序 言 - 真相解明の鍵は『聖書』にあり -
本編は、『聖書』の教理と祭儀に基づいた日ユ同祖論研究に重心を置き、歴史学・考古学・言語学といった科学諸分野の研究成果を踏まえつつ、日ユ同祖論の全体像を世界で最初に解明した啓蒙書であり、日ユ同祖論の真偽正邪の判断を保留してきた信士な日本人を対象とする。 従来の日ユ同祖論は、神社伝承を研究した民俗学にせよ、出土した銅鐸などを研究した考古学にせよ、あまりにも部分的で専門的であるが故に、部分的な真理に留まるか、あるいは、却って、真理から逸れ、錯誤に陥った仮説に過ぎなかった。 例えば、『銅鐸は、古代の祭祀に用いた楽器である』 という錯誤が、未だに考古学会の定説となっている。 このように、物事の事実と真相に基づく真理から逸れ、錯誤に陥る原因は、研究者自身が、先入観・偏見・利権に囚われているためである。
さて、今日から1942年前の73年4月16日、マサダ要塞に約3年間籠城したユダヤ人960名の集団自決をもって、ローマ帝国とユダヤ人の戦争である 「ユダヤ戦争」(66~73)は終結した。 「ユダヤ戦争」(66~73)において、当時のユダヤ人口の3分の1である約100万人の餓死・戦死者を出した後、祖国無き「流浪の民」となった約200万人のユダヤ人の悲願は、ユダヤ国家の樹立と聖都エルサレムの再建であったが、日本国における聖都エルサレムの再建に他ならない平安京遷都(794)の成った旧暦 ※1 の11月8日は、新暦の4月16日に相当する。 つまり、本編の投稿日 2015年4月16日は、ユダヤ人の集団自決の日であると同時に平安京遷都の日でもある。 この奇遇によって気づかされたことは、『死と生、敗北と勝利、絶望と希望、公然と秘密、既知と未知、過去と未来、ユダヤ人と日本人・・・ という 相反しながら相補性を有する法則を一般公開する上で、霊的に相応しい日だった』 ということだ。
なお、相反・相補性の法則とは、例えば、「過去と未来」は、現在から見ると、時間のベクトルは相反している。 しかし、同時に、『過去を知ることによって従前とは異なる新しい未来が開かれる。また、未来の進歩した精神文化と物質文明は、過去の新事実を発見するようになる』 という意味で相補性を有している。 また、「バビロン捕囚後のユダヤ人と日本人」は、世界史の中における民族の状態と役割が相反してきた。 しかし、同時に、相補性を有してきた。 例えば、「ヴェニスの商人」※2のごときユダヤ人が1948年にイスラエル共和国を樹立して武人と化した時、武士道を血肉とした日本人の大日本帝国は終戦を迎え、連合国GHQの占領下(1945~1952)において国家を解体され、日本人が経済重視の商人と化したように相反している。 しかし、同時に、GHQ民政局次長 チャールズ・ケーディス(1906~1996)による「日本国憲法」 ※3 の起草に見られるごとく、連合国側にいたユダヤ人が日本人に絶大な影響を及ぼすという相補性を有している。 これらを指して、「日本人とユダヤ人の関係に見られる相反・相補性の法則」と呼ぶが、この相反・相補性の法則こそが、日ユ同祖論の受容を困難なものにしてきた。 つまり、日ユ同祖論を研究する日本人の誰もが、『日本人とユダヤ人には文化的な共通点が多いが、その歴史と言動には180度の違いがある』 という第一印象を抱くからだ。 しかし、『聖書』の教理と祭儀、即ち、『聖書』の神の御意を判断基準とする限り、『日ユ同祖論は、客観的に検証可能な真理』 である。 そして、真理とは、次の(1)~(3)のいずれかに該当する理論をいう。
(1) 真理を認識する知性としての観念と実在とが一致した理論
(2) 観念が観念体系の中において論理的に一貫した整合性をもつ理論
(3) 仮説が事実によって検証された理論
冒頭で、日本人の古代史の真相を要約しておくと、『 イエス・キリストを否定し続ける頑固なユダヤ人の悲願であるユダヤ国家の樹立と聖都エルサレムの再建は、平安京遷都(794)以降、日本国の天皇を中心とする文化と制度となって成就した。 それにもかかわらず、「大化の改新」(645)の時に古代史の真実を封印したことによって皇室(天皇・皇族・宮家)の絶大な政治権力を我が物としてきた藤原鎌足(614~669)の末裔の藤原氏は、そのユダヤ教のタルムードに基づく宗教政策を原因として、日本人のアイデンティティーである明確な信仰と出自を、はるか歴史の彼方に忘却させるに至った』 となる。
本編の結論は、『 「ユダヤ戦争」(66~73)の最終章として、73年4月16日に集団自決した、ユダヤ人全体からすれば極少数のユダヤ人とは全く違う別の道を選択した大多数のユダヤ人※4 がいた。 つまり、イエス・キリストを否定した自称ユダヤ人を含むユダヤ人は、ローマ帝国の政治権力に迎合して、その帝都ローマに向かい、コンスタンティヌス帝(在位:306~337年)の313年の「ミラノ勅令」によるキリスト教の公認時までに非公然組織のユダヤ教の秘密結社と 公然組織のローマ・カトリック教会を築いた。 また、原始キリスト教徒のユダヤ人を筆頭とする諸民族は、ローマ帝国の圧政を逃れ、啓示された「約束の地」である日本列島に向かい、その弥生時代末期の150~250年頃に古代豪族連合を形成し、祭政分離を原則とする大和朝廷を築いた。 さらに、ローマ帝国の政治権力に迎合することなく、シルクロード交易を行う東方諸国に向かった別のユダヤ教徒のユダヤ人は、原始キリスト教徒のユダヤ人の行程をたどる形で古代朝鮮半島の百済に400~500年頃に寄留を始めた。 神に呪われた百済系のユダヤ教徒のユダヤ人は、大和朝廷の統治する日本列島に政治勢力を確立した後に野蛮な「大化の改新」(645)を断行し、大和朝廷を簒奪した』 という内容である。 このような本編を、ローマ帝国の強大な軍隊から逃げることなく戦い続け、マサダ要塞の中で集団自決した同胞のユダヤ人に捧げる。
※1 旧暦(太陰太陽暦)は月の満ち欠けを基準とする暦であり、ユダヤ暦と同じである。 新暦(グレゴリオ暦)は太陽の軌道を周る地球の公転を基準とする暦であり、日本国は1872(明治5)年に新暦(グレゴリオ暦)に移行した。
※2 「ヴェニスの商人」は、英国の劇作家 ウィリアム・シェークスピア(1564~1616)の戯曲。 「ヴェニス」は、イタリヤ北東部の都市「ヴェネツィア」(ベネチア)の英語名。 強欲なユダヤ人の金貸しシャイロック が登場する。 戯曲の舞台となったヴェネツィアは、黒人系のフェニキア人の末裔である自称ユダヤ人「黒い貴族」の本拠地であった。 なお、自称ユダヤ人の本拠地は、「ツロ(ティルス)・シドン・カルタゴ= エルサレム・サマリヤ→ バビロン捕囚→ (メドペルシャ→ ギリシャ)→ ローマ→ ヴェネツィア→ スイス→ オランダ→ ロンドン・シティ= 米国 」 へと変遷してきた。
※3 「日本国憲法」(施行1947)は、日本国の戦力不保持と在日米軍基地の設置をワンセットで考えた昭和天皇(1901~1989)の御意-官報1946(昭和21)年3月6日付-に沿った「戦力不保持を受諾する旨」の密勅を受けた、元外務大臣の首相 幣原喜重郎(1872~1951)と GHQ最高司令官 ダグラス・マッカーサー(1880~1964)との間の合意内容を土台として、GHQ民政局次長 チャールズ・ケーディス(1906~1996)により起草された。 ケーディスの起草案は、ユダヤ人の抱く理想社会を成文化したドイツの「ワイマール憲法」(施行1919)の丸写しであった。 なお、『君子、豹変す』 という諺を地で行った昭和天皇は、敗戦直前に自らの過ちを改め、その政治姿勢を反転一新した。 しかし、戦争による国民の犠牲と国家の破壊が余りにも大きすぎたのであり、『天皇の資質を鑑みる限り、大正天皇(1879~1926)の第二皇子 秩父宮 雍仁親王(1902~1953、やすひとしんのう)の方が格段に優れており、当時の大日本帝国の臣民に相応しかった。 そもそも、神の御意を忖度(そんたく)しない世俗社会の政治権力と陸海軍の統帥権を、神聖であるべき昭和天皇に集約した大日本帝国の政治体制自体が、精神文化的な矛盾・過ち・災いの根本原因だった。 だから、矛盾・過ち・災いの根本原因が除去され、物事の真理を達観された戦後の昭和天皇の御代でこそ、日本国の急発展が見られたが、元来の天皇であれば戦前の二二六事件(1936)の時に、その決起趣意を汲み、政治体制を刷新していたはずだ。 今後は憲法9条(戦争放棄・ 戦力不保持・ 交戦権否定) を改正して通常の主権国家を目指すべきだ』 と悔やむ声が多い。 なぜなら、日本国の主権・国民・領土を守るため、邪悪な中国・北朝鮮・韓国による直接侵略と間接侵略を打ち滅ぼし、世界史における真理と正義の作用を実証しなければならないからだ。
【 1 】 日ユ同祖論の全体像
(1) 日ユ同祖論とは何か?
A.日ユ同祖論の概要
日ユ同祖論とは、日本人とユダヤ人は同一の祖先を持つ兄弟民族であるという理論だ。 そして、ユダヤ人の暮らす欧米諸国との交易と交流が濃密になった江戸時代末期以来、日本国内外の日ユ同祖論者たちは、紀元前660年の神武天皇の日本建国に遡る古代日本語とヘブライ語の同一性や、日本人とユダヤ人の文化的な類似性を指摘してきた。 例えば、神武天皇の本来の和風諡号は、『古事記』(712)の「神倭伊波禮琵古命」、『日本書紀』(720)の「神日本磐余彦尊」であり、「カムヤマトイワレビコノミコト」と読むが、この意味を日本語で理解することはできない。 しかし、ヘブライ語の「ヤマト」とは「神の民」という意味であり、ヘブライ語の「カム・ヤマト・イワレ・ビコノ・ミガッド」とは、「国・神の民・ヘブライ人・初代の・栄光ある王」となり、「神の民であるヘブライ人の栄光ある初代国王」 という意味のある尊称として理解できる。 なお、この他の解説は、『日ユ同祖論を長年にわたって研究してきた信士な日本人にとって 時間の無駄である』 と想うので省略したい。
B.日ユ同祖論の始源
日ユ同祖論の始源は、想像する以上に古く、「黄金の国 ジパング」の記述で有名な『東方見聞録』の著者であるヴェネツィア共和国(697~1797)の冒険家 マルコ・ポーロ(1254~1324)の時代を遥かに飛び越え、『旧約聖書』の「イザヤ書」を記した南朝ユダ王国のイザヤが、預言者としての召命を「神」から受けた紀元前740年に遡る。 なぜなら、「イザヤ書」の中に日本列島を指し示す聖句※ が散見されると共に、預言者としての召命や 夢などによる様々な啓示の降下という未知現象の作用を考慮した場合、『日ユ同祖論または日本列島に関する伝承が、太古から連綿と続いていた』 と考えられるからだ。 また、日ユ同祖論を裏付ける聖句は、「イザヤ書」 以外にも多々ある。従って、『神武天皇は、日本列島に関する諸情報を十分に把握した上で、紀元前660年に日本建国を果たした』 と言えよう。
※ 「イザヤ書」 11:10 「エッサイ(ダヴィデ大王の父)の根」、11:11 「海の島々」、11:12 「散らされた者」と「地の四隅」、11:13 「ユダとエフライム」、11:16 「御民の残りの者」、24:15 「東の国々」(東の島国)と「海の島々」、24:16 「地の果て」、40:15 「島々」、41: 1 「島々」、41: 5 「島々」と「地の果て」、41: 9 「地の果て」と「地のはるかな所」、42: 4 「島々」、42:10 「地の果て」と「島々とそこに住む者」、42:12 「島々」、49: 1 「島々」と「遠い国々の民」、49:12 「シニム(シン=中国大陸)の地」、51: 5 「島々」、59:18 「島々」、59:19 「日の上るほう」、60: 9「島々」と「タルシシュの船」、66:19 「遠い島々」
(2) 日ユ同祖論の帰結である「主の日」
A.日ユ同祖論に関する科学的研究の必要性
日本人とユダヤ人の(A)言語学的な同一性の研究のみならず、(B)古墳調査等の考古学的な研究、(C)「失われた10支族」の行方解明等の歴史学的な研究、(D)YAP遺伝子の分析調査等の分子人類学的な研究、(E)家畜遺伝子の分布図の解析等の環境生態学的な研究、(F)『聖書』と「日本神典」と神社神道の比較宗教学的な研究、(G)日ユ両民族の比較文化論的な研究・・・といった諸側面から、日ユ同祖論を徹底的に研究し、客観的に検証していく必要性がある。 特に、分子人類学は、1995年頃から始まった新しい学問分野だが、古代人の無数のDNAデータを解析することにより、無神論と唯物論の共産主義に染まった既得権益勢力からの政治的圧力を受けない限り、日ユ同祖論の正しさを近未来に客観的に証明するようになるだろう。
B.『聖書』にある「主の日」の到来
日ユ同祖論の研究成果に応じて、いずれ、『日本人は、ダヴィデ王朝の男系の末裔である万世一系の天皇を中心とする真のイスラエル人かつユダヤ人であり、「聖書」の神から特別な使命を与えられた「神の選民」である』 ことが、人類の共通認識になる「主の日」が来ると直観する。 そして、血統の問題に関係なく、イエス・キリストを否定するユダヤ教を信仰する民族をユダヤ人として定義するならば、日本人とユダヤ人は、螺旋状に進化する歴史を創造する神の御計画において、陰と陽、善と悪という対極的な使命を課せられながら、相互に依存し合って回転する「古代戦車の両輪」なのだ。 なお、歴史とは、DNAの二重螺旋構造のように、人類の判断の指標である『聖書』の神が司る善と悪の絡み合う螺旋階段の次元を上昇しながら、宇宙から個人の精神へと至る全ての秩序の維持・破壊・創造 というサイクルを、人類が体験的に積み重ねて行くプロセスである。 このような歴史認識は、非常に重要だ。 参照: 宇宙の螺旋運動 https://youtu.be/sTyf4n2ktuw そして、(A)天災地変 (B)感染流行 (C)死病者化 (D)技術革新 (E)経済恐慌 (F)戦争事変 (G)突然変異 (H)真理真実は、旧秩序の破壊作用の代表格であったし、これからも全ての秩序の維持・破壊・創造というサイクル(変動周期)は止むことがなく、宇宙的規模での次元上昇(英語: アセンション Ascension ※ )は必然的に続いていく。 だから、『宇宙的規模での次元上昇に自主的に適応し、高度な精神レベル(次元)に到達して神と共に歩み進化していくのか、それとも、宇宙的規模での次元上昇に適応できず、旧秩序を破壊する宇宙的作用に巻き込まれ、悪魔の支配を被りながら退化していくのか』 という究極の二者択一を迫られている21世紀の人類にとって、その個人の精神面における恒久平和の到来は、『聖書』の預言にある「主の日」から始まる「千年王国」をおいて他にないと考えられる。 ところが、21世紀に生きる99%以上の人類は、『悪魔によってコントロールされた奴隷である現状を理解できないまま、旧秩序の現状維持を試みる虚偽欺瞞に満ちた眠らされた生活を送るのか、神と共に旧秩序の現状破壊を促す真理真実に根ざした精神的に目覚めた生活を送るのか』 という退化と進化の二者択一を行う宇宙的な分岐点に到達したことを考えず、テレビ・ラジオ・新聞といったマスメディアの虚偽欺瞞の娯楽情報に流され、精神的に眠らされたまま、旧秩序に基づく現状を維持する生活を強いられてきた。 しかし、真理真実の普及などをもって、99%以上の人類が抱く 恐怖と無知という否定的感情の上に構築された、旧秩序に基づく現状を破壊する作用こそ、太古から現代に至るまで、神である主イエス・キリストの働きに他ならない。 例えば、『2011年3月11日に起きた東日本大震災という大地震・大津波・原発災害は、精神的に腐敗堕落した反日左翼の民主党政権下でも惰眠を続けた日本人に対する神からの警告であった。死者・行方不明者2万人以上を出した、この大惨事を体験した結果、「本当に大切なものは何か?」 「マスメディアの報道は欺瞞に満ちている」 「美徳そのものである日本文化を尊重しよう」 「神武天皇による日本建国時の八紘一宇の詔勅を忘れた日本人に反省を促した複合災害だった」 「環境保全を最優先した循環型社会を構築しなければならない」 ということに気付いた日本人が増え、日本人の精神が急速に健全化した』 と感ずる。 なお、「人工地震説」も出たが、プレートのズレが広範囲にわたって3回連続して起きた世界観測史上4番目の規模の自然地震だ。 311東日本大震災の自然地震を裏付ける自然現象も幾つか起きている。 例えば、一つめは、「毎日新聞」(2011年5月21日)の『311東日本大震災の前兆2月からか。 直前2日で250回の余震』 という記事によれば、 311東日本大震災には前兆としての余震が継続的に起きていたのであり、自然地震を裏付けている。 二つめは、2013年11月20日未明に小笠原諸島の西之島の南南東500mで噴火があり、新しい陸地が出現した。 現在まで1分間に1~2回の割合で休みなく噴火を続け、西之島を飲み込み、より大きな島へと成長している。 この珍しい歴史的な海底火山活動により、関東地方を襲う巨大な地震エネルギーは放出され、富士山噴火の可能性もゼロに近くなったのであり、日本国が神に守られた「神の国」であると分かる。 三つめは、2015年10月23日の24時間内に11300キロ(7000マイル)も震源地が移動した大地震が起きた。 その震度はM5.5~M6.0以上であり、震源の深さは約10キロだった。 従来の地質学の常識が通用しない宇宙的規模の地震だ。 参照: 東日本大震災 http://www.geocities.jp/sherpa_pochi/EJ-jisin.html 2015年10月23日の地震 https://www.youtube.com/watch?v=YngYH1i8Ft8 以上の自然現象の事例を見ても、日本人は、神が怒る精神的な腐敗堕落に陥ってきたが、神に愛され、神に守られてきた。 そして、「神の民」である日本人とユダヤ人、「神の国」である日本国とイスラエル共和国は、旧秩序を破壊し、人類の進化のステージを新しく創造する主体者であり、人類の進化に対する重責を負ってきた。 この一方、悪魔は、その支配力を維持するために「神の民」と「神の国」を滅ぼそうとして、その残虐な謀略計画を実行してきたにもかかわらず、悪魔の意図に反する結果を必ず招いたのであり、この歴史の中に神の栄光を見出しうる。
※ 英語で「The Ascension」 と表記した場合、「イエス・キリストの昇天」 を意味する。 しかし、次元上昇=アセンション Ascension とは、個人の精神レベル(次元)を自主的に向上させ、霊的次元に実在する「神の御国」との精神的な調和一致を目指す長期間にわたる進化の道程をいう。 具体的には、宇宙から個人の精神へと至る全ての旧秩序の害悪に奴隷化されることなく、「霊的な新秩序」である「神の御国」との肉体的・精神的・霊的な調和一致を目指す人の長期間にわたる進化の道程を指す。 なお、フリーメーソン+イエズス会≧イルミナティが推し進める「新世界秩序」 New World Order は、旧秩序に基づく現状の延長線上に 世界統一政府と世界統一宗教を構築しようとする「悪魔の人類家畜化計画」である。 『聖書』にある「千年王国」 Millennial Kingdom は、個人の精神レベル(次元)の向上に基づき、霊的次元に実在する「神の御国」と一体化した世界連邦王国を地上に樹立しようとする「神の御計画」である。 2つの新秩序は、全ての面において正反対の方向性を持つ。
C.日ユ同祖論研究の端緒
日ユ同祖論の研究の端緒は、1984年に東京都の市ケ谷の曙橋駅付近にあった、 『日本とユダヤ 合わせ鏡』 の著者 岡本アデル(1894~1987)女史のご自宅を訪ねたことであった。 ドイツ語や英語など多言語を操る晩年の彼女は、現象世界の奥義を知った霊的覚醒者の一人であり、『ヘブライ語の霊的な進化を経て生まれた日本語には、森羅万象を新しく創造できる言霊という日本語に宿る霊力があり、この言霊と表裏一体の数霊の系統的な生成発展を分析すれば、森羅万象の真理を把握できる』 という彼女の言霊論※、米国の秘密地下施設での体験談、無私の愛をたたえた人格に強い感銘を受けたことを覚えている。 彼女の「合わせ鏡」という表現も、日本人とユダヤ人の神妙な関係をうまく表している。 但し、この表現を最初に使ったのは、日露戦争(1904~1905)当時の米国の金融財閥クーン・ローブ商会のヤコブ・シフ(1847~1920)だった。 彼は、その日本滞在記に、『弱肉強食の近代世界において、日本とユダヤは「合わせ鏡」の存在であった』 と記した。 「合わせ鏡」の意味は、『自分の存在証明が相手の中にある』 『日ユは相互に左右が反転しており、同時に動く』 『日ユの相互を合わせた総合的な分析をすることにより、神の御意である真理をつかめる』 ということだ。 例えば、上記 Bの「参照: 宇宙の螺旋運動」を視聴すれば分かるように、太陽の進行方向に従って後方から見た地球の螺旋運動は右回転であるが、太陽の進行方向を妨害する形で前方から見た地球の螺旋運動は左回転となる。地球の螺旋運動の右回転と左回転の両方を見なければ、『太陽の公転運動の全体像を把握した』 とは言えない。 つまり、日本人とユダヤ人は、その相反・相補性の法則に従いつつ、人類の歴史を創造してきた主体者であり、人類の歴史認識と現状認識における右回転と左回転なのである。 また、日本人とユダヤ人の関係性を運動力学の3法則から説明すれば、歴史の進行方向に対する外力 ⇔ 慣性、歴史の進行中に加えられる刺激の減圧 ⇔ 負荷、歴史の進行作用の推進 ⇔ 抵抗 という相反・相補の力学関係にある。
※ 言霊論: 医学者の角田忠信(1926~ )の『日本人の脳』(1978、続編1985)によれば、幼少期から日本語の環境で育った日本人は、言葉の「ア・イ・ウ・エ・オ」という母音とその他の子音、虫の音色・小川のせせらぎ・風の音などの自然音を左脳(言語脳)に取り込み、風流な言語として処理している。 一方、幼少期に日本語と無縁だった外国人は、言葉の子音のみを左脳(言語脳)に取り込んで言語として処理し、母音と自然音を右脳(音楽脳)に取り込んで機械音・騒音と同じような音として処理している。 この事実からすれば、話す言葉の一語一語に必ず母音を伴う日本語は、カタカナ・ひらがな・漢字・数字という複雑な組み合わせをする文字と共に、その未解明な起源と相まって、人間の脳を含む現象世界を、「神」または「霊的存在者」へと接近・進化させ続けているオペレーティング・システム(OS)なのかもしれない。
