた』 と信ずることは非常に困難だ。また、この困難に加え、人の祈り求めに対する神の回答は、人が神に苦しみを訴えても、神に喜びを感謝しても、神に愚痴をこぼしても、神に泣き叫んでも、神の応答は、常に 『その通り』 という、人の喜怒哀楽の「感情」と、森羅万象の「現実」を肯定したものになる事を認識していない。 例えば、人が神に祈り求めれば、神は、その人の祈り求めに対して 『その通り』と応答されるため、人が神に祈り求めた時の心の「現実」だけが叶えられるのであり、人が神に祈り求めた「もの」が叶えられるのではない。つまり、人が神に祈り求めて、人の信じた「もの」が叶えられる。 だからこそ、『すでに受けた』 と無意識の次元で信じて神に祈り求める必要がある。 人が神に『すでに受けた』 という感謝の気持ちを抱いて祈り求めるのであれば、 『その通り』 と応答されるので、人が『すでに受けた』と信じた「もの」が現実化される。従って、人が直面している「現実」を完全に忘れ去り、『罪深い心の幻影の奴隷にされていた。しかし、神の恵みにより、すでに受けた』と信ずることができるようになるためには、1ヨハネ 5:14-15 に書いてあるように、祈り求めに相応した、神に対する強い信仰心がなければならない。特に、神に祈り求める自己の心身を戒める数日間の断食を行えるだけの決意・自制心・信仰心が無い限り、神に何を祈り求めたところで、そのような自己の意志薄弱・心の混乱・猜疑心に満ちた「現実」だけを叶えてしまうだろう。最後に、人の祈り求めに関する結論を述べよう。クリスチャンの精神レベルが、ある一定レベル以上まで高まると、『 わたしのために、~ して下さい』という祈り方をしなくなる。つまり、『主イエス・キリストの御意のままに、~ となりますように。悪魔サタンの策略(はかりごと)を打ち砕く主の御意が速やかに成就しますように』という無私の祈り方をするように変わる。主の御霊(=聖霊)との霊的一体化が進んで完成すると、『世俗社会における自己実現・自己や家族のための祈り・個人的な願望の成就に対する執着心などは、低い精神レベルに起因した、主の御霊(=聖霊)と乖離している人の祈り求めだ』と明確に認識できるようになる。そして、自己(=自我=エゴ=利己心)の100%を捨て去り、その境遇も、喜びと平安に満たされた、威厳のある修道院生活と同様の霊的生活となる。
マタイ 6:6
『(イエスは弟子たちに言われた。) あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。 そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』
マタイ 21:22
『(イエスは弟子たちに答えて言われた。) あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』
マタイ 32-34
『(イエスは弟子たちに言われた。) こういうもの(食べ物・飲み物・服装など)はみな、異邦人が切に求めているものなのです。 しかし、あなたがたの天の父は、それらがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それ(神の国とその義)に加えて、これらのもの(食べ物・飲み物・服装など)はすべて与えられます。』
マルコ 11:24
『(イエスは弟子たちに言われた。) だからあなたがたに言うのです。 祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになります。』
マルコ 14:36
『(ゲッセマネの園の祈りにおいて、イエスは、) またこう言われた。 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。 どうぞ、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」』
ルカ 18:9-14
『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人(ユダヤ教パリサイ派)で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。 [神よ、私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。] ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。 [神さま。 こんな罪人の私をあわれんでください。] あなたがたに言うが、この人(取税人)が義と認められて家に帰りました。(神の国へ招かれました。) パリサイ人ではありません。 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 』
ヨハネ15: 7
『あなたがた(ユダを除く十一弟子たち)がわたし(イエス)にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』
ローマ 8:26-27
『・・・私たち(パウロたち)は、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊(イエス)ご自身が、言いようもない深いうめき(異言の祈り)によって、私たちのためにとりなしてくださいます。 人間の心を探り窮める方(イエス)は、御霊(イエス)の思いが何かをよく知っておられます。 なぜなら、御霊(イエス)は、神(イエス)のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』
ヘブル 13:5-6
『金銭を愛する生活をしてはいけません。 いま持っているもの(聖霊・健康・境遇)で満足しなさい。 主ご自身がこう言われるのです。 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 そこで、私たち(ヘブル書の著者たち)は確信に満ちてこう言います。 「主は私の助け手です。 私は恐れません。 人間が、私に対して何ができましょう。」』
ヤコブ 4:3
『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』
1ヨハネ 5:14-15
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たち(ヨハネたち)の確信です。 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』 アーメン
脱稿2008(平成20)年 4月13日(日)
公開2012(平成24)年10月28日(日)03:47
saintsfellowship@outlook.com 聖書伝道会
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