D.反ユダヤ主義を克服した親ユダヤ主義の論理
ユダヤ人の総人口は、2010年度に1358万人となり、イスラエル共和国に約570万人、米国に約527万人がいる。 つまり、日本人の約10分の1の人口だ。 しかも、日本とユダヤの人口比率は、古代イスラエル王国の初代国王サウルの時代から変わっていない。 1サムエル11: 8 『イスラエルの人々は三十万人、ユダの人々は三万人であった。』 という。(ソロモン大王の没後に南北朝の両王国に分裂する以前から、イスラエル12支族は、イスラエルとユダとに大きく分かれていた。) さて、これらのユダヤ人と日本人が対峙した場合、『聖書』の神の働きを否定した陰謀論者と唯物論の共産主義者、また、近未来予測の全てをはずしてきた自称クリスチャンのごとき反ユダヤ主義であってはならず、『聖書』の神によって対極の霊的使命を与えられた「古代戦車の両輪」または「合わせ鏡」であるという日ユ同祖論の親ユダヤ主義の論理に従い、万事を協力して進めねばならない。 相互に響きあう友好関係を構築したユダヤ人と日本人は、その精神と霊の新生を同時並行的に体験するに至るだろう。 このため、日本人は、ユダヤ人の歴史・文化・血統・霊性に関する真実と虚偽、良い面と悪い面の全てを正しく認識しておく必要がある。 また、『聖書』の戒め ※ に従い、如何なる隣人であろうと、更正してもらうために愛すべきである。 そして、現下の国内外情勢を見ると、「神の民」である日本人の正しい心を徹底的に破壊するために、対日侵略の中国共産党・ 反日侮日の韓国人・ 悪魔崇拝のフリーメーソン+イエズス会≧イルミナティ は、テレビ・ラジオ・新聞を通じて虚偽の歴史を宣伝しているが、愛と正論をもって、そのようなマスメディアとスポンサーに抗議し、かかる悪魔・悪霊・悪人の働きと闘うべきである。
※ レビ記 19:18、マタイ19:19、同左 22:39、マルコ 12:31、ルカ 10:27、ローマ 13:9、ガラテヤ 5:14、ヤコブ 2:8
(3) 古代の明確な信仰と民族の出自を忘却した日本人と 邪悪なユダヤ教を信仰するユダヤ人の未来
A.日本人とユダヤ人をめぐる歴史の真相隠し
(A) 聖都エルサレムの状態(637)
聖都エルサレムの状態は、「ユダヤ戦争」(66~73)後にユダヤ人が追放されて以来、廃墟の痕跡を残した荒野となって放置されてきたが、ソロモン神殿~ゼルバベル神殿の在った「神殿の丘」(シオン)は、637年にイスラム帝国に征服され、691年に黄金の丸屋根を持つ岩のドームが建ち、705年に「神殿の丘」(シオン)の南側にアルアクサ寺院が建った。
(B) 野蛮な「大化の改新」(645)
聖都エルサレムが 637年にイスラム帝国に征服された時代の日本史を顧みると、「大化の改新」(645)が起き、『古事記』(712)と『日本書紀』(720)を編纂するという古代史の真実を封印する出来事があった。 血統的に真のイスラエル人かつユダヤ人である日本人が、『旧約聖書』と『新約聖書』を次世代に口承していく過程で、「大化の改新」(645)を原因として、明確な信仰と民族の出自を忘却するに至ったのであるが、この経緯は、別項の(10)において詳しく考察したい。
(C) カザール人のユダヤ教徒の出現(730)
現代世界の欧米諸国やイスラエル共和国にいる白人系のユダヤ人は、「黙示録」2:9と3:9に書いてある自称ユダヤ人である。 つまり、ハンガリー出身のユダヤ人アーサー・ケストラー(1905~1983)の著作 『第13支族』(1976)に書いてあるごとく、黒海とカスピ海の北部にいた白人系のカザール人が、通説では730年~740年頃、ユダヤ教のタルムード ※ に集団改宗したのであり、血統的には元来のユダヤ人ではない。 但し、カザール人は、南朝ユダ王国と北朝イスラエル王国という分裂王国時代に自称ユダヤ人と化したフェニキア人のごとき悪魔の霊統ではない。 なお、カザール人の一部にイエス・キリストを否定する血統的に真のユダヤ人との混血は、あったと考えられるが、歴史潮流の大勢と真実に変わりはない。
※ タルムードの成文化は、300年末~400年末である。下記の E.で解説したい。
(D) 日本人とユダヤ人をめぐる歴史の真相隠し
血統的に真のイスラエル人かつユダヤ人である日本人が、そのアイデンティティーである明確な信仰と民族の出自を忘却して行く一方、血統的にはユダヤ人ではないカザール人が、イエス・キリストを否定する邪悪なユダヤ教のタルムードを熱心に信仰する自称ユダヤ人と化して歴史上に現れ、また、イスラム教が、その宗教勢力を拡大してきた。 そして、東洋の日本人と西洋のユダヤ人をめぐる歴史の真相隠しを俯瞰しながら、『聖書』 を慎重に読み解くと、『これら全ての歴史動向は、悪魔サタンの邪悪な働きを見極めた神の御計画であった』 と感ずる。
血統的に真のイスラエル人かつユダヤ人である日本人が、そのアイデンティティーである明確な信仰と民族の出自を忘却して行く一方、血統的にはユダヤ人ではないカザール人が、イエス・キリストを否定する邪悪なユダヤ教のタルムードを熱心に信仰する自称ユダヤ人と化して歴史上に現れ、また、イスラム教が、その宗教勢力を拡大してきた。 そして、東洋の日本人と西洋のユダヤ人をめぐる歴史の真相隠しを俯瞰しながら、『聖書』 を慎重に読み解くと、『これら全ての歴史動向は、悪魔サタンの邪悪な働きを見極めた神の御計画であった』 と感ずる。
B.日本人とユダヤ人の未来
(A) 「偽りの歴史認識問題」という心理戦
ダヴィデ王朝の男系の末裔である万世一系の天皇を中心とする真のイスラエル人かつユダヤ人である日本人が、『旧約聖書』と『新約聖書』の信仰を取り戻す一方、欧米諸国やイスラエル共和国にいる白人系のユダヤ人が、血統的には元来のユダヤ人ではない自称ユダヤ人であることを公認して邪悪なユダヤ教を捨て去り、真のキリスト教に集団改宗するならば、万世一系の天皇を頂く新生した日本人と新生したユダヤ人は、相互に協力しながら、『聖書』に預言された千年王国である世界連邦王国を樹立するに至るであろう。 この「主の日」に至るまでの間、現代世界の諸民族は、「黙示録」に預言された愛憎と陰謀の渦巻くドラマチックな善悪相克の歴史を実体験するはずだ。 だから、日本人に「偽りの歴史認識問題」に対する謝罪を執拗に要求してくる中国人・韓国人・自称ユダヤ人の背後には、日本人を歴史の真実に目覚めないようにしておきたい悪魔の強い意志が働いていることを承知しておかねばばならない。
(B) 日本人とユダヤ人の「包括的パートナーシップ」の推進
本編の国別の閲覧者数を見ると、1位の日本国は当然として、2位だった米国を抜いてウクライナが唐突に2位に浮上してきた。 ウクライナは、600年頃~900年頃までカザール人のカザール王国の領土だった地域であり、1991年に旧ソ連から独立した後に西側自由主義諸国と共に歩み、米露両国の綱引きの中で2014年に悲惨な内戦をも体験した。 だから、イスラエル共和国のある中東地域・ 日本国のある極東地域と並んで、旧秩序の破壊と新秩序の創造をもたらす「武力紛争地域」となったウクライナに万感の思いを馳せて提言を行うと、日本政府は、イスラエル共和国との「包括的パートナーシップ」(調印: 2014年5月12日)を表明したが、ウクライナとも同じ友好関係を構築すべきだろう。 つまり、日本人とユダヤ人は、相互に認め合い、文化的・経済的・軍事的に緊密に協力して行かねばならない。 なぜなら、日本人とユダヤ人には、同じ『聖書』の神の契約と、同じ伝統文化(信仰心・価値観)があるからだ。
(C) テロ戦・ 心理戦・ サイバー戦・ 金融戦 という非対称戦争の宣戦布告なき第三次世界大戦
今後、「主の日」に向かって、気象的・経済的・政治的な大変動が必然的に起きて来るが、この大変動のマグマのような破壊エネルギーは、「武力紛争地域」という噴火口に集約され、イスラエル共和国のある中東地域、ウクライナのある東欧地域、日本国のある極東地域において爆発的に噴き出し、この爆炎が全世界を覆うことになる。 しかも、後世の歴史家は、『テロ戦・ 心理戦・ サイバー戦・ 金融戦という非対称戦争※ の宣戦布告なき第三次世界大戦は、諸国民がそれと自覚しないまま、2015年に始まった』 と判断・評価するだろう。 2015年に起きた宇宙的な諸変動、 I S(イスラム国)と中国共産党の起こしたテロ・事件・紛争、米国ドル支配体制の打倒に走る B R I C s 諸国の連携と A I I B(アジア・インフラ投資銀行)の発足、中国バブル経済の崩壊、安価な原油採掘技術の普及による原油価格の大暴落 ・・・ といった金融戦を忘れてはならない。 先の戦前の事例になるが、中国共産党の工作員の仕掛けた些細な発砲事件に始まる1937年7月7日の盧溝橋事件から支那事変へ、そして、泥沼の大東亜戦争(1937年7月7日~)、第二次世界大戦(1939年9月1日~)、日米戦争(1941年12月8日~)へと、大日本帝国の戦線が意図せずして急拡大した戦時下と同じ状況にある。 従って、「平時」という名前を冠した「宣戦布告なき戦時」の下にある日本政府は、第一に日本国内外で暗躍する中国・北朝鮮・韓国の工作員(スパイ)の摘発に全力を注ぐべきだ。 第二に国連・華僑。 第三にアラブ諸国・イスラム教諸国。 第四にロシア。 第五に英国・北米諸国。 第六にEU諸国という優先順位になる。 なお、この他の中南米諸国・アフリカ諸国は、中国・北朝鮮・韓国という敵国との連携がなければ監視体制に留め、特に、インド・東南アジア諸国・オーストラリアとの軍事同盟を新たに締結すべきだ。 そして、工作員(スパイ)の摘発において重要視すべきは、a.秘密結社:フリーメーソン+イエズス会≧イルミナティ b.宗教組織:ヴァチカン市国=ローマ・カトリック教会 c.金融資本:ロンバート街+ウォール街 というグローバルに活動する公然・非公然組織の動向との関連性だ。 これら諸外国の工作員(スパイ)の摘発においても、世界各国のユダヤ人との協力関係は不可欠である。
※ 非対称戦争とは、戦争形態の一つであり、両交戦者間の軍事力・戦略・戦術が大幅に異なる戦争をいう。 交戦様式が正規軍同士ではない戦闘を特徴とし、相手と同じ戦略・戦術では勝てない交戦集団が、テロ戦・ ゲリラ戦・ サイバー戦・ 心理戦・ 金融戦・ 大量移民・ 資源略奪・ 宗教運動などを通じた戦闘を継続的に行う。
(A) 民族的な血統と霊的な霊統
自称ユダヤ人とは、民族的な血統から見た場合、ユダヤ教に集団改宗したカザール人のことであるが、霊的な霊統から見た場合、アダムとイブの子供たちへと遡る。 つまり、アベルを殺したカインの末裔、即ち、悪魔の霊統の末裔のことである。 例えば、米国の思想家ユースタス・マリンズ(1923~2010)の『カナンの呪い』によれば、巨人族ネフィリム、黒人系ハムの子クシュ~ニムロデ、黒人系ハムの子カナン~フェニキア人~「ヴェネツィアの黒い貴族」 が、悪魔の霊統である。 つまり、自称ユダヤ人とは、精神的・霊的に見た場合、北朝イスラエル王国の王アハブ(在位:前869~前850)の后イゼベルに代表されるフェニキア人の末裔を指す。 イゼベルが、「黙示録」 2:20-24 において『サタンの深いところ』 と黙示されている点に着目したい。 但し、「黙示録」における邪悪な女 イゼベルとは、ローマ・カトリック教会の「隠喩」 でもある。 また、一説によれば、『ユダヤ教パリサイ派のユダヤ人は、イゼベルのようなフェニキア人、ヘロデ大王(前73頃~前4)のようなエドム人(ギリシャ語: イドマヤ人)の末裔から成り、「ユダヤ戦争」(66~73)後に、ローマ帝国の貴族に取り入り、その助言者になった。 そして、480年頃に西ローマ帝国が滅亡すると、西ローマ帝国の貴族に随行してヴェネツィアへ移住し、「ヴェネツィアの黒い貴族」になった』 という。 いずれにせよ、一部のユダヤ人に見られる邪悪な言動を鑑みるに、どう考えても、神の民のヘブライ人・イスラエル人・ユダヤ人では絶対にありえない、「100%異民族 かつ 悪魔の霊統」が、ユダヤ教を信仰するユダヤ人の中に混在している。
(B) 『ユダヤ人か否か』 『自称ユダヤ人か否か』 は、本人の信仰による
神に祝福された選民の民族的な血統は、アブラハム・ イサク・ ヤコブの血統=イスラエル12支族である。 この民族的な血統に基づき、『日ユ同祖論』を論じているわけであるが、しかし、現代社会のユダヤ人のあいだでは、『ユダヤ人か否か』 『自称ユダヤ人か否か』 という識別を、民族的な血統ではなく、ユダヤ教の信仰に基づいて行う。 この意味で、『ユダヤ人か否か』 『自称ユダヤ人か否か』 という客観的な識別は不可能であり、本人の主観的な信仰に左右される。 だから、ナチス・ドイツのホロコーストを生き延びて多くのユダヤ人を救ったユダヤ人のオズワルド・ルフェイセン(1922~1998)の事例のごとく、ユダヤ教からローマ・カトリック教会のキリスト教信仰に改宗した場合、イスラエル共和国におけるユダヤ人としての公認はなくなる。 つまり、彼の『私はユダヤ人だ』 という訴えに関して、イスラエル共和国の最高裁は、1962年に『キリスト教改宗者は、ユダヤ人ではない』 との判決を下した。 すると今度は、『正しいユダヤ教の正しい信仰とは如何なるものか?』 という信仰の問題が派生してくる。 このため、『ユダヤ人とは何か? また、どうあるべきか?』 という議論は尽きない。 だから、人類としてのユダヤ人・ 自称ユダヤ人・ 非ユダヤ人は、今後の世界史の展開をもって、『ユダヤ人とは何か? また、どうあるべきか?』 を実証的に追求して行かざるを得ないわけだ。
(C) 日本人は、ユダヤ人と不離一体の精神的・霊的な因果関係を持つ
日本人は、古代のヘブライ人・イスラエル人・ユダヤ人の民族的な血統と伝統文化を持つものの、現代のユダヤ教の信仰を持たないため、非ユダヤ人に含まれる。 日本人は、非ユダヤ人であるにもかかわらず、その民族的な血統と伝統文化ゆえに、ユダヤ人との相反・相補性の法則の下、ユダヤ人と不離一体の精神的・霊的な因果関係を持ちながら、人類の歴史を創造する宿命にある。
D.アラブ人
悪魔の霊統ではないが、神に選ばれなかった民族的な血統は、(A)アブラハムとエジプト人の女奴隷ハガルの間に生まれた男子イシュマエルの血統=イシュマエル12支族 (B)アブラハムと第三の妻ケトラの間に生まれた男子ミデヤンを父祖とするミデヤン人 (C)ヤコブの兄エサウの血統=アマレク人・エドム人である。 これら(A)~(C)の諸民族は、現代世界においてアラビヤ語を使うアラブ人(アラビヤ人)と呼ばれ、イスラム教を信仰するに至った。 従って、アラブ人とイスラム教徒を霊的に見た場合、『聖書』の神とアブラハムによって選ばれなかったことに対する強い恨みが、ユダヤ人を筆頭とするイスラエル12支族とキリスト教徒に対する激しい敵意と憎悪となって現れている。 但し、イスラム教国のイラン人・トルコ人・パキスタン人・インドネシア人は、アラブ人ではないため、日本人・ユダヤ人との霊的な親和性が担保されている。 そして、中東問題を解決する唯一の道は、アラブ人とイスラム教徒が『聖書』の神とアブラハムによって選ばれなかった恨みを捨て去って霊的に救われることであり、『聖書』の神である主イエス・キリストを正しく信仰することである。 『聖書』の神である主イエス・キリストの救いは、血統・宗教・国籍・家系・性別・身分・地位・財産・経歴などとは全く無関係に、万人に開かれている。
E.ユダヤ教の教典「タルムード」 その他
ヘブライ語で「学習・研究」を意味する「タルムード」は、「モーセ五書」-「創世記」 「出エジプト記」 「レビ記」 「民数記」 「申命記」-に関する千数百年間にわたる口伝慣習を、「流浪の民」と化したユダヤ人のラビたちが、300年末~400年末にかけて成文化して集大成したユダヤ教典である。 「タルムード」の各ページは、本文のミシュナと、その注釈であるゲマラの二部構成となっており、「BTサンヒドリン43B」という参照表記は、「バビロニア・タルムードのサンヒドリン篇の43ページのB面」を参照の事という意味である。 つまり、「タルムード」には、バビロン捕囚の時代に編纂されたBT=バビロニア・タルムードと、エルサレム(パレスチナ)帰還後に編纂されたJ T(PT)=エルサレム(パレスチナ)・タルムードの2種類がある。 また、「タルムード」は、その各紙1枚を以って1ページとし、表面をAとし、裏面をBとする。 「タルムード」は、ユダヤ人の社会生活全般にわたる戒律を細かく規定しており、ユダヤ人以外に読ませてはならず、「モーセ五書」を曲解した邪悪な規定もあるものの、ラビたちによる宗教政策・ 民主主義論・ 人権思想・ 社会保障制度・銀行制度などに関する学問的な考究を重ねた「世俗社会における処世術の書」であると共に、「ユダヤ人の歴史に関する詳細な記録書」でもある。 なお、「タルムード」を集大成した後、ジンギスカン(1159~1227)がモンゴル帝国を拡大した1200年代に至ると、神秘思想書の「ゾハール」(光輝の書)と「セフィール・イェツィラー」(形成の書)が スペインで発行され、ユダヤ教の神秘思想 「カバラ」という「悪魔に憑かれる理論体系」が編み出された。 前者の口述者は、ラビのシメオン・バル・ヨハイであるが、ユダヤ教の祭日ラグ・バオメル(オメルの33日め)においてローマ帝国のエルサレム包囲戦の終戦記念日と共に、彼の逝去日も追悼されている。 後者の著者は不明だ。 さて、イエスがキリストであるという『聖書』の真理を拒否し続ける悪魔・悪霊に感応して、これらに憑依されるため、『 「カバラ」は、良くて 好奇心の強いオカルティスト、悪くて 精神異常者・ 凶悪犯罪者・ サタニストの道を歩む魔術の理論体系だ』 と評価されており、狂人・廃人化する仏教の虚構理論の研究と同様に深入りは禁物である。
F.ユダヤ教のメシヤ観
ユダヤ教とキリスト教の根本的な違いは、『旧約聖書』にあるメシヤに対する解釈の違いだ。 「メシヤ」とは、ギリシャ語の「キリスト」であり、「油を注がれし者」を意味する「救世主」 「救い主」である。 ユダヤ教のメシヤ観を具体的に解説すると、(A) 『旧約聖書』の「イザヤ書」53章の『苦難を受けるメシヤ』、 「ダニエル書」9:26の『メシヤは断たれ、彼には何も残らない』、 「ゼカリヤ書」12:10の『自分(ユダヤ人)たちが突き刺した者』といったメシヤ像と、 (B) 『旧約聖書』の「イザヤ書」66:16の『主は火をもってさばき、その剣で肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い』、 「ヨエル書」3:21の『わたし(主)は彼ら(ユダヤ人)の血の復讐をし、(エジプト人・エドム人を)罰しないではおかない』、 「マラキ書」4:3の『彼ら(悪人)は、わたし(主)が事を行なう日に、あなたがた(イスラエル人)の足の下で灰になる』といったメシヤ像とがある。 そして、(A)と(B)のメシヤ像は明らかに違う。 このため、ユダヤ教のラビたちは、次の(A)と(B)のように、『2人のメシヤがいる』 と考えた。 つまり、『1人のメシヤの初臨と再臨とがある』 とは考えなかった。 そして、この「2人のメシヤ説」は、ユダヤ人の間では、イエスの降誕以前から存在していた。
(A) 「メシヤ・ハ・ベン・ヨセフ」 ヨセフの子であるメシヤ (苦難のメシヤ)
ヨセフが、他の11人の兄弟に嫉妬されて殺されかけた後にエジプト人の貿易商に身売りされたにもかかわらず、古代エジプト王国の宰相となり、飢饉に苦しむ他の11人の兄弟を救ったように、苦難を受けた後にユダヤ人を筆頭とするイスラエル12支族を救うメシヤである。( 奇遇にも、イエスを育てた父親の名前は、ヨセフであった。)
(B) 「メシヤ・ハ・ベン・ダヴィド」 ダヴィデの子であるメシヤ (栄光のメシヤ)
古代イスラエル王国のダヴィデ大王のように聖都エルサレムで王座に就き、未来のイスラエル国を通じて暴虐な諸国を平定し、全世界を平和的に統治するメシヤである。 但し、ラビたち以外の一般のユダヤ人は、『メシヤが来れば、ユダヤ人が全世界を支配するようになる』 と単純に考えてきた。 だから、『イエスは、メシヤではない。神を冒涜した反逆者にすぎない』 と信じ切って、『新約聖書』を手にすることも避けてきた。 そして、ラビたちも、「イザヤ書」53章にある「苦難のメシヤ」に関して、次の a ~ f の6つの解釈を行い、イエスが「苦難のメシヤ」であったことを否定してきた。
a.「イザヤ書」を記した南朝ユダ王国の預言者イザヤ(前760~前698)自身である。
b.ユダヤ民族全体である。
c.預言者エレミヤ(伝道: 前629~前562)など、他の預言者である。
d.「イザヤ書」が記された当時の南朝ユダ王国のヒゼキヤ王(前715~前686)である。
e.特定人物ではなく、全ての殉教者たちである。
f .イエス(前4~29)である。
1948年にイスラエル共和国が樹立された時、最後の f .の解釈をしたユダヤ人は約50人であったが、2004年になると約1万人に増加した。 しかし、『投石・ 放火・ 暴行などの犯罪被害が絶えない』 という。 f .の解釈した「メシヤニック・ジュー」=「イエスをメシヤと信ずる、キリスト教に改宗しないユダヤ人」は、世界各国を合わせると数十万人いるらしい。 キリスト教(原始教会・ 旧教カトリック教会・ 新教プロテスタント教会・ その他の教会)に改宗しない理由は、「ユダヤ人であること」=「ユダヤ教徒であること」 という現代社会の信仰生活を放棄することなく、原始キリスト教(初代教会)の使徒パウロたちユダヤ人の「使徒的信仰」を貫こうとする事例が多い。 また、『メシヤは2人いるのではなく、イエスの初臨と再臨とがあるというキリスト教(原始教会・ 旧教カトリック教会・ 新教プロテスタント教会・ その他の教会)に改宗した場合、イスラエル共和国政府によるユダヤ人としての公認は無くなり、改宗者本人も、「ユダヤ人であること」、即ち、「ユダヤ教徒の信仰生活」を止めてしまう事例が多い』 と言われる。 なお、「ダニエル書」9章25-26節には、『神殿がローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊される前にメシヤが到来する旨』が預言されていた。 しかし、『「ダニエル書」の預言を解読しようとする者は呪われよ』というラビたちの教導に従うユダヤ人は、「ダニエル書」を読もうとしない。 ユダヤ人=ユダヤ教徒は、かかる心の有様であるため、『聖書』の預言によれば、近未来の「栄光のメシヤ」は、ユダヤ人の悔い改めを待って地上に再臨されるのであり、もし、ユダヤ人が悔い改めなかった場合、ユダヤ人は、物質的な地上の神殿(シオン)を再建した国際的指導者の「偽メシヤ」を、そうとは理解できないまま、熱狂的に擁立することになるだろう。 そして、7年間の大患難時代の後半期、「偽メシヤ」による史上空前のユダヤ人迫害を体験するに至り、悔い改めなかったユダヤ人は、この時になって、ようやく、『聖書』の真理に目覚めることだろう。
G.ユダヤ教の宗派
ユダヤ教の宗派には、(A)「モーセ五書」の律法と「タルムード」の戒律を厳守する「正統派」、 (B)世俗社会との調和を重視する「保守派」、 (C) 『目的は手段を正当化する』 という功利主義に基づく謀略活動を行動様式とする「改革派」 がある。 また、イスラエル共和国においては、(A)常に黒服を身にまとい全ての戒律を厳守しながら生活保護費で暮らす「超正統派」、 (B)信仰心を行動によって示すべきと考える「宗教派」、 (C)伝統的な「モーセ五書」の律法を守る「伝統派」、 (D)世俗社会を優先して「モーセ五書」の律法を守らない「世俗派」 の4つに区分できる。 そして、2015年3月17日の総選挙で議席の大多数を占めたのが、与党の右翼的な「リクード」(団結の意)と 野党の左翼的な「シオニスト連合」であったが、いずれの政党も「世俗派」である。 さて、現代の英米両国を本拠地とする「改革派」は、『キリスト教などの諸宗教の内部に侵入して、これらを腐敗堕落させ、最終的に支配する』 という運動方針を説いたトルコ出身の自称メシヤの サバタイ・ツヴィ(1626~1676)と、『世の中の悪を極限まで広めることによって、メシヤの来臨を早めることができる』 という虚無主義の終末思想を説いたポーランド出身のヤコブ・フランク(1726~1791)から始まった。 この「改革派」は、1800年代のドイツにおいて結実し、信仰の自由を主張した哲学者 モーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)、国際金融資本の大本と化した両替商 マイヤー・アムシェル・バウアー(改名後のロスチャイルド 1744~1812)、フリーメーソンを利用した政治結社イルミナティを創設したイエズス会士 アダム・ヴァイスハウプト(1748~1830)、パレスチナに祖国を回復しようとするシオニズム運動の創始者 ツヴィ・ヒルシュ・カリシャー(1795~1874)たちに大きな影響を及ぼし、現代の国際社会を席巻するに至った。 しかし、欧米諸国のキリスト教徒のみならず、別のユダヤ教の宗派も、「改革派」=イルミナティのユダヤ人を指して 「サバタイ派 フランキスト」 とか、単に「フランキスト」 と呼び、『 「改革派」=イルミナティは、ユダヤ教の抹殺を目的としている』 と強く非難している。 「改革派」=イルミナティの教理は、「悪魔の支配する資本の論理」であり、『聖書』の神に逆らう人工的な目的と謀略的な手段を特徴とする。 詳しくは、四王天延孝(原訳)・太田龍(解説) 『シオン長老の議定書』(2004)を参照してほしい。
H.ユダヤ人問題に関する鋭い洞察力を発揮した思想家 太田龍
1995年から1997年の間、(社)日本協会を通じて 孤高の思想家 太田龍(1930~2009)に、東京都の飯田橋駅近くのホール会場で度々講演をして頂いたことがあった。 但し、『聖書』の神を否定する英国人 デービッド・アイク(1952~ )に傾倒した元共産主義者の彼には悪魔・悪霊の働きである心霊現象・UFO現象といった未知現象を正しく認識できなかったようだ。 つまり、『何万光年も離れた外宇宙からUFOに乗って地球に来た宇宙人など存在しない。 心霊現象・UFO現象といった未知現象は、人類の暮らす三次元世界と同じ時間と空間に存在する異次元世界に居る天使と悪魔の働きである。 神を否定すれば、必然的に邪悪な「宇宙人信仰」に至る』 ことを彼には理解できず、『聖書』の神を否定した。 これはともかくとして、今更ながら、彼の卓越した鋭い洞察力に敬服しつつ、『日本人が知らない「人類支配者」の正体』(2007)の一部を転載する。(全文補正済み)=== 『西洋の実態と歴史について、日本人には未だに全く知らされていない秘密があります。 その主要なものは、 ① 反イエスのユダヤ人によって創られたローマ・カトリック教会 ② 金融寡頭権力による人類支配の道具と化した世界宗教 ③ 金融寡頭権力の「ヴェネツィアの黒い貴族」に関する情報 ④ 金融寡頭権力の世界首都の変遷に関する情報 ⑤ ユダヤ教改革派の創始者 サバタイ・ツヴィ(1626~1676)に関する情報 ⑥ 世界超国家であるロンドン・シティに関する情報 という六つです。 日本では、原始キリスト教から完全に変質した、ローマ帝国の国教と化したローマ・カトリック教会のキリスト教を主軸とする西洋史に関して、「ローマ・カトリック教会のキリスト教は、ユダヤ教から分かれてできた独立した宗教」としか教えられていません。 これは、まったくの嘘で、実際には、イエスがキリストであることを否定するユダヤ人が、ローマ・カトリック教会のキリスト教をでっち上げたのです。 ローマ・カトリック教会のキリスト教と 反イエスのユダヤ人のユダヤ教が対立抗争しているかのように、ローマ・カトリック教会の成立当初から反イエスのユダヤ人によって演出されてきたのです。 例えば、1~2世紀の間に殉教したローマにある教会の指導者は、ローマ・カトリック教会の初代ローマ教皇に列せられたペテロと同じユダヤ人でした。 そして、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝(在位: 306~337年)が、悪魔的啓示 ※1 を受けた後、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認し、325年にニカイア公会議を開催して三位一体説その他の教理を定め、後の皇帝テオドシウス1世(在位: 379~395)が、392年に異教禁止令を公布して、ローマ・カトリック教会のキリスト教を国教化し、ミトラ教その他の宗教を禁止しました。 これらの重大な決定に参画したローマ・カトリック教会の教父や主要な指導者の大部分は、ユダヤ人でした。 しかし、ローマ帝国の皇帝の政治権力と結託した313年以降のユダヤ人は、ローマ帝国によるキリスト教弾圧に抵抗して殉教したユダヤ人と異なり、反イエスのユダヤ教を信仰する秘密結社 ※2 に属するユダヤ人でした。 つまり、313年以降にローマ帝国の皇帝の政治権力と結託したユダヤ人は、「ローマ・カトリック教会という看板を掲げた反イエスのユダヤ教」の枠組みの中にローマ帝国の市民を捕捉するため、反イエスのユダヤ人のユダヤ教と、ローマ・カトリック教会の反聖書的なキリスト教とが対立しているように見える決まり、即ち、ローマ・カトリック教会の人為的な規則・ 戒律・ 教理を作って実行したのです。 だから、ユダヤ教とローマ・カトリック教会のキリスト教は、服装・ 祭日・ 教理など表面的には違う装いをしていながら、内面的には反イエス・涜神・支配目的・欺瞞教理・聖書曲解といった点で同じ宗教です。 そして、『ローマ・カトリック教会の何が反聖書的なのか?』 について述べると、聖母マリアを偽装した大地母神やイゼベル・ 聖人という悪霊・ 教皇という謬人・ バアル邪神・ ミトラ太陽神・ 龍蛇神などの偶像を崇拝する悪の帝都バビロンと同じ邪悪な信仰を継承したからです。 このローマ・カトリック教会こそが、ローマ帝国の市民から「信仰の自由」を奪い取り、宗教・政治・法律・教育・経済の全てを専制支配したのです。・・・・・ずっと時代は下りますが、ヴェネツィアというものを日本人はほとんど知りません。 非常に間違った形式的な歴史を教えられています。 しかし、ヴェネツィアは、西暦480年頃に西ローマ帝国が滅びた後、西ローマ帝国の貴族の一部がヴェネツィアに避難してから発展した国際貿易都市です。ヴェネツィアは、イタリヤ半島の北東に位置しますが、ここを避難場所として、西ローマ帝国の貴族の一部と、これに随行したユダヤ人がヴェネツィアに移住してきました。 この時に、ヴェネツィアが、国際貿易で潤う世界首都になるよう計画されたのです。・・・・・ヴェネツィアが起こした重要な事件はたくさんありますが、そのうちの一つは、11~13世紀に起こった十字軍戦争です。十字軍戦争は、ローマ・カトリック教会のローマ教皇庁が旗を振って「聖都エルサレムをイスラム世界から取り戻す」と称して、4回くらい大戦争を起こします。 しかし、ローマ・カトリック教会をそういうふうに煽動して十字軍戦争を起こすためには、西ヨーロッパから出発した軍隊が聖都エルサレムまで遠征するための途轍もない軍資金が必要になるわけです。 さらに、軍隊を輸送する海洋艦隊まで組織しました。 この資金は全部、「ヴェネツィアの黒い貴族」が用意しました。 用意したといっても、タダでくれるわけではありません。 ローマ教皇庁・フランス・英国・スペイン・ドイツという国々の王侯貴族に軍資金を貸し付けて「利子」を取るわけです。 また、「ヴェネツィアの黒い貴族」は、イスラム世界にも目をつけます。 さらに、ビザンチン帝国、即ち、東ローマ帝国の後継者である東方ギリシア正教会をも支配下に入れます。 この三つの地域に「ヴェネツィアの黒い貴族」は、目をつけたのです。 これらの三つの地域の勢力を利用して、ローマ・カトリック教会とイスラム世界を戦わせ、次にローマ・カトリック教会と東方ギリシア正教会を戦わせます。 そして、「ヴェネツィアの黒い貴族」が、それぞれの紛争地域に軍隊を動員して、十字軍戦争をだんだん大規模なものにしていきました。 大規模なものにしていくほど、「ヴェネツィアの黒い貴族」は、たくさんのお金を貸し付けて、利子を生み出していきました。 だから、十字軍戦争というのは、「ヴェネツィアの黒い貴族」が、最初から最後まで振り付けをしていたわけです。 こういうことが、日本人には全く知らされていません。・・・・・「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロ(1254~1324)も、「ヴェネツィアの黒い貴族」が「黄金の国ジパング」の情報を収集するためにモンゴル帝国へ送り出したエージェントだったのです。・・・・・大航海時代の背景は、ポルトガル・スペイン・英国という国家ではなく、ヴェネツィアに浸透した金融寡頭権力の「ヴェネツィアの黒い貴族」だったのです。 このようにして、「ヴェネツィアの黒い貴族」は、世界支配を進めてきたわけです。 そして、「ヴェネツィアの黒い貴族」が最後にしたことは、キリスト教の総本山であるローマ・カトリック教会を大分裂させることでした。 つまり、1517年にマルチン・ルター(1483~1546)がローマ教皇庁に挑戦して、免罪符を否定する抗議宣言書を教会の扉に張り出したら、あっという間に、非常にわずかの間に、全ドイツにローマ・カトリック教会を非難する抵抗運動が広がりました。 しかし、このルターの背後にいたのは、「ヴェネツィアの黒い貴族」だったのです。 「ヴェネツィアの黒い貴族」は、ルターをヒーローに仕立て上げて、全ヨーロッパ、特にドイツで、ローマ・カトリック教会と、これに反対するプロテスタント教会という二大勢力が巻き起こるように資金援助したため、キリスト教会は、真っ二つに分かれました。 そして、この10~20年後に「ヴェネツィアの黒い貴族」は、プロテスタント教会から脅かされているローマ・カトリック教会に対して、新しく勃興したプロテスタント教会と戦うための「イエズス会」という新しい修道会を組織して与えました。 「イエズス会」を創設したユダヤ人のイグナチオ・デ・ロヨラ(1491~1556)とフランシスコ・ザビエル(1506~1552)を選抜して任務を与え、活動資金を提供して強固な軍隊的組織へ育成したのは、「ヴェネツィアの黒い貴族」だったのです。 また、「ヴェネツィアの黒い貴族」は、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の両方に背後から軍資金を与え、すごい殺し合いを操りました。 この殺し合いが最も激烈に展開したのがドイツで、ドイツではカトリックとプロテスタントの両派の宗教戦争によって、人口が半分になってしまった地域があるくらいです。 ヨーロッパ諸国を支配するカトリックとプロテスタントの両派のキリスト教会の権威を徹底的に失墜させ壊滅することによって、「ヴェネツィアの黒い貴族」の考える世界支配計画を次の段階に進めようとしたわけです。・・・・・「ヴェネツィアの黒い貴族」が、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会とに分裂させた後、中近東・地中海の枠を超えた大西洋・インド洋・太平洋の航路を用いる大航海時代を迎え、「世界首都はヴェネツィアでは都合が悪い」ことを認識して、アムステルダムを経てから、ロンドンを新しい世界首都に選びました。ロンドンを「ヴェネツィアの黒い貴族」の新しい世界首都にするため、16世紀、ヘンリー7世(1457~1509)の宮廷にエージェントを潜り込ませ、ウィリアム・セシル(1520~1598)が次のヘンリー8世(1491~1547)の宮廷で重要な役目を果たしました。セシル家とは、「ヴェネツィアの黒い貴族」が英国王家に送り込んだエージェントなのです。 この後、エリザベス1世(1558~1603)が女王の座に就きます。 セシル家は、代々のエリザベス女王の腹心となり、現在に至るまで英国権力の重要な地位に就き続けています。 このようにして、ロンドンを「ヴェネツィアの黒い貴族」の新しい世界首都にする計画が始まりました。 計画の終結は18世紀です。 つまり、英国王家の血統が途絶えたので、ドイツからフリーメーソン会員のジョージ1世(1660~1727)を迎えて「ハノーバー朝」を開き、英国王家を継いだのです。 「ハノーバー朝」が続いたことにより、ロンドンを「ヴェネツィアの黒い貴族」の新しい世界首都にする計画は終結しました。 だから、19世紀のユダヤ人の政治家ベンジャミン・ディズレリー(1804~1881)は、彼の本の中で「ハノーバー朝以降の英国の国家体制は、ヴェネツィアの憲法に従った」と述べました。・・・・・ ところで、世界首都のロンドンには通常の英国人も知らない秘密があります。 つまり、世界超国家としてのロンドン・シティの存在です。 ともすると、「21世紀の世界金融センターは、米国のウォール街にあり、英国のロンドン・シティは、ウォール街の下請け化している」などと言われますが、これは、とんでもない誤解です。 ロンドン・シティの面積は2.9キロ平米で、東京都千代田区の面積11.64キロ平米の約4分の1に過ぎませんが、この小さなロンドン・シティの中にあるロンバート街こそが、英国中央銀行のイングランド銀行を中心とする真の世界金融センターなのであり、英国の国家・王族・議会・政府の上に君臨する独立国なのであり、闇の中にある真の世界政府なのです。・・・・・ 日本人が知るべき最も重要な西洋史の秘密は「ロンドン・シティ」の真相(152~157頁)、 いま、初めて明かされるロスチャイルド王朝の秘密(157~174頁) ・・・・・ 現在、米国CFR(外交問題評議会)のメンバーは、約3000人といわれていますが、そのうちの73%は、ユダヤ人です。 米国のユダヤ人は、米国の人口の3%に過ぎませんが、米国の政治を支配するCFRは、73%がユダヤ人なのです。 CFRは、金融寡頭権力 「ヴェネツィアの黒い貴族」の現代版であるロスチャイルド家が事実上、支配しています。 だから、ロスチャイルド家は、CFRを通じて米国を支配していることになります。』
※1 悪魔的啓示: 教会史家ラクタンティウス(240頃~320頃)、教父エウセビオス(263頃~339)、その他の伝承によると、『コンスタンティヌス帝(在位: 306~337年)は、312年10月、マクセンティウス帝(278頃~312)とのローマ北側の決戦場「ミルウィウス橋の戦い」に向かう行軍中、天空に光輝く「逆十字」と、ギリシャ語のクリィストゥス 「ΧΡΙΣΤΟΣ」の先頭2文字「ΧΡ」を取り囲むように、ギリシャ語の「汝これにて勝て」という言葉が浮かんでいるのを見た。 この幻に従って、十字架をあしらった軍旗と、ΧとΡを重ね合わせた紋章「ラバルム」を貼り付けた盾を作って「ミルウィウス橋の戦い」に臨み、マクセンティウス帝に勝利した』 という。
※2 秘密結社: エドム人(ギリシャ語: イドマヤ人)のヘロデ大王(前73頃~前4)の孫のヘロデ・アグリッパ1世(前10頃~44)は、キリスト教徒を殲滅するため、ユダヤ教の秘密結社「秘密の力」 エルサレム・ロッジを43年に創設した。 これが、秘密結社フリーメーソンの源流となった。
以上を要約すると、ローマ帝国の政治権力と一体化したローマ・カトリック教会の反聖書的な規則・戒律・教理= 反イエスのユダヤ教の秘密結社 フリーメーソン+イエズス会≧イルミナティ= 金融寡頭権力の「ヴェネツィアの黒い貴族」= 英国のロンドン・シティ= 国際金融資本家のロスチャイルド家= 世界超国家= 現代社会のユダヤ教改革派となる。 但し、国際金融資本家のロスチャイルド家と言えども、生老病死の四苦を免れない普通の人間であって、数百年単位で世界覇権を維持しうる不思議な政治力学を調査研究した場合、人間を超えた、実在する悪魔の司る「人類コントロール・システム」が稼働してきた事実を見出すだろう。 例えば、1963年のジョン・F・ケネディ(1917~1963)大統領暗殺事件と、2001年の911米国同時多発テロ事件に隠された真相を理解すれば、世界各国の中央銀行を握る秘密結社イルミナティの上に君臨した、「超人・怪人・怪物・幽霊・宇宙人・MIB・UFO・UMA」を操る悪魔の司る「人類コントロール・システム」の下にある恐るべき現状を正しく認識できるようになる。 そして、悪魔による人類支配の手段は、金融寡頭支配・ マインドコントロール・ 憑依であって、『聖書』の教えと寸分の狂いもない、この歴史認識と現状認識こそ、万人を救い、万人に自由をもたらす、究極の真理である。
(4) 古代イスラエル王国の歴史検証
A.南朝ユダ王国2支族と 北朝イスラエル王国10支族に分裂したイスラエル王国
『聖書』 におけるヘブライ人とは、ヘブル人と表現されることもあり、アブラハム・イサク・ヤコブの血統を継ぐ「神の民」を指す。 ヤコブは、イスラエルと改名したことから、ヤコブの12人の息子たちの血統を継ぐ12支族をイスラエル人という。 この後、大指導者モーセによる「出エジプト」を経て、イスラエル王国を建国した。 ソロモン大王(在位前961頃~前922頃)の没後の紀元前928年、南朝ユダ王国の2支族と北朝イスラエル王国の10支族に分裂した。 そして、紀元前722年、北朝イスラエル王国の10支族は、アッシリア帝国の捕囚となり、その行方が失われたため、南朝ユダ王国の2支族を指してユダヤ人と呼ぶようになる。 なお、神武天皇が日本建国を果たしたのは、北朝イスラエル王国の10支族が、アッシリア帝国の捕囚となった紀元前722年から62年後の紀元前660年である。 だから、『アッシリア帝国に侵入を繰り返したスキタイ系騎馬民族と神武天皇の率いた日本(ヤマト=ヤ・ウマト=神の民)は、アッシリア帝国に対する共同戦線を築いた可能性が高い』 という歴史認識がある。
B.アッシリア帝国に捕囚された北朝イスラエル王国10支族とスキタイ系騎馬民族の共同戦線
アッシリア帝国は、スキタイ系騎馬民族の度重なる侵入によって徐々に国力を失った。 スキタイ系騎馬民族は、アッシリア帝国の捕囚民のイスラエル人と共同・連携しながらアッシリア帝国と戦ったと考えられる。 つまり、スキタイ系騎馬民族と捕囚民のイスラエル人の共同戦線は、双方にとって利益のある最善の軍事同盟であり、アッシリア帝国は、その統治する領土の外部と内部の両方から攻撃され続けたことになる。 なお、この時代の最新最強の戦闘方法は、「騎馬戦」であり、『アッシリア帝国の騎馬兵は、「世界最古の騎馬民族」と言われるスキタイ人の練達した「騎馬戦」には敵わなかった』であろう。 そして、アッシリア帝国は、スキタイ系騎馬民族の侵入、統治下の諸民族の反乱蜂起と同時に、統治下にあるバビロニア地方とメデア地方の分離独立運動が激高した。 やがて、アッシリア帝国は、バビロニア・メデア分離独立運動の連合軍の攻撃を受け、紀元前612年に首都ニネベが陥落し、紀元前609年に滅亡した。 かくして、アッシリア帝国の捕囚から解放された北朝イスラエル王国の10支族は、世界史上から消えて行方不明になったが、諸帝国・諸王国の興亡と野蛮な戦乱に明け暮れる「中東地域」に辟易し、スキタイ系騎馬民族と共に、陸と海のシルクロード交易ルートを通って、太陽の昇る「極東地域」へと向かい、やがて、自然の恵み豊かな理想郷である日本列島に到着したと考えられる。 なぜなら、日本列島に20万基以上ある古墳・積石塚の約10%の2万基以上が、スキタイ系騎馬民族の様式であるからだ。 また、『日ユ同祖論または日本列島に関する伝承が、太古から連綿と続いていた』 のであり、日ユ同祖論を裏付ける聖句が「イザヤ書」 以外にも多々ある。 従って、『神武天皇は、日本列島に関する諸情報を十分に把握した上で、紀元前660年に日本建国を果たし、スキタイ系騎馬民族と共同して 北朝イスラエル王国10支族を捕囚したアッシリア帝国と戦って、同胞の10支族の解放を果たした後に、陸と海のシルクロード交易ルートを通って、南朝ユダ王国のイザヤが、預言者としての召命を「神」から受けた紀元前740年から有名な理想郷の日本列島に向かった』 と考えられる。
C.バビロニア帝国による南朝ユダ王国2支族の「バビロン捕囚」
(5) 行方不明になった北朝イスラエル王国のイスラエル人と南朝ユダ王国のユダヤ人の合流
『紀元前722年に北朝イスラエル王国の10支族がアッシリア帝国に捕囚され、その行方が失われた62年後の紀元前660年に神武天皇が日本建国を果たした。 この後、北朝イスラエル王国の10支族を捕囚していたアッシリア帝国が、スキタイ系騎馬民族の侵入、統治下の諸民族の反乱蜂起、バビロニア地方とメデア地方の分離独立運動の激高により、紀元前609年に滅亡した』 という、この歴史的な因果関係に注目すべきである。 そして、更に、紀元前539年に南朝ユダ王国のユダヤ人が「バビロン捕囚」から解放されたにもかかわらず、その王族を含む大多数が聖都エルサレムに帰還することなく行方不明になった。 神武天皇の日本建国から121年後のことである。 従って、南朝ユダ王国の行方不明になったダヴィデ王朝の男系の血統を継承する王族を含むユダヤ人は、神武天皇の建国した日本(ヤマト)に合流したと考えられる。 但し、神武天皇たちが、日本列島に渡来した最初のイスラエル人≧ ユダヤ人というわけではない。
(6) 日本列島に渡来したイスラエル人≧ ユダヤ人の歴史
A.第一波の渡来
古代イスラエル王国の栄華を極めたダヴィデ大王(在位:前993頃~前961頃)の子のソロモン大王(在位:前961頃~前922頃)が、タルシシュ船を用いて世界的な海洋交易を営んでいたことから判断すれば、『ソロモン大王の時代のイスラエル人は、日本列島に既に渡来し定住していた』 と考えるべきだろう。 なぜなら、大分県の国東半島で紀元前800年代の製鉄所遺跡(重藤遺跡など)が見つかっているからだ。 これが、日本列島に渡来したイスラエル人の第一波であり、弥生時代の幕開けとなる。 第一波のイスラエル人は、タルシシュ船でインド洋を渡って来たのであり、九州地方の南部である鹿児島県・宮崎県・熊本県・大分県の沿岸部に拠点を築いたと考えられる。 さて、ここで、『古事記』(712)と『日本書記』(720)にある「天孫降臨」について考えると、『聖書』から見た場合、「天孫降臨」とは、天照大御神から『豊葦原の中つ国(日本列島)を治めよ』 という命令を受けた天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子にして天照大御神の孫である邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神から授かった三種神器※をたずさえて、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)を引き連れて、高天原(神の御国)から日向国(鹿児島県~宮崎県)の高千穂峰(標高1574m)に降臨したことをいう。 従って、「天孫降臨」とは、第一波のイスラエル人の日本列島渡来と同時期に起きた邇邇藝命ら天使3人の高千穂峰の降臨と、この後にイスラエル人が受けた不思議な霊的支援を神話的に表現した伝承であろう。 だから、『天照大御神に象徴される「聖書」の神の命令を受けた邇邇藝命ら天使3人は、第一波のイスラエル人に対して三種神器を示しながら、九州地方の南部に拠点を確保するよう強く求め、未知現象を伴う霊的な支援をも行って、イスラエル人の領土の拡張を推し進めた。 そして、この時期の縄文人は、弥生時代の幕開けという歴史的な大転換期の訪れを、その霊的な次元から実感した』 と想われる。
※ 三種神器とは、天孫降臨の時に、邇邇藝命が天照大御神から授けられた鏡・玉・剣をいう。 三種神器は、イスラエル人の「契約の箱」の中に納められていたモーセの十戒石板・マナの壺・アロンの杖に相当する。 そして、ソロモン大王(在位:前961頃~前922頃)が壮麗な石造神殿を完成させた時の神殿の至聖所に「契約の箱」と、この中に「二枚の板」は在った(「2歴代誌」 5:10)が、マナの壺・アロンの杖は既に無く、後世になると、モーセの十戒石板と「契約の箱」も失われた。 なお、「契約の箱」は、南朝ユダ王国のヨシヤ王(在位:前640~前609)の時代(「2歴代誌」 35:3)を最後に失われた。 この一方、「契約の箱」を別として、歴代天皇が三種神器を代々継承してきた史実がある。
B.第二波の渡来
第二波の日本列島への渡来は、神武天皇たちになる。 神武天皇による日本建国は、紀元前660年であるが、日本神話にある「神武東征」 とは、ユーラシア大陸における東征と、日本列島における東征という二重の意味がある。 そして、神武天皇は、タルシシュ船でインド洋を渡って日本列島に渡来し、その他の主力は、ユーラシア大陸のシルクロードを通って日本列島に渡来したのではないだろうか。 こうして、第二波で日本列島に渡来したイスラエル人≧ ユダヤ人は、第一波の九州地方に拠点を築いたイスラエル人の支援を受けながら、瀬戸内海または四国南側の海岸沿いに東方へ移動し、兵庫県の淡路島に集結した。 これ即ち、日本神話にある最初の「国生み」である。 これと同時に、シルクロードを通って古代朝鮮半島を経てから日本列島に渡来してくる後続のイスラエル人≧ ユダヤ人のために、日本海に浮かぶ隠岐島・壱岐島・対馬・佐渡島と、島根県の出雲地方をも開拓して統治した。 これが後の出雲王国の始源になった。
C.第三波の渡来
第三波の日本列島への渡来は、ユダヤ人である秦の始皇帝(前259~前210)と徐福たちである。 この史実は、中国の『義楚六帖』(954)に書いてある。 日本全国各地に残る徐福渡来伝説は、真摯に研究する価値がある。なお、徐福渡来後も、陸と海のシルクロード交易ルートを通じて、イスラエル人 ≧ ユダヤ人や騎馬民族のスキタイ人の日本列島への渡来が継続されていた。 この歴史は、日本全国に20万基以上ある古墳・積石塚の約10%の2万基以上がスキタイ型の文化様式を備えている面からも明らかだ。 この第三波のイスラエル人 ≧ ユダヤ人と騎馬民族は、日本列島の中の未開拓地を求めた。 そして、灌漑と水運に便利な利根川・荒川・東京湾を動線として、埼玉県 行田市の稲荷山古墳周辺を中心とした群馬県・茨城県・千葉県・東京都・神奈川県・山梨県にわたる広大な関東地域に、いわゆる関東日本王国を樹立した。 ちなみに、漢字は、本来の秦字と呼ぶべきであり、ヘブライ語の文字と単語の意味に基づき、視覚的にもコミュニケーションとれるように神霊の啓示に導かれた始皇帝の一派が新たに創作した表意文字であり、日常的に使用する字体の統一を計った。 この始皇帝の一派が、日本列島に渡来して、この新しい文字文化を普及した以上、『漢字(秦字)は、始皇帝の一派が日本語(ヘブライ語)に基づいて日本列島で新たに普及・発達させた日本発祥の文字だ』 と言える。 この点、ドイツ系ユダヤ人の親日家 ハルペン・ジャック(1946~)氏の「漢字原子論」(漢字成立理論)などは参考になる。 さて、中国共産党一党独裁の中国政府が、始皇帝の陵墓その他の遺跡の発掘調査情報を公開しない理由は、ユダヤ人やペルシャ人の刀剣・宝飾品・工芸品といった遺物ばかりであるため、中華思想を持つ中国人に与える文化的衝撃を考慮した措置であろう。
D.第四波の渡来
「ユダヤ戦争」(66~73)の終結後、イエス・キリストの教えを信仰する原始キリスト教徒のユダヤ人やペルシャ人など、ローマ帝国から流出した諸民族が、シルクロード交易ルートを通って古代朝鮮半島の辰韓~新羅に寄留した後に、第四波の日本列島への渡来を果たした。 そして、弥生時代末期の150~250年頃に原始キリスト教徒の仲哀天皇・神功皇后・応神天皇は、古代豪族連合から成る大和朝廷の統治権を、淡路島・四国・九州・日本海地域から、更に関西地域へと拡張した。 なぜなら、『古事記』(712)にある「国生み神話」の順序が、『 1.淡路島→ 2.四国→ 3.隠岐島→ 4.九州→ 5.壱岐島→ 6.対馬→ 7.佐渡島→ 8.本州 』 であった以上、『弥生時代末期の150~250年頃の大和朝廷は、神武天皇以来の領土を継承しながら関西地域にも、その統治権を拡張し続けた』 と考えられるからだ。 この後、古墳時代の300~400年頃の大和朝廷は、日本海地域に一大勢力を築いた出雲王国や、広大な関東地域を既に統治していた関東日本王国との平和的な対等併合に尽力した。 このようにして、第四波の原始キリスト教徒であるユダヤ人は、弥生時代末期から飛鳥時代初期にかけて、日本列島を既に統治していた古代ユダヤ教を奉ずるユダヤ人と騎馬民族から、その統治権を平和裏に継承した。 そして、飛鳥時代初期の大和朝廷は、奈良県 明日香村の飛鳥板葺宮周辺を都として、和歌山県・大阪府・京都府・滋賀県・兵庫県にわたる広大な関西地域を統治した。 飛鳥時代初期には、古代朝鮮半島の辰韓~新羅を植民地にした原始キリスト教徒のユダヤ人その他のローマ帝国の諸民族の末裔との外交関係を重視し、ローマ帝国と同じ水準の上水道と下水排水溝・噴水設備・ガラス製食器などの技術と文物を日本に導入した。 従って、『大和朝廷の極めて高度な精神文化と物質文明を土台として、古墳時代~ 飛鳥時代~ 奈良時代~ 平安時代~ 鎌倉時代~ 南北朝・室町時代~ 戦国時代~ 江戸時代へと続く、ヘブライ語に由来する日本語を使う優秀な日本人と比類なき日本文化を次第に形成した』 と言える。 なお、日本神話にある「国譲り」とは、縄文人から弥生人へ、また、国津神から天津神への日本列島の統治権の委譲という二重の意味がある。 後者については、国津神である縄文人のアニミズムと習合した「古神道」(日本的ユダヤ教)を信仰するユダヤ人から、天津神である「新約聖書」を信仰する原始キリスト教徒のユダヤ人に日本列島の統治権を委譲した歴史の物語であることを考慮すれば、『弥生時代末期の150~250年頃の大和朝廷の大王(仲哀天皇~神功皇后~応神天皇)は、ダヴィデ王朝の男系の血統を継承する原始キリスト教徒のユダヤ人であった。そして、ダヴィデ王朝の男系の血統に関しては、初代の神武天皇以来、今上陛下に至るまで万世一系である』 と考えられる。 なぜなら、次章 【 2 】 ユダ族のダヴィデ大王の子孫に継承される王権の永遠性を記した聖句 ( 天壌無窮 にして 万世一系の天皇に関する聖句 )に示したごとく、『聖書』に、そのように書いてあるからだ。 それに、次のような最新の発見がある。
■ 沖縄県うるま市の教育委員会は、『2013(平成25)年に沖縄市内の「勝連城跡」の調査が行われた際、3世紀~4世紀頃の古代ローマ帝国の銅貨4枚と17世紀後半のオスマン帝国の銅貨1枚が見つかった。 古代ローマ帝国の銅貨は、直径1.6cm~2cmで、人物の姿とローマ文字が刻まれている』 と、2016年9月26日に発表した。
「ユダヤ戦争」(66~73)の終結後、ローマ帝国の政治権力に迎合することなく、シルクロード交易の東方諸国に向かった、神に呪われたユダヤ教徒のユダヤ人の末裔は、飛鳥時代末期の日本列島に第五波として渡来してきた。このユダヤ教徒のユダヤ人は、400~500年頃、古代朝鮮半島の馬韓を前身とする百済に集結して寄留を始め、やがて、大和朝廷の統治する飛鳥時代末期の日本列島にも政治勢力を築いた。 なお、朝鮮人が朝鮮半島に定住する以前の500年以前まで、倭人と呼ばれた日本人が古代朝鮮半島南部の任那という地域を「任那日本府」を通じて統治した。これは、中国「栄書」・「日本書紀」・考古学上の事実で、『シルクロードから来た原始キリスト教徒の諸民族を日本列島に安全に輸送する役割があった』と考えられる。 以上の古代朝鮮半島の地政学の下、藤原鎌足(614~669)を中心とする百済系のユダヤ教徒のユダヤ人の政治勢力は、野蛮な「大化の改新」(645)を断行し、原始キリスト教徒の蘇我氏を皇族とする大和朝廷を簒奪するに至った。 詳細は、(10) において考察する。
F.奈良時代以降の渡来
原始キリスト教に忠実であるが故に、聖母マリアの神性と三位一体の神観を否定した唯一神観のネストリウス派=景教を信仰したユダヤ人を含むローマ帝国の景教徒の日本渡来は、奈良時代初期から平安時代初期に至る約100年間であったと考えられる。 但し、当時の朝廷を差配したユダヤ教のタルムードを奉ずる藤原氏の下では、冷遇または弾圧されることはあっても、厚遇または重用されることはなかったであろう。 なお、次のような最新の発見がある。
■ 奈良文化財研究所は、『50年前の発掘調査で見つかった、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡を、今年、赤外線を使って調べたところ、「破斯清通」(はし・きよみち)という役人の名前が記されていることが判明した。 「破斯」という名字は、ペルシャを意味する「波斯」と読み方が同じであり、木簡に記された人物はペルシャ人とみられる。 「続日本紀」(797)には、「736年、遣唐使が連れ帰ったペルシャ人が聖武天皇と面会し、その後、位を授けられた」という記述があり、このペルシャ人は、木簡に記された人物と同一人物の可能性がある』 と、2016年10月5日に発表した。
G.日本列島の縄文人
『世界最古の土器文明を持つ日本列島の縄文人が、「ノアの大洪水」後に興ったシュメール人になった』 という考古学研究者もおり、仮に、そうだとすれば、『 シュメール人の末裔であるアブラハム以来、とても長い時代を経て、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫である「神の民」イスラエル人 ≧ ユダヤ人が、再び日本列島に帰還した』 と言えよう。 また、最新の考古学上の研究成果を踏まえると、『世界最古の土器文明を持つ縄文人は、カヌーを用いた航海術に長けており、北太平洋ルートとして、凍結したベーリング海峡を越えてアラスカ方面から北米大陸に渡った。 黒潮ルートとして、太平洋を横断して南米・北米大陸に渡った。 南太平洋ルートとして、南洋諸島沿いに南米大陸に渡った』 と考えられる。 詳しくは、右記を参照してほしい。 : 北米大陸の原住民のインディアンの骨格と土器文化(戦前の西村眞次説、2001年8月1日付 読売新聞)、南米ペルー・エクアドル共和国のヴァルディビィア遺跡から出土した縄文土器(1965年発表のメガーズ・エヴァンズ説)、南太平洋バヌアツ共和国のエファテ島メレ平野のヤムイモ畑から出土した縄文土器(1996年8月14日付 読売新聞)
H.日本列島に大和朝廷を樹立した第二波と第三波と第四波のイスラエル人 ≧ ユダヤ人
縄文時代末期から弥生時代を経て古墳時代初期に行われた、第二波と第三波と第四波のイスラエル人 ≧ ユダヤ人による国土開発の手始めは、起伏の多い地形を正確に測量して、日本列島の地図を作成することであった。 詳細は、(8) において考察したい。
(7) 日本(ヤマト)によって統治されていた古代朝鮮半島
A.秦帝国の滅亡と扶余の誕生
イザヤ書 49:12 「シニム(シン=中国大陸)の地」 と書いてあるように、ヘブライ語では中国大陸を指して「シニム」 「シン」 と呼称した。ここでは、秦帝国のイスラエル人 ≧ ユダヤ人 起源に関する解説を省略して、古代朝鮮半島の情勢に絞った考察をおこないたい。 イスラエル人 ≧ ユダヤ人を指導者層とする秦帝国が、紀元前207年に滅亡した後、シルクロードに沿った古代朝鮮半島の北部に、扶余というミステリアスな国が誕生した。 『扶余という国名は、ヘブライ語で「神」を表す聖四文字YHWH(ヤハウェ)をユダヤ教のアナグラム(言葉遊び)によって並べ替えたHWYH(フーヨー)に由来し、ユダヤ教のアナグラムを心得ているイスラエル人 ≧ ユダヤ人であれば誰でも簡単に「同胞の住む神の国」として識別できた』 と考えられる。 こう考えると、『徐福の大船団に乗船して日本列島に渡航することのできなかった、いわゆる、秦帝国に取り残されたイスラエル人 ≧ ユダヤ人と、ペルシャ方面からシルクロードを通って日本列島を目指したイスラエル人 ≧ ユダヤ人とが、古代朝鮮半島の北部で合流することによって成立した古代ユダヤ教国が、扶余であった』 と分かる。
B.扶余~高句麗、馬韓~百済、辰韓~新羅 の建国神話を分析する際の前提条件
古代朝鮮半島に勃興した 扶余~高句麗、 馬韓~百済、 辰韓~新羅 という国々の領土と民族構成は、時代の変遷につれて激しく変化したことを忘れてはならない。 つまり、『古代朝鮮半島は、シルクロードの東端に位置し、イスラエル人 ≧ ユダヤ人にとっては、日本列島という自然の恵み豊かな 「地上の楽園」 「乳と密の流れる地」 「契約の民に啓示された約束の地」に向かうための公共道路・ 通過地域・ 寄留地・ 植民地に過ぎなかった』 ということだ。 もちろん、古代朝鮮半島の原住民も居たわけであるが、イスラエル人 ≧ ユダヤ人の極めて高度な精神文化と物質文明から見れば、爬虫類のごとく下等で忌まわしく冗談の対象でしかない存在であったことが、古代朝鮮半島の国々の建国神話から推察される。
C.朝鮮半島人と日本人は全く異質かつ無関係である
古代朝鮮半島に残された建国神話・民間伝承・考古学を総合的に分析すると、『朝鮮半島人は、イスラエル人 ≧ ユダヤ人を中核とする日本人から見た場合、血統的・ 文化的・ 文明的に全く異質かつ無関係であり、常に隔離・ 排斥・ 駆逐・ 叱咤・ 教化・ 援助 を余儀なくされる、哺乳類と異なって卵を産む蛙や蛇という爬虫類同然の下等で邪悪な敵対民族である』 という判断と評価に至る。 なお、分子人類学のDNA分析による判定も同様の結果だ。 従って、霊的に見た場合、現代世界の中東地域におけるユダヤ人とアラブ人の敵対関係と、極東地域における日本人と朝鮮半島人の敵対関係は、完全に相似する。 つまり、アラブ人と朝鮮半島人は、その集合的無意識または民族霊の中に『聖書』の神と「神の民」に対する根強い恨みを共通して抱いてきた。 そして、悪魔・悪霊は、このような恨みを抱く民族と個人に容易に憑依し、その邪悪な目的を果たそうとしてきた。
『三国史記』(1145)の「新羅本紀」と「百済本紀」にある百済建国神話の中にも、ヘブライ語の固有名詞が多く見られる。 例えば、天帝の子の解慕漱(ヘモセ)とは、ヘブライ語で 「モーセを見よ」 「モーセに帰れ」を意味する。 扶余の王は解夫婁(ヘブル)であり、「ヘブライ人」であることを伝えている。 解夫婁(ヘブル)が鯤淵(コーヘン)という「レビ族の祭司職」を意味する場所で見つけた金色の蛙 (金蛙王)を父親とする高句麗の王の朱蒙(スモー)は、「彼の名」を意味し、イスラエル12支族の生みの父祖である「ヤコブ=イスラエル」を表している。 従って、百済王の系図を要約すると、『天帝の子の解慕漱(ヘモセ)~ 扶余の王の解夫婁(ヘブル)~ 鯤淵(コーヘン)で拾われた金蛙王~ 高句麗の王の朱蒙(スモー)~ 百済を建国した兄弟の沸流(フル) と 温祚(オンソ) 』 という流れになる。 そして、百済建国神話によれば、『百済の始祖は兄の沸流であるが海洋側に建国した後に行方不明になり、 百済の初代の王には内陸側に建国した弟の温祚が就任した』 という。 つまり、兄の沸流は、日本列島へ渡ったことを暗に示唆している。 兄の沸流とは、百済を建国したイスラエル人の象徴であり、弟の温祚に象徴される古代朝鮮半島の原住民を支配していた。 兄の沸流は、日本列島の第一波~第三波のイスラエル人と合流したと思われるが、合流時期は、神功皇后(生年不明~247)の「三韓征伐」(150頃~200頃)以前の時代になる。
E.古代朝鮮半島の歴史研究
古代朝鮮半島の歴史研究は、考古学調査のみならず、日本側の文献資料と中国側の文献資料をあたることになる。 朝鮮半島側の文献資料は何もない。 例えば、『論衡』(100頃)、 『三国志』(280~297頃)、広開土王碑-好太王碑-(414)、 『魏書』(559)、『梁書』 (629)、『隋書』(656)、 『旧唐書』(945)、 『新唐書』(1060)、 『三国史記』(1145)、 『三国遺事』(1200年代)などを調査分析することになるが、特に、高句麗の広開土王(好太王: 374~412)の業績を称えた石碑で、現在の中朝国境付近の中国側にある広開土王碑(414)には、『倭(日本)が、391年に新羅・ 百済・ 加羅(伽耶)を臣民としていた』 と刻まれており、日本列島からしか産出されないヒスイの宝飾品の出土や、新羅の領土内のみに日本固有の前方後円墳が発見された事実など、考古学的にも、古代朝鮮半島が 任那日本府によって統治されていた史実は疑いようがない。
F.「日本」という国号の由来
日本人は、中国大陸に居た異民族が用いた「倭」という表記を使うべきではなく、古代日本人の国家の領土を「日本」と表記して「ヤマト」と読むべきである。 そもそも、『三国史記』(1145)の「新羅本紀」の文武王十年(670)十二月の条に、「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名と為すと。」 と書いてあることから、『 「日本」(ヤマト)という国号は、天武天皇(在位:673~686)が定め、「大宝律令」(701)で法令化した』 と言われるが、初代の神武天皇が定めたのであり、ヘブライ語に由来する。 つまり、「日本・ニホン・ニッポン・NIHON・NIPON」とは、ヘブライ語で「ヌン・ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヌン」と書き、前後の強調形「ヌン」によって「ヨッド・ヘー・ヴァウ」を挟み込む形をしている。 このように、強調形である同じ文字の間に挟み込まれた「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー」(ヤハウェ=神の固有名詞)の表記は、慣習として最後の「ヘー」を省略した。そして、「ヌン」には、「忠実・忠誠・従う」という意味がある。 従って、「日本」とは、ヘブライ語で「ヌン・ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヌン」と書いて、「神に忠実な国、神に忠誠を尽くす国、神に従う国」という意味である。 勿論、表意文字の漢字(秦字)による「日の本、日出る国、太陽の昇る国」という多義的な意味もある。
G.神功皇后による「三韓征伐」(150~200年頃)の史実
仲哀天皇の皇后で応神天皇の母である神功皇后による「三韓征伐」(150~200年頃)とは、古代朝鮮半島南部にあった任那日本府を軍事拠点として、日本の大義に服属せずに侵略的な密入国と犯罪行為を繰り返す「新羅・百済・高句麗」の三韓 を征伐し、古代朝鮮半島の統治権を決定的に確立した歴史上の事跡をいう。 そして、三韓は、記紀編纂時に「新羅・百済・高句麗」という古代朝鮮半島の三国として知られていたが、神功皇后の御代における三韓とは、「新羅・百済・高句麗」の前身である「辰韓・馬韓・扶余」という古代朝鮮半島の三国を指す。但し、扶余は、400~500年頃、その本拠地を高句麗から百済へと移した。 なお、古代朝鮮半島に確立した日本の統治権は、663年の白村江の戦いに敗北したことによって完全に失われた。 白村江の戦いは、唐・新羅連合軍との海戦であったが、野蛮な「大化の改新」(645)を断行した藤原鎌足(614~669)と中大兄皇子(後の天智天皇 626~671、在位:668~671)の押し進めた未熟な軍事作戦を原因として敗北するに至った。
H. 古代朝鮮半島に寄留しながら通過した「ユダヤ戦争」(66~73)後のユダヤ人
仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に代表される 「ユダヤ戦争」(66~73)後の原始キリスト教徒のユダヤ人は、日本列島の弥生時代末期の150~250年頃に「国譲り」を経て大和朝廷を平和裏に樹立した。 また、 「ユダヤ戦争」(66~73)後にローマ帝国の帝都ローマに向かわずに、シルクロード交易をしていた東方諸国に向かったユダヤ教徒のユダヤ人は、原始キリスト教徒のユダヤ人の行程をたどる形で、400~500年頃に古代朝鮮半島の百済に集結して寄留を始めた。
(8) 銅鏡・銅鐸・銅矛を用いた三角測量に基づく日本列島の地図の作成
A.三角測量の知識技能を持って日本列島に渡来したイスラエル人 ≧ ユダヤ人
三角測量とは、ある基線の両端にある既知のA点とB点から測定したいC点への角度をそれぞれ測定することによって、C点の位置を決定する三角法の幾何学を用いた測量方法である。 あるC点と二つの基準点A点とB点とが為す三角形において、A点とB点を結ぶ辺の長さとC点に対する角度が測定されていれば、C点への距離と座標は、A点とB点からC点へと至る三角形の辺の各々の長さを計算することで求めることができる。
B.銅鐸は、打ち鳴らして音を出す祭祀用の楽器ではなく、測量器具である
古代エジプトの石造神殿・ ソロモン神殿・ 万里の長城を建設しうるほどに高度な幾何学・天文学・土木工学の知識技能を備えていたイスラエル人 ≧ユダヤ人は、太陽を基準とする三角測量の知識技能に基づき、銅鏡・銅鐸・銅矛を用いて日本列島の地図を作ったのであり、また、この三角測量の基準点に神社や祠を建てた。 だから、古代に由来する神社・遺跡・山頂・海島・巨石・レイライン(太陽の道)の相互位置関係を地図上に示すと、東西・南北の一直線上に並んだり、大小の正三角形・二等辺三角形を無数に形成したり、春秋分点・夏至冬至の太陽方位角を示したりする。 例えば、茨城県の鹿島神宮と長野県の諏訪大社は、真東西線の一直線上に存在する。 さて、三角測量について具体的に説明すると、太陽光の照らす地面に棒を垂直に立て、この棒を中心に円を描くと、午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるが、この2点を結ぶと、真東西を示す線となる。 この真東西線に、各辺の長さが3:4:5の「直角三角形」をあてがって、直角に線を引くと、これが真南北を示す線となる。 これらの真東西線と真南北線の上に銅鐸を据えることによって地形を正確に測量した。 あるいは、銅鐸自体が日時計であり、その上部にある薄いアーチ状の穴から射し込む太陽光の線が、銅鐸の真上から見て、午前と午後で左右対称になる方位をもって真東西線を割り出した。 銅鏡は、その中心にある丸い突起を基準にして方位角を測るコンパスであり、その裏面は太陽光を反射させる鏡である。 鏡の縁が三角になっている三角縁神獣鏡は、三角縁の中に水をため、鏡を水平に保つ構造だ。 銅鐸は、古代の測量器具であり、「舌」(ぜつ)と呼ばれる棒は、銅鐸を叩いて音を鳴らす道具ではなく、紐をつけて銅鐸の中に吊るすことにより、銅鐸を垂直に保つために用いた。 銅鐸は、その上部にある薄いアーチ状の穴と周囲にある突起物を使いながら、支柱木と縄を用いて空中に吊るし、真東西線と真南北線を基準として垂直に保つことにより、山の標高と傾斜角度と方位角を測ることができた。 つまり、銅鐸の両脇に2点ある合計4点の小さな丸穴を覗き込むと見える、遠方の銅鏡から反射された太陽光を観測することによって地図上に正確な方位角線を引いたり、座標を得ることができた。 銅矛(銅剣)は、測量する際の基準点の目印として用いられた。 このように、『イスラエル人 ≧ユダヤ人たちは、遠方の銅鏡から反射された太陽光を銅鐸の小さな丸穴を通して観測しながら、三角測量の計算を行うことにより、日本列島の地図を作成する上で必要な方位角・標高・座標・距離に関する情報を得ていた』 と考えられる。 なお、青銅器である銅鐸などを人里離れた山奥に埋設して隠した理由は、(A) 鉄器の普及に伴う鉄製の方位磁石や水晶レンズ等を用いた簡便な測量器具の開発 (B) 敵対民族への知識技能の普及防止 (C) 『埋設した銅鐸などは、遠い未来に発掘され古代史の真実を知るに至るだろう』 と期待した、ものと推察される。
C.最古級の銅鐸を淡路島で発見
以上のように記した後、奇遇なことに2015年5月19日、兵庫県教育委員会が、『淡路島(兵庫県南あわじ市)で一度に7個もの銅鐸を発見した。 紀元前3~2世紀の最古級の銅鐸と見られる』と発表した。 日本創成の「国生み神話」が、淡路島から始まったことを考えれば、この度の銅鐸発見は非常に感慨深いし、考古学会は政治的な圧力に屈することなく、古代史の真実を正々堂々と発表すべきだ。 なお、銅鐸と銅鏡が日本列島以外から発掘されていないことを踏まえれば、紀元前3~2世紀の銅鐸である場合、第二波として日本列島に渡来した神武天皇の末裔の手による測量器具の独創開発であろうし、第三波として日本列島に渡来した徐福の持つ知識技能に触発された測量器具の改良開発だったのかもしれない。 http://www.sankei.com/west/news/150519/wst1505190062-n1.html 「産経新聞」 2015年5月19日 『淡路島で銅鐸7個 「数十年に一度の大発見」 土砂選別作業がきっかけ』 兵庫県南あわじ市の玉砂利製造会社の砂山から、祭祀などに使われたとされる銅鐸が7個見つかり、2015年5月19日、兵庫県教育委員会が南あわじ市 湊市民交流センターで発表した。 紀元前3~2世紀(弥生時代前期末~中期初頭)に鋳造された古式の銅鐸で、多数確認例では加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)の39個、大岩山遺跡(滋賀県野洲市)の24個、桜ケ丘遺跡(神戸市)の14個に次ぐ4番目。専門家は「数十年に一度の大発見」としており、謎の多い初期銅鐸を解明する史料になりそうだ。 銅鐸7個の大きさは高さ31・8~22・4センチ。底幅18・5~12・8センチ。3組6個は加茂岩倉遺跡と同様に、大きな銅鐸に小さな銅鐸を入れ込む「入れ子」の状態で、埋納状態を復元する手がかりになるという。また、1個は菱環鈕(りょうかんちゅう)式と呼ばれる最古型式で、11例しか確認されていない。残る6個は外縁付(がいえんつき)鈕式という2番目に古いタイプだった。 3個からは、銅鐸の内側に取り付け、打ち鳴らすための「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅製の棒(長さ約13~8センチ)も3本確認された。青銅の舌が銅鐸と同時に見つかったのは珍しい。舌は摩滅しており、実際に鳴らされたことを裏付けている。今後、奈良文化財研究所で型式や模様などを詳しく調べる。銅鐸は2015年4月、玉砂利製造会社の砂山から見つかった。土砂は同市西部の松帆(まつほ)地区を中心に約10年前から集められていたというが、正確な出土地は不明。7個は松帆銅鐸と名付けられた。県教委は今後、銅鐸の公開も検討する。 銅鐸研究の第一人者、難波洋三・(独立行政法人)奈良文化財研究所 埋蔵文化財センター長の話 「数十年に一度の大発見。古式の銅鐸である上、『舌』を伴っているのも珍しく興味深い。埋納の際、鳴らす機能を奪うため舌を外すと考えていたが、淡路は例外だったようだ」 https://youtu.be/PulB9xDMUj4
D.前方後円墳
(A) 前方後円墳の造形の意味= 天の宇宙・霊界と地球の大地の四方・物質界の結合=「人形」
諸説あるが、『球体(円・丸)は天の宇宙・霊界を示し、立方体(台形・四角)は地球の大地の四方(東西南北)・物質界を示す。 そして、立方体(台形・四角)の接合部を狭くした理由は、天の宇宙・霊界から、地球の大地の四方(東西南北)・物質界が生じたことを表す。 この「人形」の前方後円墳の起源は、日本列島に渡来してきたイスラエル人≧ユダヤ人が大和橿原に大和朝廷を樹立した時に始まる』 と見る。 他の仮説としては、女性の子宮説・ マナの壺説などがあるが、いずれの見方も、世俗的すぎるようだ。 天(宇宙)と地(地球)、霊(精神)と肉(物質)という人間を含む現象世界に関する世界観は、古代ユダヤ教・原始キリスト教に見出せる。 つまり、『宇宙と人間の構造を、象徴的な「人型」の前方後円墳によって表した』と考えられる。 例えば、神社神道の大祓神事(毎年6月末・年末)では、前方後円墳と同じ形に切り抜いた「人型」の紙に人の名前を書いて川に流し、人の罪と穢れを祓う神道祭儀を行ってきた。
(B) 『前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓』 朝日新聞デジタル(2016年5月12日)
http://www.asahi.com/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html奈良県橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で弥生時代終末期(2世紀中ごろ~後半)とみられる円形の墓が見つかった。 奈良文化財研究所(奈文研)が12日発表した。 円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。 ポリテクセンター奈良(奈良職業能力開発促進センター)の建て替えに伴う発掘調査で確認された。 円の直径は約19メートルで、周囲を幅約6メートル、深さ約50センチの溝が巡る「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」。 周溝を含めた直径は最大約31メートルに及ぶ。 奈文研は、当時の奈良盆地で最大規模とみている。 突出部は南側にあったとみられ、長さは約7メートル。墓への通路となる「陸橋」だったとみられる。 今回の調査では、7世紀後半の藤原京の時代とみられる大型建物跡などの遺構も出土し、墓はその下層で見つかった。 墳丘は削られ、埋葬施設などは残っていなかった。 約7キロ北東の同県桜井市には、女王・卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)がある。 遺跡内には最古の大型前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ~後半、墳丘長約280メートル)のほか、後円部に比べて前方部が小さい纒向石塚古墳(国史跡、墳丘長約96メートル、3世紀前半~中ごろ)などの「纒向型」前方後円墳と呼ばれる古墳も点在する。 前方後円墳は陸橋(突出部)が次第に大きくなって前方部に発展したとの説があり、今回見つかった墓は纒向石塚古墳を数十年さかのぼるとみられる。 石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)も「この墓は前方後円墳のルーツとなる可能性があり、その後の前方後円墳に発展したのではないか」とみている。
E.倭の都の邪馬台国の女王は神功皇后である
(A) 「邪馬台国」=「ヤマト国」
『三国志』(280~297)の魏書東夷伝倭人条を「魏志倭人伝」と通称しているが、ここに出てくる倭の都の「邪馬台国」については、「ヤマト国」と読むべきである。 そして、四国在住の古代史研究家 大杉博(1929~) 博士の『倭の都の邪馬台国は、近畿地域や九州地域ではなく、四国の山上に在った』 というフィールド・ワークに基づく研究成果を支持したい。 なぜなら、次の a ~ c の確固とした理由があるからだ。 a.弥生時代末期の大和朝廷は、淡路島と四国地域に都を置き、日本全国を統治した本格的な大和朝廷の発足は、飛鳥時代になって今の奈良県 明日香村に都を移した後であると考えるからだ。 つまり、『古事記』(712)にある「国生み神話」の順序が、『 1.淡路島→ 2.四国→ 3.隠岐島→ 4.九州→ 5.壱岐島→ 6.対馬→ 7.佐渡島→ 8.本州 』 であった以上、弥生時代末期までの大和朝廷は、淡路島と四国に、その統治権を確立したのであり、淡路島と四国に、倭の都の邪馬台国が存在しうる。 また、b.1992年12月18日に発見された徳島市 国府町 矢野の「矢野遺跡群」は、大規模集落の存在を実証したし、徳島新聞2007年3月15日付の報道にある鳴門市 大麻町 萩原の「萩原墳墓群の2号墓」という国内最古の前方後円墳の存在を考慮した場合、「邪馬台国=四国説」の信憑性は極めて高い。 さらに、c.大和朝廷の祭祀を司った忌部氏の一族である阿波忌部氏の末裔の三木家が、天皇の践祚(即位)と大嘗祭に用いる麁服(あらたえ)という麻布の式服を21世紀の今日に至るまで四国の徳島県から献上し続けてきた事実こそ、弥生時代末期から古墳時代にわたる大和朝廷の本拠地のヤマト国が、淡路島南端に接した四国に存在したことや、飛鳥時代に至って日本全国を統治した本格的な大和朝廷の発足へと段階的に発展した史実を雄弁に裏付けている。 ちなみに、三木家資料館が、徳島県 美馬市 木屋平 字 貢 143 にあるが、戦前の日ユ同祖論者たちにより、『ソロモン大王の秘宝が隠されている』 と考えられ、発掘調査された剣山に近いことも興味深い。
(B) 「卑弥呼」=「日巫女」=「神功皇后」(生年不明~247)
「魏志倭人伝」(280~297頃)にある邪馬台国を都とした「倭の女王」の「卑弥呼」に関しては、かかる蔑称ではなく、「日巫女」として麗しく認識すべきであり、歴史年代からすれば、それは、「日(太陽)の巫女」たる神功皇后である。 これを具体的に解説すると、次の a ~ e のごとくなる。 a.『日本書紀』の神功39年の項にある太歳己未(つちのとのひつじ)は、魏の明帝の景初三年(239年)に相当し、この景初三年(239年)は、「魏志倭人伝」によれば、魏の明帝が「卑弥呼」を「親魏倭王」として認定した年であり、「親魏倭王」が神功皇后であることに疑問の余地はない。 なぜなら、景初三年(239年)に神功皇后以外に倭を代表しうる権威を備えた統治者は存在しないからだ。 b.「三韓征伐」(150~200年頃)を行った神功皇后は、神功39年、即ち、景初三年(239年)に、魏の明帝と上記のごとく友好的な外交関係を確立した一方で、日本全国に群雄割拠する豪族たちを自己の政治的な権威に服させることに腐心し、『魏の明帝から献上された』 という建前で、三角縁神獣鏡などの銅鏡1000枚以上を、自己の秘密の工房で製作し、これを日本全国の豪族たちに贈呈配布した。 だからこそ、中国大陸から三角縁神獣鏡などの銅鏡が発見されないのであるし、また、魏の明帝は景初三年(239年)正月元旦に死去し、「景初三年」の年号までしかないにもかかわらず、「景初四年」などの有り得ない銘文の刻まれた銅鏡(景初四年銘鏡)や、中国大陸の漢字・漢文と比較した場合に間違いの多い変な韻律を刻んだ日本独自の秦字・秦文の銅鏡が、日本国内に数多く存在するわけである。 c.原始キリスト教の最高祭司にして女王であり、神の啓示を受け賜る高度な霊感者の神功皇后からすれば、『三国志』にある 魏・呉・蜀 にしたところで、文化と文明レベルの低い、危険な蛮族としか見ていなかったであろうし、「親魏倭王」という称号にも、国家間の友好と平和という価値以外の何物も見出さなかったであろう。 また、『日本国内で群雄割拠する豪族たちに、「日本の外交責任」を負った唯一の日本国王であることを示威する上で、中国大陸の蛮族から授与された称号であっても有効に活用しよう』 と判断したにすぎない。 d.「魏志倭人伝」の魏の斉王紀 正始8年(247年)の項に、『春2月、朔(ついたち=新月)、日食があった』、また、『魏使を邪馬台国に派遣した直後に女王卑弥呼が没した。男王が立ったが、後継争いで内乱状態になったので、台与という13歳の少女を女王に推し立て、後継争いは収束した』 と書いてあるため、天文学上の天体シミュレーションを行い、これに新旧の暦換算を行った結果を重ね合わせて照合すると、247年3月24日に皆既日食が起きたと分かる。 そして、この皆既日食の日に天照大御神の御稜威を賜った最高祭司の神功皇后(生年不明~247)が奇遇にも崩御され、これ即ち、「天照大御神の岩戸隠れ」 という日本神話の原型になったという。 しかし、太陽が暗闇に覆われた時のイエス・キリストの磔刑死(贖罪死)→ 岩盤を掘った横穴墳墓への埋葬→ 死からの復活→ 復活後の伝道と昇天という一連の『聖書』の記述と伝承こそが、「天照大御神の岩戸隠れ」 という日本神話の真の原型であろう。 e.「魏志倭人伝」の「台与」とは、「豊鍬入姫命」(とよすきいりひめのみこと)を指した。 最高祭司である「卑弥呼」の霊的な職責を継承した「卑弥呼」の親族の「台与」とは、第10代の崇神天皇の晩年に誕生した皇女「豊鍬入姫命」である。 つまり、『第10代の崇神天皇から 神功皇后を経て 第15代の応神天皇に至る歴代天皇※の在位期間は、従来の通説と比較した場合、「同じ時代を生きた」とも言える極めて詰まった期間であった』 と考えられる。
※ 歴代天皇: 第10代 崇神天皇⇒ 第11代 垂仁天皇⇒ 第12代 景行天皇⇒ 第13代 成務天皇⇒ 第14代 仲哀天皇⇒ 神功皇后(生年不明~247)⇒ 第15代 応神天皇
(C) 「天孫降臨」の時に神から与えられた5つの神勅と、神武天皇の詔勅
「天孫降臨」は、『古事記』(712)と『日本書紀』(720)に書いてある日本開闢の神話であるが、第一波のイスラエル人の日本列島渡来を示す神話だ。 そして、歴代天皇は、「天孫降臨」の時に神から与えられた5つの神勅(神の命令)に従って、三種神器の一つである鏡との「同床共殿」 (宝鏡奉斎)を果たしてきた。 しかし、第10代 崇神天皇の御意に基づいて「同床共殿」を終えるに至った。 この後、神霊の現身(うつしみ)である鏡を祭る「元伊勢」は、皇女を神の「依り代」として風光明媚な地域を転々としていた。 かかる不安定な神霊祭祀の状況にあった時、神の「依り代」になったのは、第14代 仲哀天皇の崩御後に皇位を継承した神功皇后であり、次に第10代の崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命であった。 但し、この見解は、歴代天皇の時系列からすれば、「第10代から第15代の天皇は、同じ時代を生きた」とも言える「詰まった時系列」になる。「詰まった時系列」になる原因は、藤原鎌足による朝廷の書庫の放火と、この次男の藤原不比等による記紀編纂を通じた古代史の隠蔽・改竄・捏造にある。 藤原鎌足と藤原不比等という古代史の真実を計画的に抹消した邪悪な為政者の存在を考慮した場合、古代史を検証・評価する基準を『魏志倭人伝』(280~297頃)に求めざるを得ないためだ。 そして、藤原不比等の胸中を察するに、『ユダヤ教のタルムードに基づく「長期計画」を推進しながら国政を運営する公卿として、大和朝廷の草創期の原始キリスト教徒の皇統と歴史を、是が非でも改竄して封印しなければならなかった。また、国津神(古代ユダヤ教)の旧約時代の終焉と、天津神(原始キリスト教)の新約時代の到来を宣言して伝道した神功皇后と応神天皇を断じて容認できなかった』 と考えられる。 さて、記紀にある神の神勅と神武天皇の詔勅は、以下である。
a.第一神勅-天壌無窮の神勅- 三種神器を受け継ぐ天皇は、天地のごとく永遠不滅なり。
b.第二神勅-同床共殿の神勅- 神霊の現身の宝鏡を宮中に祀り、宮中での祭祀を欠かす勿れ。
c.第三神勅-斎庭稲穂の神勅- 神の御国の稲穂を与えるので、稲穂を主食として国民を豊かに養え。
d.第四神勅-神籠磐境の神勅- 二大天使は、本殿と拝殿のある神社を建て、神と皇室の為に斎ひ奉れ。
e.第五神勅-侍殿防護の神勅- 二大天使は、神社の侍として仕え、神社を良く防護せよ。
f .神武天皇-八紘為宇の詔勅- 八紘一宇とも言い、『皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん』 の四字熟語であり、『天皇の正義の大御心を全世界に広めた後に聖都を開き、全世界を争いのない一つの家とせよ。』 という意味である。 なお、上記の d.と e.にある「二大天使」とは、天照大御神に仕える神の御使いの天兒屋命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとたまのみこと)を指し、『聖書』にある大天使長のカブリエルとミカエルに相当する。(D) 伊勢神宮の内宮の創建
a.「内宮ご鎮座2000年」
伊勢神宮の内宮は、1996(平成8)年に「内宮ご鎮座2000年」を迎えた。 これを逆算すると、紀元前4年に伊勢神宮の内宮が創建された計算になる。 そして、紀元前4年は、人となって来た神である主イエス・キリストの降誕年だ。 この創建年には、『天照大御神を祭る最初の「元伊勢」は、紀元前4年に「同床共殿」(宝鏡奉斎)の神勅を守る天皇の宮中に起こった。 また、天照大御神の正体は、紀元前4年に降誕されたイエス・キリストだ』 という深意がある。
b.天照大御神を最初に祭った天皇は、誰なのか?
『聖書』の「神の民」の暮らす「神の国」の最高祭祀を担ってきた伊勢神宮が「由緒の後付」を行うことは有り得ないため、『紀元前4年に伊勢神宮の内宮は創建された』 と素直に考えた場合、『日本列島の大和朝廷の下で暮らすイスラエル人の預言者・祭司が、如何なる状況下でイエス・キリストの降誕の啓示を賜ったのか? また、天照大御神を最初に祭った天皇は、誰なのか?』 といった興味が尽きない。 もしかしたら、ユダヤ教の秋の仮庵祭初日に馬小屋で生まれた赤子のイエスを祝福するために遠方から来た『東方の博士たち』(マタイ2:1)とは、天使から『メシヤが降誕された』 と告げ知らされた日本列島に居たレビ族の祭司だったのかもしれない。
c.「同床共殿」(宝鏡奉斎)の終焉と、皇女の斎王による神霊祭祀の創始
紀元前4年以来、「同床共殿」(宝鏡奉斎)の神勅を守る天皇の宮中において、三種神器の一つである鏡を祭ってきたが、第10代 崇神天皇の御意に基づき、「同床共殿」を終えた。 この後、皇女を斎王 ※ として神霊の現身である鏡を奉斎してきた。 この神社を「元伊勢」と呼び、京都府 宮津市の籠神社など数多くの「元伊勢」がある。 なお、飛鳥時代の第40代 天武天皇(在位:673~686)は、娘の大来皇女(661~702、斎王:673~686)を伊勢神宮の斎王として仕えさせ、それまで皇室の慣習だった斎王を皇室の制度にした。
※ 斎王とは、全身全霊を以って神を礼拝し、その全生活を神に捧げる神の依代(御杖代)・ 神意を受ける巫女・ 最高祭司をいう。 また、斎王が忌み籠る宮を斎宮という。 南朝の後醍醐天皇(1228~1339)皇女の祥子内親王(斎王:1333~1334)を最後に斎宮制度は絶えた。
(9) 『聖書』の「旧約の民」(ユダヤ教徒)と 「新約の民」(キリスト教徒)の日本列島への渡来b.天照大御神を最初に祭った天皇は、誰なのか?
『聖書』の「神の民」の暮らす「神の国」の最高祭祀を担ってきた伊勢神宮が「由緒の後付」を行うことは有り得ないため、『紀元前4年に伊勢神宮の内宮は創建された』 と素直に考えた場合、『日本列島の大和朝廷の下で暮らすイスラエル人の預言者・祭司が、如何なる状況下でイエス・キリストの降誕の啓示を賜ったのか? また、天照大御神を最初に祭った天皇は、誰なのか?』 といった興味が尽きない。 もしかしたら、ユダヤ教の秋の仮庵祭初日に馬小屋で生まれた赤子のイエスを祝福するために遠方から来た『東方の博士たち』(マタイ2:1)とは、天使から『メシヤが降誕された』 と告げ知らされた日本列島に居たレビ族の祭司だったのかもしれない。
c.「同床共殿」(宝鏡奉斎)の終焉と、皇女の斎王による神霊祭祀の創始
紀元前4年以来、「同床共殿」(宝鏡奉斎)の神勅を守る天皇の宮中において、三種神器の一つである鏡を祭ってきたが、第10代 崇神天皇の御意に基づき、「同床共殿」を終えた。 この後、皇女を斎王 ※ として神霊の現身である鏡を奉斎してきた。 この神社を「元伊勢」と呼び、京都府 宮津市の籠神社など数多くの「元伊勢」がある。 なお、飛鳥時代の第40代 天武天皇(在位:673~686)は、娘の大来皇女(661~702、斎王:673~686)を伊勢神宮の斎王として仕えさせ、それまで皇室の慣習だった斎王を皇室の制度にした。
※ 斎王とは、全身全霊を以って神を礼拝し、その全生活を神に捧げる神の依代(御杖代)・ 神意を受ける巫女・ 最高祭司をいう。 また、斎王が忌み籠る宮を斎宮という。 南朝の後醍醐天皇(1228~1339)皇女の祥子内親王(斎王:1333~1334)を最後に斎宮制度は絶えた。
A. 語り部の口承によって日本列島にもたらされた『聖書』
古代には紙が普及しておらず、印刷技術も無かった。 このため、粘土に文字を刻んだ後に日干しにして記録を保管した粘土板・ 植物繊維を縦横に重ねて乾燥させたパピルス紙・ 羊や牛などの動物皮を引き延ばして乾燥させたシート状の皮の上に文字・記号を記した。 但し、古代の文書は、非常に希少であり、長期保存も困難であったため、『聖書』も、語り部による口承であり、文書化された『聖書』は、各王国に一つあるか無いかという状況であった。 例えば、南朝ユダ王国のヨシヤ王(在位:前640~前609)の第18年(紀元前621年)に、エルサレム神殿の改修工事を行った際、神殿の壁の中と推測される場所から「申命記」と考えられる「律法の書」を発見した。 『 「律法の書」に記されていた言葉を知ったヨシヤ王は、自分の衣を裂いたほど強い衝撃を受けた』 と、『聖書』の 2列王記22:8-11、2歴代誌34:14-15 に記されている。 しかも、紀元前722年に北朝イスラエル王国はアッシリア帝国に、紀元前587年に南朝ユダ王国はバビロニア帝国によって滅ぼされ、これらの帝国の捕囚となった状況下で、文書化された『聖書』を保管し続けることは不可能であったと考えられる。 さらに、日本列島の自然環境を考慮すると、降水量の多い湿潤な気候がもたらした酸性土壌であるため、土中に埋めた遺骨や鉄器は、数年間で溶けて消滅してしまい、羊の飼育にも適さない。 このような日本列島の自然環境における文書の長期保存は極めて困難であるが故に、語り部の口承をもって重要な記録を伝承し続けたと考えられる。 しかし、意図的に古代の文字・記号を残さなかった可能性も高い。 つまり、古墳に埴輪・土器などが残されている以上、その埴輪・土器などに「粘土板文書」のごとく文字・記号を刻むことができたにもかかわらず、この形跡がないからだ。 恐らく、神の啓示を受けた預言者や祭司が、『埴輪・土器・青銅器・鉄器・獣骨などに古代の文字・記号を刻印してはならない』 と厳命したのだろう。 この件に関する神の御意を察すると、『日本列島と日本文化の中に隠した「神の御計画」の秘宝を、悪魔・悪霊・悪人に察知されて略奪・破壊されることのないように御配慮された』 と感ずる。
B.藤原鎌足=百済王子の扶余豊璋と 古代朝鮮半島の真実
「大化の改新」(645)の前後の歴史に隠された古代史の「秘密」を解く鍵は、中臣(藤原)鎌足= 百済王子の扶余豊璋という歴史認識にある。 これを踏まえない限り、日本と世界の古代史の謎を解明できない。 そもそも、古代朝鮮半島は、神功皇后による「三韓征伐」以前から、任那日本府によって統治されていた日本の植民地であった。 日本は、祖国無き「流浪の民」のユダヤ人を筆頭とする多民族を日本に入国させることなく、古代朝鮮半島にあった日本の植民地に寄留させた。 具体的には、次の(A)~(C)のごとき歴史認識となる。
(A) 古代朝鮮半島の「辰韓→ 新羅」
辰韓=秦韓であるが、秦韓の「秦」とは、紀元前の中国の「秦帝国」ではなく、紀元後の西洋の「ローマ帝国」を指し示す。 そして、辰韓とか秦韓と呼ばれた新羅に寄留した豪族の筆頭は、秦氏だ。 つまり、辰韓~新羅は、ローマ帝国の圧政を逃れた秦氏を筆頭とする原始キリスト教徒の国であった。 辰韓~新羅 は、 ローマ帝国の圧政を嫌った原始キリスト教徒のユダヤ人の秦氏を指導者層とする原始キリスト教を信仰するローマ帝国の諸民族の寄留した国であり、ローマン・グラスが新羅でしか発掘されていないことからも、『新羅とは、新羅馬を表現していた』 と分かる。 また、日本固有の前方後円墳が、辰韓~新羅の領土内のみに存在したという考古学上の事実を踏まえると、『辰韓~新羅と大和朝廷との間には密接な関係があった。 つまり、辰韓~新羅は、大和朝廷の直轄地または前進基地であった』 と考えられる。 さて、辰韓~新羅に寄留していた秦氏などの原始キリスト教徒は、600年以前に日本列島への移民を完了した。 このため、新羅の指導者層は、秦氏から古代朝鮮半島の原住民に交代し、新羅の国力は急速に弱体化した。 唐が隋を滅ぼした618年の時期の日本(大和朝廷)は、イスラエル12支族と原始キリスト教徒の移民の受容を完了したが故に、新羅と百済から成る古代朝鮮半島を統治する政治的・宗教的な理由と必要性を失った。 このような情勢変化に乗じた唐は、新羅内の親唐派と連携しながら650年に新羅を完全に属国化し、660年に唐・新羅連合軍をもって百済を攻め滅ぼした。
(B) 古代朝鮮半島の「馬韓→ 百済」
高句麗の統治を原住民に委譲した扶余は、元来、秦始皇帝と同じユダヤ人から構成された古代ユダヤ教国であり、ローマ帝国によって70年に聖都エルサレムを破壊され、「流浪の民」と化した呪われたユダヤ教徒のユダヤ人の末裔 ※4 と合流した後に、馬韓を前身とする百済 を400~500年頃に占領統治し、百済へ本拠地を移した。 また、日本列島の中で古代ユダヤ教を奉ずる中臣氏との姻戚関係を強化した。 つまり、扶余のユダヤ人に占領統治された百済 は、ローマ帝国によって70年に聖都エルサレムを破壊され、「流浪の民」と化した呪われたユダヤ教徒のユダヤ人を指導者層とするユダヤ人の植民地であった。 但し、ユダヤ教徒のユダヤ人の植民地である百済は、弥生時代末期の150~250年頃に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇によって原始キリスト教国として樹立された大和朝廷に服属しながら、古代ユダヤ教を奉ずる中臣氏を頼って日本列島への移民を継続した。 ユダヤ教徒のユダヤ人の流出によって国力を失った百済は、660年に唐・新羅連合軍から攻め滅ぼされた。 しかし、百済が攻め滅ぼされた最終段階で、百済王子の扶余豊璋(=藤原鎌足)は、「大化の改新」(645)以前の631年から日本に滞在していたが、野蛮な「大化の改新」(645)を断行した後に百済王朝の再興を期して663年に白村江の戦いという唐・新羅連合軍との海戦に日本軍を巻き込んだ。 そして、扶余豊璋(=藤原鎌足)の未熟な軍事作戦のため、日本軍は優勢であったにもかかわらず、大敗を喫した。
(C) 古代朝鮮半島の「任那日本府→ 伽耶(加羅)→ 弁辰」
任那日本府~伽耶(加羅)~弁辰 は、ローマ帝国からシルクロードを経てきた物資と人材を日本列島へ海上輸送する物流と、日本(大和朝廷)の国防の前進基地であり、日本の領土であった。 第一波~第三波で日本列島に渡来した古代ユダヤ教を奉ずる初期の大和朝廷が、任那日本府を古代朝鮮半島の南端に設置した最大の理由は、第一波~第四波の全てのイスラエル人≧ ユダヤ人(イスラエル12支族)の日本列島への上陸を継続的に支援するためであった。 この上陸支援が平穏無事に行われている限り、国防上の安全も保障された。 任那日本府の設置は、第一波~第三波で日本列島に渡来したイスラエル人≧ ユダヤ人(イスラエル12支族)の末裔から成る大和朝廷によるものであり、この都の「ヤマト国」(邪馬台国)は、淡路島~四国~九州北部に在った。 そして、任那日本府の設置の時期は、50~150年頃と考えられる。 つまり、弥生時代末期の150~250年頃の仲哀天皇・神功皇后・応神天皇による原始キリスト教国としての正統な大和朝廷の樹立に先立つこと、約100年前である。
(10) 「乙巳の変」と「大化の改新」の真相
A.藤原鎌足の計画的な放火によって焼失した飛鳥時代の「朝廷の書庫」
飛鳥時代のものと思われる、羊皮紙に記された「シリア語聖書」(ペシッタ訳)の写本断片が、2004年に日本国内で発見されたが、用明天皇 ※1(在位:585~587)の皇子の聖徳太子(574~622)の時代まで、朝廷 ※2 の書庫の中にも「ヘブライ語聖書」(マソラ本文)の直訳である「シリア語聖書」(ペシッタ訳)が在ったと推測される。 しかし、聖徳太子没後の645年に起きた「乙巳の変」(いっしのへん)により、朝廷の書庫は完全に焼失した。 さて、最初に分析結果を述べておくと、『 「乙巳の変」(645)から顕著になった大和朝廷の内部における異常な事態の連続は、中臣(藤原)鎌足(614~669)が、その陰湿な謀略計画を実行して、正統な大和朝廷を簒奪したことによって始まった政変であった。 藤原鎌足の正体は、百済王子の扶余豊璋に他ならない。 そして、朝廷の書庫が、「乙巳の変」(645)の時に焼失した理由は、大和朝廷を簒奪した後の政権運営の障害とならないように日本と世界の古代史の真実を消し去ることを狙った藤原鎌足による計画的な放火であった』 というものである。
B.古代史の真実を封印するために藤原鎌足が「朝廷の書庫」に放火した「乙巳の変」(645)
「乙巳の変」とは、645年に女性の皇極天皇(在位642~645、重祚して斉明天皇 在位:655~661)の御前で蘇我入鹿が暗殺されると、この父親の蘇我蝦夷が、自己の館と朝廷の書庫に放火して自害したとされる事変である。 この事変の直後に中臣(藤原)鎌足(614~669)と中大兄皇子(後の天智天皇 626~671、在位:668~671)は、傀儡の孝徳天皇(596~654、在位:645~654)を擁立して「大化の改新」を宣言した。 焼失した朝廷の書庫には、現代社会の通説を覆す貴重かつ衝撃的な文献が数多く保存されていたのであり、『「大化の改新」の時に日本と世界の古代史の真実は封印された』 のである。 なお、「大化の改新」(645)前後から始まった異常な事態の連続は、正統な大和朝廷の断絶と統治機能の崩壊を物語っている。例えば、次の(A)~(E)のごとき史実がある。
(A) 百済王子の扶余豊璋は、対外的には「人質」という名目で631年から日本に滞在していたが、実際は国賓待遇であった。
(B) 傀儡の孝徳天皇が654年に崩御すると、斉明天皇が重祚し、中大兄皇子(天智天皇)は、崩御した孝徳天皇の独子の有間皇子(640~658)を658年に処刑した。
(C) 斉明天皇の重祚(655)から天智天皇の崩御(671)までの間、「元号」がなかった。
(D) 男性の皇位継承者が決まらずに女性天皇の践祚(即位)が相次いだ。
『 女性天皇一覧 』 全員が男系女子(男系女性天皇)であり、既婚の場合は皇后・皇太子妃であり、その夫が亡くなった後に践祚(即位)した。
0.神功皇后(明治政府が皇統譜から外した歴代天皇。 150年頃~247年 )
0.飯豊皇女(明治政府が皇統譜から外した歴代天皇。 400年頃~500年頃 )
1.推古天皇(第 33代、在位 592年~ 628年) - 第29代 欽明天皇の皇女、第30代 敏達天皇の皇后
2.皇極天皇(第 35代、在位 642年~ 645年) - 敏達天皇の男系の曾孫、第34代 舒明天皇の皇后
3.斉明天皇(第 37代、在位 655年~ 661年) - 皇極天皇の重祚(同一人物)
4.持統天皇(第 41代、在位 686年~ 697年) - 第38代 天智天皇の皇女、第40代 天武天皇の皇后
5.元明天皇(第 43代、在位 707年~ 715年) - 天智天皇の皇女、皇太子 草壁皇子(天武の皇子)の妃
6.元正天皇(第 44代、在位 715年~ 727年) - 草壁皇子の娘、独身
7.孝謙天皇(第 46代、在位 749年~ 758年) - 第45代 聖武天皇の皇女、譲位されて践祚、独身
8.称徳天皇(第 48代、在位 764年~ 770年) - 孝謙天皇の重祚(同一人物)
9.明正天皇(第109代、在位1629年~1643年) - 第108代 後水尾天皇の皇女、独身
10.後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年) - 第115代 桜町天皇の皇女、独身
注釈: 青字は、正統な大和朝廷を尊重した女性天皇。 赤字は、大和朝廷を簒奪した藤原氏の傀儡と化した女性天皇を示す。
(E) 飛鳥京の中に造営してきた皇居が、「大化の改新」(645)直後から政治的に不安定化し、異常な遷都を繰り返した。
『 遷都の歴史 』 「宮」とは皇居のある政庁を指し、「京」とは都市機能を備えた都の全体を指す。
① 飛鳥京(4世紀~694)奈良県=皇極天皇643~645、孝徳天皇645 ②↓、斉明天皇654~661、【 中大兄皇子(天智天皇) 661~667 】、「白村江の敗戦」 (663)③↓、 天武天皇673~686、称制の持統天皇690~694 ④↓
↓
② 難波宮(645~ 654)大阪府=「大化の改新」(645)直後に孝徳天皇が遷都した。孝徳天皇645~654、654年に斉明天皇(皇極天皇の重祚)が飛鳥板蓋宮に遷都した。① ↑ (744年に聖武天皇が別の難波宮を造営した。⑧↓ )
↓
③ 大津宮(667~ 672)滋賀県=667年(天智6年)に中大兄皇子(天智天皇)が不法遷都 した。称制の天智天皇668~671、「壬申の乱」(672)直後に天武天皇が飛鳥浄御原宮(673)に遷都した。① ↑ (大津宮は完全に破壊され廃都となる。)
↓
④ 藤原宮(694~ 710)奈良県=694年に持統天皇が遷都した。持統天皇694~697、文武天皇697~707、元明天皇707~710
↓
⑤ 平城京(710~ 740)奈良県=710年に元明天皇が遷都した。元明天皇710~715、元正天皇715~724、聖武天皇724~740 (聖武天皇は745年に⑨ 平城京に帰還した。)
↓
⑥ 恭仁宮(740~ 744)京都府=「藤原広嗣の乱」(740)直後に聖武天皇が遷都した。742~744年の間は離宮の紫香楽宮(後の甲賀宮)と併存した。
↓
⑦ 甲賀宮(742~ 745)滋賀県=742年に聖武天皇は離宮の紫香楽宮(後の甲賀宮)に移り、745年に「新京」にした。744~745年の間は難波宮と併存した。
↓
⑧ 難波宮(744~ 745)大阪府=744年に聖武天皇が遷都したが、紫香楽宮(後の甲賀宮)と併存した。翌745年に聖武天皇は平城京に戻り、平城京に遷都した。
↓
⑨ 平城京(745~ 784)奈良県=聖武天皇745~749、孝謙天皇749~758、淳仁天皇758~764、「藤原仲麻呂の乱」(764)を経て称徳天皇(孝謙天皇の重祚)764~770、光仁天皇770~781、桓武天皇781~784
↓
⑩ 長岡京(784~ 794)京都府=784年に桓武天皇が遷都した。 桓武天皇781~794
↓
⑪ 平安京(794~1192)京都府=794年に桓武天皇が長岡京から再遷都した。 桓武天皇794~806・・・ 以下省略。 なお、ヘブライ語の「イール・シャローム」(エルサレム)とは、「平安の都」 「平安京」という意味である。 そして、日本国における聖都エルサレムの再建に他ならない平安京への遷都(794)を完了した旧暦(太陰太陽暦・ユダヤ暦)の11月8日は、新暦(グレゴリオ暦)の4月16日に相当する。 つまり、平安京遷都を完了した日は、マサダ要塞に籠城してローマ帝国と最後まで戦ったユダヤ人の集団自決の日にしてユダヤ戦争(66~73)の終結の日でもあるため、『自決した汝ら同胞のユダヤ人の遺志は、ここ平安京に成就せり』 という追悼の意が込めらた。 ここに、ユダヤ人の悲願である聖都エルサレムの再建とユダヤ国家の樹立という周到な「長期計画」の目標を達成した。 これ以降、1192年に源頼朝が後白河法皇から征夷大将軍の官位を得て鎌倉幕府を開き、平安京の政府機能を失うまでの398年間、天皇を中心に据えた聖都であり続けた。 但し、『鎌倉時代以降も、平安京は京都と呼称され、政府機能を保ち続けた』 と考える場合、『1868年の明治維新の時に江戸が東京に改称され、東京遷都(1868)が行われるまでの1074年間にわたって都であり続けた』 ことになる。 さらに、『明治天皇が発布したのは「奠都宣言」だ。遷都は旧都を廃止するが、奠都は旧都を残す。奠都した天皇は、いずれ旧都に戻られる』 という「都」の名目争いもある。
注釈: 1.桃字は、女性天皇を示す。 2.【 中大兄皇子(天智天皇) 661~667 】 は、藤原鎌足に大和朝廷を簒奪された後に「白村江の敗戦」 (663)に陥った混乱期の天皇不在期間を示す。 3.聖武天皇(701~756、在位:724~749)は、藤原氏の傀儡となった皇室の混乱期間を示す。
a.「大化の改新」(645)に伴う遷都理由
従来の通説の「大化の改新」(645)直後の遷都理由としては、『古代豪族連合が土地と領民を地方分権的に支配していた氏姓制度を否定して、中央集権的な官僚制度に基づく統一国家を樹立する大改革を進めるために遷都した。 例えば、公地公民制・戸籍制・班田収授法・税制を新しく整備した。また、中国大陸では618年に隋が唐に滅ぼされた。 唐は、新羅と組んで高句麗と百済を支配するべく動き出したので、古来から深い関係にある百済を守るため、中国大陸・朝鮮半島との海洋航行に便利な瀬戸内海の要港である難波(大阪)に宮(皇居)を移す必要があった』 と言われる。 しかし、これは、歴史の本質を見失った建前論に過ぎない。 なぜなら、藤原鎌足を父祖とする藤原氏だけが朝廷を執念深く差配し続けた、その長期計画・祭祀支配・政治支配を説明できないし、飛鳥京からでも大改革を実施できた。 そもそも、藤原鎌足は、蘇我氏の進めていた内政外交上の大改革に反発して「大化の改新」(645)を起こしたのであり、この史実を隠蔽するための遷都理由だろう。 例えば、飛鳥京から難波宮への遷都(645)の22年後の事例になるが、「白村江の敗戦」 (663)後の中大兄皇子(天智天皇)が、飛鳥京から藤原氏の地盤である滋賀県の大津宮に不法遷都(667)して、この大津宮において「称制天皇」に就いた時と同様に、蘇我氏系の正統な大和朝廷を支える古代豪族連合の政治力の強い飛鳥京を離れて、その政治力の及ばない難波(大阪)に「亡命政権」を樹立したにすぎない。 また、難波(大阪)は、百済王子の扶余豊璋=藤原鎌足にとって古代朝鮮半島の百済との貿易を推進する上でも重要な港湾であった。
b.大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘い
異常な遷都を繰り返す中で行われていた大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘いを見てみよう。 藤原四兄弟は、「長屋王の変」(729)を仕掛けて天武天皇に繋がる反藤原氏の政治勢力を一掃すると、藤原不比等の娘の光明子を聖武天皇の皇后に据えることに成功した。聖武天皇は、光明皇后をはじめとする藤原氏に取り囲まれ、寵愛した息子の基王・安積親王2人の毒殺、「藤原広嗣の乱」(740)などの執拗な謀略活動に苦悩した挙句、娘の阿倍内親王に譲位した。阿倍内親王は、孝謙天皇として即位(749)したが、藤原氏は、天武天皇に繋がる反藤原氏の政治勢力を最終的に根絶する「捨て身」の「藤原仲麻呂の乱」(764)を起こした。 「藤原仲麻呂の乱」(764)に直面した孝謙天皇は、「捨て駒」の藤原仲麻呂と共に、天武天皇の男系である淳仁天皇・塩焼王をも鎮定・処分するに至った。 ここに、天武天皇系の皇子は潰え、藤原氏は、念願の天智天皇系の光仁天皇~桓武天皇の道を開いた。
c.藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画
日本軍による「真珠湾攻撃」(1941)を事前に把握していたユダヤ人の米国大統領 フランクリン・D・ルーズベルト(任期:1933~1945)は、『政治の世界では、偶然に起こる事件など、何一つない。もし何か事件が起こったとすれば、それはそうなるように周到に計画され、仕組まれたことなのだ。賭けてもいい』と語った。 これは、数世代にわたるタルムード・プロトコールを持つユダヤ人の常識を語ったものだ。 そして、藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画は、西洋社会におけるユダヤ人の数世代にわたるタルムード・プロトコールと完全に同一である。 なお、暗殺・毒殺・放火・謀略・虚偽・奸計・不正・悪業といった否定的感情に基づく藤原氏の邪悪な長期計画は、藤原四兄弟全員の疫病死(737)といった神の祟りを招いてきたし、「大化の改新」(645)によって正統な大和朝廷を簒奪した藤原氏は、神の祟りを常に恐れながら、遷都を繰り返した。
e.聖武天皇の頻繁な遷都a.「大化の改新」(645)に伴う遷都理由
従来の通説の「大化の改新」(645)直後の遷都理由としては、『古代豪族連合が土地と領民を地方分権的に支配していた氏姓制度を否定して、中央集権的な官僚制度に基づく統一国家を樹立する大改革を進めるために遷都した。 例えば、公地公民制・戸籍制・班田収授法・税制を新しく整備した。また、中国大陸では618年に隋が唐に滅ぼされた。 唐は、新羅と組んで高句麗と百済を支配するべく動き出したので、古来から深い関係にある百済を守るため、中国大陸・朝鮮半島との海洋航行に便利な瀬戸内海の要港である難波(大阪)に宮(皇居)を移す必要があった』 と言われる。 しかし、これは、歴史の本質を見失った建前論に過ぎない。 なぜなら、藤原鎌足を父祖とする藤原氏だけが朝廷を執念深く差配し続けた、その長期計画・祭祀支配・政治支配を説明できないし、飛鳥京からでも大改革を実施できた。 そもそも、藤原鎌足は、蘇我氏の進めていた内政外交上の大改革に反発して「大化の改新」(645)を起こしたのであり、この史実を隠蔽するための遷都理由だろう。 例えば、飛鳥京から難波宮への遷都(645)の22年後の事例になるが、「白村江の敗戦」 (663)後の中大兄皇子(天智天皇)が、飛鳥京から藤原氏の地盤である滋賀県の大津宮に不法遷都(667)して、この大津宮において「称制天皇」に就いた時と同様に、蘇我氏系の正統な大和朝廷を支える古代豪族連合の政治力の強い飛鳥京を離れて、その政治力の及ばない難波(大阪)に「亡命政権」を樹立したにすぎない。 また、難波(大阪)は、百済王子の扶余豊璋=藤原鎌足にとって古代朝鮮半島の百済との貿易を推進する上でも重要な港湾であった。
b.大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘い
異常な遷都を繰り返す中で行われていた大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘いを見てみよう。 藤原四兄弟は、「長屋王の変」(729)を仕掛けて天武天皇に繋がる反藤原氏の政治勢力を一掃すると、藤原不比等の娘の光明子を聖武天皇の皇后に据えることに成功した。聖武天皇は、光明皇后をはじめとする藤原氏に取り囲まれ、寵愛した息子の基王・安積親王2人の毒殺、「藤原広嗣の乱」(740)などの執拗な謀略活動に苦悩した挙句、娘の阿倍内親王に譲位した。阿倍内親王は、孝謙天皇として即位(749)したが、藤原氏は、天武天皇に繋がる反藤原氏の政治勢力を最終的に根絶する「捨て身」の「藤原仲麻呂の乱」(764)を起こした。 「藤原仲麻呂の乱」(764)に直面した孝謙天皇は、「捨て駒」の藤原仲麻呂と共に、天武天皇の男系である淳仁天皇・塩焼王をも鎮定・処分するに至った。 ここに、天武天皇系の皇子は潰え、藤原氏は、念願の天智天皇系の光仁天皇~桓武天皇の道を開いた。
c.藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画
日本軍による「真珠湾攻撃」(1941)を事前に把握していたユダヤ人の米国大統領 フランクリン・D・ルーズベルト(任期:1933~1945)は、『政治の世界では、偶然に起こる事件など、何一つない。もし何か事件が起こったとすれば、それはそうなるように周到に計画され、仕組まれたことなのだ。賭けてもいい』と語った。 これは、数世代にわたるタルムード・プロトコールを持つユダヤ人の常識を語ったものだ。 そして、藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画は、西洋社会におけるユダヤ人の数世代にわたるタルムード・プロトコールと完全に同一である。 なお、暗殺・毒殺・放火・謀略・虚偽・奸計・不正・悪業といった否定的感情に基づく藤原氏の邪悪な長期計画は、藤原四兄弟全員の疫病死(737)といった神の祟りを招いてきたし、「大化の改新」(645)によって正統な大和朝廷を簒奪した藤原氏は、神の祟りを常に恐れながら、遷都を繰り返した。
d.頻繁な遷都の原因
頻繁な遷都の原因は、邪悪な「大化の改新」(645)によって大和朝廷を簒奪したユダヤ教のタルムードを信仰する藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)に連なる藤原氏と、「壬申の乱」(672)に勝利した天武天皇に代表される正統な大和朝廷の回復に努めた原始キリスト教を信仰する古代豪族連合との政治的・文化的な闘いにあった。 そして、「壬申の乱」(672)に勝利した天武天皇の諸政策により、神武天皇に始まる日本建国精神と正統な大和朝廷は一時的に復興されたものの、藤原不比等の娘の光明皇后(701~760)に圧されて奈良に東大寺の大仏と全国に国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(701~756、在位:724~749)の御代に至ると、ユダヤ教のタルムードに基づく長期計画を持つ藤原氏が、再び朝廷を差配するに至った。 この間における大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘いが、異常な遷都の歴史の中に見出せる。 例えば、大和朝廷の簒奪派(藤原氏)は、大和朝廷の正統派(蘇我氏)と親密な秦氏などの古代豪族連合の政治的・文化的な影響力の強い飛鳥京から逃れ、別の宮(皇居)を設けて遷都しなければならなった。
頻繁な遷都の原因は、邪悪な「大化の改新」(645)によって大和朝廷を簒奪したユダヤ教のタルムードを信仰する藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)に連なる藤原氏と、「壬申の乱」(672)に勝利した天武天皇に代表される正統な大和朝廷の回復に努めた原始キリスト教を信仰する古代豪族連合との政治的・文化的な闘いにあった。 そして、「壬申の乱」(672)に勝利した天武天皇の諸政策により、神武天皇に始まる日本建国精神と正統な大和朝廷は一時的に復興されたものの、藤原不比等の娘の光明皇后(701~760)に圧されて奈良に東大寺の大仏と全国に国分寺・国分尼寺を建立した聖武天皇(701~756、在位:724~749)の御代に至ると、ユダヤ教のタルムードに基づく長期計画を持つ藤原氏が、再び朝廷を差配するに至った。 この間における大和朝廷の正統派(蘇我氏)と簒奪派(藤原氏)の熾烈な闘いが、異常な遷都の歴史の中に見出せる。 例えば、大和朝廷の簒奪派(藤原氏)は、大和朝廷の正統派(蘇我氏)と親密な秦氏などの古代豪族連合の政治的・文化的な影響力の強い飛鳥京から逃れ、別の宮(皇居)を設けて遷都しなければならなった。
聖武天皇の頻繁な遷都は特に異常だ。次のように4回も遷都した。 『 京都府の恭仁宮(740)⇒ 滋賀県の離宮の紫香楽宮(甲賀宮)(742)⇒ 大阪府の難波宮(744)⇒ 奈良県の平城京(745)⇒ 娘に譲位(749)』 頻繁な遷都の理由は、通説では、『政治権力を求めて反乱や謀略を企てる藤原氏に恐れを抱き、国家の非常事態を国民に警告するために「壬申の乱」(672)における大海人皇子(天武天皇)の行軍を再現した』と言われる。 しかし、聖武天皇の心身と御代を察すれば、『藤原氏に包囲された圧迫感、光明皇后の情緒不安と挙動不審、第一皇子 基王(727~728)の変死、大地震の多発、異常気象、星辰異変、大干ばつ、宮の火災多発、疫病の蔓延、水不足、食糧不足、大飢饉、天然痘の大流行(737)、藤原四兄弟の疫病死(737)、「藤原広嗣の乱」(740)、大仏造立の発願(743)、第二皇子 安積親王(728~744)の変死など、これら全ての災難凶事は神の祟りに間違いない。 心霊現象が頻発する宮中で落ち着いて眠ることもできない。 神の祟りの原因は何か? 全く解らない』 という苦悩と恐怖の心境にあり、光明皇后の勧めに従って、娘に譲位(749)するに至ったと考えられる。
f.神の祟りの原因は何か?
『神の祟りの原因は何か?』 という疑問にこそ、聖武天皇の頻繁な遷都の理由が見出せる。 つまり、『聖書』に従って神の御意を察すると、『藤原鎌足は、「大化の改新」(645)の時に大和朝廷の蘇我本宗家を陰湿な謀略によって殲滅し、朝廷の書庫に放火して日本と世界の歴史記録を抹消した。 今や、この次男の藤原不比等が、『古事記』(712)と『日本書記』(720)の編纂を終えた。しかし、藤原不比等は、初代の神武天皇以来、神の御意の下に建国された「神の国」の真実の歴史を消し去って、藤原鎌足を正当化するために歴史を改竄・捏造し、大和朝廷の正系である蘇我本宗家を悪者に仕立てることによって朝廷を差配するに至った。 一時的に天武天皇が正義の回復を目指したものの、「天武系の文武天皇の第一皇子の聖武天皇」とは名ばかりで、藤原不比等の娘の宮子を母に持ち、貴族を皇后とする慣行を破って邪悪な臣下の藤原不比等の娘の光明子をも皇后にした。 さらに、正統な大和朝廷を簒奪した藤原鎌足の末裔の藤原氏に惑わされ、藤原氏の傀儡となって日本全国に国分寺・国分尼寺を建立して仏教を普及奨励し、偶像礼拝の極みである巨大な大仏を奈良に建設中である。 これら全ては、神の御意の下に建国された「神の国」の歩むべき正しい道に反した悪業である。 従って、今や、祝福ではなく呪いを、恵みではなく災いを、悪業の数々に霊的な徴(しるし)をもって報いる』 ということになる。 つまり、神の祟りの原因は、『聖書』の中で何度も記されている神の怒りに他ならない。 しかし、聖武天皇は、藤原不比等によって真実を隠蔽・改竄・捏造された虚偽の歴史しか教わっておらず、「仏像を拝めば何か良い事がある」と考えて不可解な仏教を信仰し、しかも、伝統文化の神道の真実を知らないため、神の祟りの原因を理解しようにも理解できなかった。 なお、『伊勢神宮の神を厚く祭ったのは天武天皇が最後で、約1300年間を経てから、明治天皇が参拝した。 聖武天皇は、伊勢神宮の神を恐れており、鎮護国家の祈願で参拝するどころか、伊勢神宮に近寄ることも禁忌していた』 と言われる。 聖武天皇が伊勢神宮の神を恐れて禁忌した理由は、藤原氏の傀儡として神意に反した仏教の普及奨励を計ったのであるから、至極当然の恐怖感である。 そして、『742年~745年の複都制の間の聖武天皇は、寝ても覚めても不可解な心霊現象などの未知現象に困惑し続け、宮中における心の平安はなかった』 と推察される。
C.白村江の戦い(663)は、藤原鎌足の出身母体の百済王朝の政治勢力を守る戦い
秦韓の「秦」とは、紀元前の中国の「秦帝国」ではなく、紀元後の西洋の「ローマ帝国」を指し示す。 そして、かつて秦韓とか辰韓と呼ばれた新羅に寄留していた秦氏など、ローマ帝国の支配下にいた原始キリスト教徒は、600年頃までに日本への移民を全て完了した。 従って、新羅の指導者層は、秦氏などから古代朝鮮半島の原住民に交代し、新羅の国力は急速に弱体化した。唐は、弱体化した新羅を650年までに属国化して軍事同盟を締結すると、唐・新羅連合軍をもって、660年に百済を攻め滅ぼした。 しかし、631年から日本にいた百済の王子の扶余豊璋は、百済王朝の再興を期して斉明天皇と中大兄皇子(天智天皇)に唐・新羅連合軍との開戦を求めた。 このため、「乙巳の変」(645)に遭遇した皇極天皇の重祚である斉明天皇は、661年に唐・新羅連合軍との開戦を決断したが、間もなく崩御し、中大兄皇子(天智天皇)が唐・新羅連合軍との戦争計画を進めた。 極めて緊迫した国内外情勢を考慮した場合、斉明天皇の崩御にも、「暗殺」の二文字が浮かび上がる。 かくして、扶余豊璋を指揮官とする日本の水軍は、唐の水軍との海戦を繰り返し、最終的に古代朝鮮半島の黄海側に面した錦江河口の海上で、優勢な軍事力をもって唐の水軍との決戦に臨んだが、軍船間の指揮命令系統の混乱、気象・地形を無視した未熟な軍事作戦などを原因として敗北した。 これが、白村江の戦い(663)である。 なお、白村江の戦い(663)に至る日本の情勢と戦争の理由には謎が多い。 しかし、古代史を深く研究すれば、『百済王子の扶余豊璋の正体は、藤原鎌足であり、白村江の戦い(663)は、藤原鎌足の出身母体の百済王朝の政治勢力を守る戦いだった』 と分かる。 つまり、藤原鎌足の出身母体の百済王朝の政治勢力が滅びれば、シルクロード交易の重要拠点を失うと共に、正統な大和朝廷の復活を求める古代豪族連合の反乱を抑えられなくなるため、何としても、百済王朝の政治勢力を守る必要性があった。 さて、白村江の戦い(663)の後、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を攻め滅ぼした。そして、新羅は、古代朝鮮半島を676年に統一した。 この一方、白村江の戦い(663)に敗北し、百済王朝の再興を果たせなかった日本は、古代朝鮮半島の全地域の統治権を完全に喪失した。 同時に、大和朝廷による国造りとイスラエル12支族の日本列島への渡来完了を以って、古代朝鮮半島を統治する必要性も消え失せていた。 そして、白村江の戦い(663)に敗北した結果、邪悪な「大化の改新」(645)を断行した藤原鎌足と中大兄皇子(天智天皇)の政治勢力も、急速に衰えた。
D.「壬申の乱」(672)は、大和朝廷を簒奪した百済人の藤原氏に対する正義の鉄槌
( A) 大津宮へ遷都(667)、藤原鎌足の死去(669)、天智天皇の崩御(671)
白村江の戦い(663)に敗北し、唐の軍事侵略の脅威にさらされた飛鳥時代末期の667年(天智6年)、中大兄皇子(天智天皇)は、奈良県の飛鳥京から滋賀県の大津宮に不法遷都した。 不法遷都した理由は、「大化の改新」(645)の真相を知り、かつ、白村江の戦い(663)に敗北して百済王朝の政治勢力を失ったことを知る古代豪族連合が飛鳥京に根付いており、このままでは天皇に即位できないからであった。 このため、藤原氏の政治勢力の強い滋賀県の大津宮に不法遷都を行い、翌668年、大津宮で 称制 ※3によって天皇に就いた。 称制による天皇は、過去に前例がなかった。 ところが、悪運の尽きた藤原鎌足が669年に落馬による腰椎骨折を患って死去し、この後を追うように、病床にあった天智天皇も671年に崩御した。 すると、藤原鎌足と天智天皇の政治的かつ文化的な悪弊を受け継ぐ藤原氏と天智天皇の第一皇子の大友皇子(648~672)と戦う決意を固めた大海人皇子( 後の天武天皇: 生年不明、在位:673~686) は、正統な皇位継承者として古代豪族連合の援軍を得てから672年に挙兵した。 「壬申の乱」(672)という日本史上最大の内乱の勃発である。 そして、約1ヵ月間も続いた激戦の結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位し、645年の「乙巳の変」で失われた国史の編纂に着手した。 但し、『古事記』(712)の完成は、天武天皇の崩御(686)から26年後であった。 なお、『天武天皇は、天智天皇の弟ではない』 と考える歴史家が多い。一説によれば、『天武天皇は、藤原鎌足によって暗殺された蘇我入鹿の子だった』 という。 このように考えれば、大海人皇子(天武天皇)が、671年に病床の天智天皇から次の皇位継承を示唆されるや否や、身の危険を察知して宮中を去り、奈良県 吉野山の仏門に入って隠棲した理由も納得できる。
( B ) 藤原鎌足の墓
大阪府の高槻市と茨木市にまたがる阿武山古墳は、1934(昭和9)年、京都大学の地震観測所(現在の「阿武山地震観測所」)の工事中に偶然発見されたが、ほぼ100%の確率で藤原鎌足の墓だ。 しかし、発見当時の日本政府(二二六事件に遭難した岡田啓介内閣1934~1936)は、古代史の真実を畏怖するかのように埋め戻してしまった。 なお、「阿武」(アブ)とは、ヘブライ語で「父」を意味する。 アラム語では「アバ」と発音する。 藤原鎌足は、まさに藤原不比等たちの「父」であった。 また、「大織冠」などの副葬品を見ただけで、『阿武山古墳の被葬者は、ユダヤ人だ』 と分かる。 さらに、1971(昭和46)年に発見された東奈良遺跡は、阿武山古墳の南7キロに位置する、弥生時代から鎌倉時代における銅鐸の製造地・墳墓・住居の古代遺跡であるが、藤原鎌足の別邸(三島別業)の跡地でもあった。 この東奈良遺跡から1977(昭和52)年に出土したレンガ片(せん)が、阿武山古墳のレンガ片(せん)と同じ渦巻き文様と厚さであったことからも、『阿武山古墳は、藤原鎌足の墓である』と比定しうる。 しかも、東奈良遺跡からは、銅鐸の鋳型が発見されており、日本列島を銅鐸で測量して地図を製作した、渡来第一波~第三波のイスラエル人≧ ユダヤ人(イスラエル12支族)の「ゆかりの地」であった。
E.藤原不比等を特別に引き立てた天智天皇の娘である持統天皇
( A) 天智天皇(称制)の娘である持統天皇(称制)の失政
歴史の皮肉なことに、天武天皇が崩御(686)した後、天智天皇の娘である持統天皇(645~702、在位:690~697)が、称制を経て女性天皇として即位した。 持統天皇は、藤原鎌足の次男または天智天皇の落し胤である藤原不比等(659~720)を特別に引き立てた。 この藤原不比等が主導して、『古事記』(712)と『日本書紀』(720)を編纂し、古代史の真実を封印した。 さて、持統天皇は、694年に飛鳥京から藤原宮に遷都した。 新しい宮の名称が「藤原」と呼ばれたことからすれば、持統天皇は、夫の天武天皇が673年に大津宮から飛鳥京に遷都した、その大御心に反した藤原宮遷都(694)を行ったし、『持統天皇は、藤原氏の傀儡と化した。 また、藤原不比等にとって、女性の持統天皇を操ることは極めて容易であった』 と言える。
( B ) 「壬申の乱」(672)後も温存され伸張した藤原氏の政治勢力
藤原宮遷都(694)に至る時期の藤原氏の政治勢力について考察すると、白村江の戦い(663)で最終的に滅亡した百済の亡命人・難民を日本に受け入れ、これら百済人を加えた藤原氏の政治勢力は、「壬申の乱」(672)の後も温存され、藤原不比等を中心として持統天皇を自在に操作できるほどまでに伸張した。 なぜなら、先代の天武天皇の大御心は、原始キリスト教の愛と正義にあり、藤原氏に対しても、その残虐非道な諸行為の悔い改めを期待し、政治弾圧などの冷酷な対抗措置を講じなかったからだ。 このような天武天皇の大御心を逆手に取って、天武天皇の皇子・皇女の全員を謀殺したのが、ユダヤ教のタルムードを奉ずる藤原氏であった。
( C ) 天武天皇の大御心
天武天皇の大御心は、日本建国精神の回復を目指した諸々の政策に示された。 特に、「殺傷肉食禁断の詔勅」により、残虐な狩猟方法の禁止と 動物の生命を生命として扱わない残虐な家畜制度を禁止したこと。 また、娘の大来皇女(661~702、斎王:673~686)を伊勢神宮の斎王として仕えさせ、それまで皇室の慣習だった斎王を皇室の制度にしたことに現れた。 かかる天武天皇は、宗教・思想の問題に起因する数々の政治犯罪を繰り返した藤原氏の悔い改めを望み、殺傷を伴う処断をせず、寛容に采配した。
( D ) ユダヤ教のタルムードに基づく藤原氏の「悪の処世術」
天武天皇が崩御(686)されて持統天皇の御代になると、天武天皇の第三皇子の大津皇子(663~686)は謀反の嫌疑をかけられて自害、第二皇子の草壁皇子(662~689)は毒殺、第一皇子の高市皇子(654~696)も毒殺という具合に、天武天皇の皇子全員が、藤原不比等によって謀殺された。 この藤原不比等は、父親の藤原鎌足によって藤原氏の次世代を率いる最高指導者になるべく教育されていた。 藤原不比等は、赤子の頃から政敵の目に付かないように世間の衆目から慎重に隠され、藤原鎌足の持つ全能力と全知識を継承するべく、ユダヤ教のタルムードを中心とした英才教育を受けた。 そして、藤原氏にしてみれば、敵対勢力の皇子全員の謀殺は、必ず実行しなければならない藤原氏の世代を超えた既定路線(プロトコール)であった。 つまり、藤原鎌足が、その父祖のユダヤ人から受け継いだ「長期計画」(プロトコール)と、その具体的な実行手段は、藤原不比等と、その兄の定慧(643~666)に詳細に伝授されていた。 なお、藤原不比等の兄の定慧は、ユダヤ教のタルムードの悪の処世術に従い、仏教僧を装って出家した。 この後、『兄の定慧は、666年に飛鳥京の地で23歳にして亡くなった』 と伝わるが、藤原鎌足が669年に亡くなる3年前に長男の定慧が若くして亡くなったとは信じ難い。 また、藤原氏が編纂した『藤氏家伝』(760)の中に『定慧は百済人に毒殺された』と書いてあるが、毒殺は藤原氏の「お家芸」であって、犯人が被害者を装うがごとき政治的な作り話であろう。 つまり、藤原氏の出自は、ユダヤ教徒のユダヤ人である百済人であったにもかかわらず、『藤氏家伝』(760)の中で百済人による定慧の毒殺話を意図的に記述して、百済人の出自の史実を消去しようと努めたこと自体が、『百済人による定慧の毒殺話は、藤原鎌足による政治的な作り話であった』ことを雄弁に物語っている。 従って、『藤原不比等の兄の定慧は、23歳で亡くなってはおらず、藤原氏の全体を統率しながら藤原不比等の指南役として政治の裏側で暗躍した。 そして、ユダヤ教のタルムードに精通した仏教僧を装ったラビの定慧と 国政を差配した公卿の藤原不比等の両者にとって、敵対勢力の皇子を謀殺し続けたことに良心の呵責は微塵も無かった』 と考えられる。 かくして、『藤原不比等による天武天皇系の皇子の連続謀殺を幇助した持統天皇の心の闇は誠に深い』 、また、『藤原不比等たちは、死後の霊魂が地獄に堕ちる霊的な法則を理解しておらず、地獄の存在も信じていなかった』 と言わざるを得ない。
645年に起きた「乙巳の変」と「大化の改新」の真相は、日本の葛城県の飛鳥と斑鳩を本拠地とする蘇我氏系の原始キリスト教徒である聖徳太子(574~622)と 蘇我馬子( ~626)・ 蘇我蝦夷( ~645)・ 蘇我入鹿( ~645)が担っていた正統な大和朝廷を奪うことを目的とした、復古的なユダヤ教徒の藤原鎌足=百済王子の扶余豊璋による反乱クーデターであった。 この事実は、考古学調査と文献資料に基づく詳細な歴史研究によらずとも、次の( A )~( M )のごとき大局的な歴史観によって明らかだ。
( A ) 愛の戒めを守る原始キリスト教徒では絶対にありえない、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を殺害するという常軌を逸した蛮行
( B ) 大和朝廷の中枢にいた蘇我蝦夷が、自己の館と朝廷の書庫に放火して大和朝廷と古代朝鮮半島の歴史記録を抹消しなければならない政治的理由は微塵もないこと。
( C ) 原始キリスト教を土台とする飛鳥文化を塗り潰して隠すための仏教の普及奨励
( D ) 古代豪族連合の合議に基づいて大王(天皇の旧称)を選定していた飛鳥時代において、正統な天皇として即位できず、称制にすぎない天智天皇の極めて脆弱な御稜威(みいつ)
( E ) 唐が隋を滅ぼした618年以前の日本の外交政策は、辰韓~新羅と緊密に連携していた一方、飛鳥に敵対的な文化を持つ馬韓~百済の動向を警戒していたこと。
( F ) 「大化の改新」(645)の直後から急速に百済と緊密に連携するようになったこと。
( G ) 奈良県の狭い飛鳥地域の中に置かれ続けた宮(皇居)の所在地が、「大化の改新」(645)直後から政治的に不安定化し、異常な遷都を繰り返したこと。
( H ) 天智天皇の死亡直後に「壬申の乱」(672)という藤原鎌足と天智天皇の政治的かつ文化的な影響力を払拭する日本史上最大の内乱が勃発したこと。
( I ) 古代豪族連合の支持を得て「壬申の乱」(672)に勝利した天武天皇の内政と外交は、藤原鎌足と天智天皇の完全否定であったこと。
( J ) 藤原不比等による復古的なユダヤ教の色彩の濃い「大宝律令」(701)という律令体制の構築
( K ) 天武天皇の末裔が藤原氏によって計画的に滅ぼされた後、天智天皇の曾孫の桓武天皇(737~806)が、平安京に遷都(794)した際、原始キリスト教徒ではありえない、多くの牛を焼いて神に捧げるというユダヤ教に基づく「燔祭」を行ったこと。
( L ) 原始キリスト教徒の秦氏が、復古的なユダヤ教を土台とする平安京遷都(794)、即ち、聖都エルサレムの再建を見届けた直後に政治の表舞台から消えて隠棲したこと。
( M ) 『古事記』(712)と『日本書紀』(720)は、天智天皇を「兄」、天武天皇を「弟」と書き、また、天智天皇= 626~671年没(享年46歳)、 天武天皇=生年不明~686年没(享年65歳-皇室系図の『本朝皇胤紹運録』1426による-) と書いており、そもそも、国史の編纂を命じた天武天皇の生年を書いていないこと自体が、藤原不比等による作為を物語っていること。
G.『古事記』(712)と『日本書記』(720)の編纂責任者の藤原不比等による作為の事例
藤原不比等の作為の一つを見てみよう。 天武天皇686年没-天智天皇671年没=天智天皇は天武天皇の15年前に死没した計算になる。従って、天武天皇の享年65歳-天智天皇は天武天皇の15年前に死没=天智天皇の死没時に天武天皇は50歳だった計算になる。 つまり、天武天皇の50歳-天智天皇の享年46歳=天武天皇は天智天皇より4歳年上の「兄」であると判る。 藤原不比等は、このような記紀の内容の相違点を通じて、『記紀は、藤原不比等がユダヤ教の思想に基づいて、神話の真理と 古代史の真実を暗号化して隠した、記紀二つで一対を成す「合わせ鏡」である』 こと、また、『藤原不比等が、記紀の編纂を通じて日本と世界の古代史の真実を隠蔽して封印した』 ことを、後世の日本人(イスラエル人 ≧ ユダヤ人)に教えてくれている。 特に、藤原鎌足による「大化の改新」(645)を強引に正当化するため、藤原不比等が歴史を捏造して、蘇我氏を意図的に悪者に仕立てたことが判明している。 例えば、蘇我氏の邸宅や墳墓を発掘調査した結果、『日本書紀』の記述と違って、蘇我氏が、その臣民を尊重して極めて質素な生活を送っていたことなどが客観的に検証された。
H.仏教の普及奨励を計った藤原鎌足以降の藤原氏
ユダヤ教のタルムードの思想に立脚した藤原鎌足以降の藤原氏は、真実を知る極少数の支配者層が信仰する宗教と、欺かれているが故に無知に囚われている大多数の被支配者層が信仰する宗教とを厳密に区分する宗教政策を推進した。 つまり、古代ユダヤ教と原始キリスト教の教理と祭儀を起源とする神道と、人智が生み出した八万巻に及ぶ経典を持つ仏教とに区分し、大多数の被支配者層に対して、仏教の普及奨励を計った。 このような宗教政策は、ローマ帝国の皇帝の政治権力と結託するに至った反イエスのユダヤ人が、秘密結社に属するユダヤ人の信仰するユダヤ教と、欺瞞され無知に囚われたローマ帝国の諸民族の信仰するローマ・カトリック教会のキリスト教とに厳密に区分し、大多数の被支配者層に向けてローマ・カトリック教会のキリスト教を普及奨励した史実と重なり合う。 また、仏教とローマ・カトリック教会のキリスト教のいずれの宗教も、人の手で作られた生命の無い彫像や絵画に信心深く頭を垂れ、手を合わせて拝むという偶像礼拝の愚行を奨励してきた。 このように考えると、偶像礼拝を行わない古代ユダヤ教と原始キリスト教を信仰していた第二波と第三波と第四波のイスラエル人 ≧ ユダヤ人の末裔である蘇我氏とは異なる邪悪なユダヤ教のタルムードに従った藤原鎌足以降の藤原氏こそが、その宗教政策に基づき、大多数の被支配者層に向けた仏教の普及奨励を行ったと分かる。
I .仏教の悟り
人智が生み出した八万巻に及ぶ経典を持つ仏教の起源は、紀元前7~紀元前5世紀頃にインド北部、現在のネパール連邦民主共和国のルンビニーに生誕したチベット人と思しき シャーキャ族(サカ族)の釈迦と呼ばれるゴータマ・シッダールタの悟りに由来する。 釈迦の悟りは、「三諦」 「三法印」と呼ばれ、次のものだ。 本来の仏教とは、これ以上でもなければ、これ以下でもないため、数多くの経典によって欺瞞されたり、正常な思考を乱されてはならない。 但し、仏教の悟りの「三諦」は、『聖書』の教えとの齟齬はないものの、最も肝心な 「神」 「霊」 「愛」 「善悪」 「国家」 「民族」 「歴史」 といった基本概念が欠落しているため、『誤謬の多い人智の生み出した「哲学」にすぎない』 とわきまえ、深入りしてはならない。
諸行無常= 仮= 全ての存在は、常に変化し続ける。 --- 存在=物質=エネルギー=波動と粒子
諸法無我= 空= 全ての法則は、我という主体を持た無い。 --- 法則=自然・物理・心理の諸法則
涅槃寂静= 中= 上記を悟った心の状態は、煩悩のない静かな安らぎの境地である。
J.ユダヤ教のタルムードの思想に立脚した藤原氏の政治権力の拡大
奈良時代になると、仏教が国教同然となった。 そして、ユダヤ教のタルムードの思想に立脚した藤原氏の政治権力が拡大していく平安時代以降になると、『旧約聖書』の神 ヤハウェ(八百重、八重、天之御中主神)が、『新約聖書』の神 イエス・キリスト(太秦、五十鈴、天照大御神)であることを知る原始キリスト教徒の日本人(イスラエル人 ≧ ユダヤ人)は、「いろは歌」・ 日本民謡・ 神社神道の中に日本(ヤマト)の歴史と文化の真実を暗号化して隠した。
K.古代史の真実を封印して絶大な政治権力を維持し続けた藤原氏の功罪と日本人の未来
古代史の真実を隠蔽することによって藤原不比等以降の藤原氏は、皇室(天皇・皇族・宮家)の絶大な政治権力を我が物にすると同時に、頑固なユダヤ人の悲願であるユダヤ国家の樹立と聖都エルサレムの再建を、平安京遷都(794)以降、日本国の天皇を中心とする文化と制度という形で成就した。 この反面、「大化の改新」(645)の真実を隠蔽することによって皇室(天皇・皇族・宮家)の絶大な政治権力を我が物としてきた藤原氏は、そのユダヤ教のタルムードの宗教政策を原因として、日本人のアイデンティティーである明確な信仰と民族の出自を、はるか歴史の彼方に忘却させるに至った。 しかし、『聖書』の預言によれば、日本人(イスラエル人 ≧ ユダヤ人)は、これから、過去の歴史の封印を解き、日本文化の真実を知り、霊的に覚醒するに至る。※5
L.悪魔・悪霊に憑かれた藤原氏の邪悪なタルムードに基づく「家伝書」 「家訓集」(プロトコール)
『藤原氏は、次世代に引き継がれるユダヤ教のタルムードに則った「家伝書」 「家訓集」(プロトコール)を所蔵しており、「原始キリスト教を信仰する蘇我氏と天武天皇の家系を抹殺するために、その皇子の毒殺を容赦なく継続すべし」 といった邪悪な規定もあった』 と考えられる。 そして、『現代社会の冷泉家などの藤原氏の末裔に至るまで、ユダヤ教のタルムードに基づく「家伝書」 「家訓集」(プロトコール)を秘蔵してきた』 と言われる以上、日本人を騙しながら朝廷を差配してきた罪を贖って神の呪いを解き、また、歴史を客観的に検証するためにも、その秘蔵文献を早急に一般公開すべきであろう。 さて、具体的に 藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画の一端を見てみよう。 藤原氏の数世代にわたる邪悪な長期計画は、西洋社会におけるユダヤ人の数世代にわたるタルムード・プロトコールと完全に同一である。
(A) 天武天皇の第三皇子 大津皇子(663~686)は、686年に藤原氏から謀反の嫌疑をかけられ自害された。
(B) 天武天皇の第二皇子 草壁皇子(662~689)は、689年に藤原氏による毒殺と思しき死因によって薨去された。
(C) 天武天皇の第一皇子 高市皇子(654~696)は、696年に藤原氏による毒殺と思しき死因によって薨去された。 暗殺を幇助した持統天皇の懺悔の慟哭からして藤原京遷都(695)直後の高市皇子の毒殺は確実である。
(D) 草壁皇子の第二子の文武天皇(683~707)は、707年に25歳の若さで藤原氏による毒殺と思しき死因によって崩御された。 しかも、藤原氏によって編纂された『日本書紀』(720)と『続日本紀』(797)の中に毒殺された文武天皇の没年齢・功績・追悼の言葉が全く記録されていない。
(E) 高市皇子を父親とする長屋王 (684~729)は、729年に藤原四兄弟が仕組んだ「長屋王の変」(729)で自害された。
(F) 文武天皇の第一皇子 聖武天皇(701~756)は、749年に第一皇女である孝謙天皇(718~770、在位:749~758。重祚して称徳天皇 在位:764~770)に譲位された。 聖武天皇が譲位された理由は、第一に、「藤原広嗣の乱」(740)が起きたこと。つまり、藤原四兄弟の疫病死(737)によって朝廷を差配できなくなった藤原氏に蔓延した不満から、740年に九州の大宰府で挙兵した藤原広嗣(生年不明~740)が藤原氏の政治勢力を背景に反乱を起こすなど、朝廷の権威を失墜させた反乱事件が起きたこと。 第二に、聖武天皇の第一皇子 基王(727~728)と第二皇子 安積親王(728~744)の2人が藤原氏による毒殺と思しき死因で薨去した後、側女を迎えても男子が生まれず、聖武天皇直系の男子がいなかったため、正統な皇位継承者の誕生を待つ「中継ぎ」の体制を取ったこと。 第三に、実質的に朝廷を差配した藤原不比等(659~720)の娘である光明皇后(701~760)としては、藤原氏の完全復権に向けた「政局作りの譲位」(749)を聖武天皇に求めたこと。光明皇后の「政局作りの譲位」(749)は、功を奏し、「藤原仲麻呂の乱」(764)と、これに引き続く「政変」をもたらした。
(G) 『聖武天皇の第二皇子 安積親王は、744年に藤原仲麻呂(706~764、改名後の恵美押勝)によって毒殺され、安積親王の薨去をもって天武天皇の男系は途絶えた』 と言われる。 なお、光明皇后の信任を得て台頭した藤原仲麻呂は、孝謙上皇に寵愛された仏僧 道鏡(700頃~772)に反発しつつ、藤原氏の完全復権を狙って「捨て駒」を覚悟した「藤原仲麻呂の乱」(764)を起こすも、天武天皇の男系である淳仁天皇・塩焼王と共に鎮定され斬首となった。藤原氏は、この乱の結果、天智天皇系の皇子の即位と、後の平安京遷都(794)への道を開いた。
(H) 天武天皇の男系である塩焼王(氷上塩焼、生没年不詳)を父親とする氷上川継(生没年不詳)は、桓武天皇(737~806)と藤原氏の陰謀に翻弄された後に消息不明になった。 また、天武天皇の皇女の系譜も、藤原氏によって執拗かつ計画的に謀殺された。
( I ) 藤原氏の邪悪な悪業を神霊が見逃すことはなく、藤原氏には恐るべき祟りが襲い掛かり、疫病腐死者・ 錯乱狂死者・ 精神異常者・ 身体奇形者・ 奇病疾患者・ 天変被災者・ 不運宿業者・ 近親劣化者・ 凶悪犯罪者・ 虚偽宣伝者・ 醜貌怪異者が、相次いだ。 例えば、終戦後、神に呪われた藤原氏直系の近衛家が、不運宿業の連続に見舞われて苦悶困惑しながら自然消滅した。 通常であれば、大勢の一門が断絶することなど有り得ないが、『常識的に考えて、有り得ないことが起こるのは、神に呪われている証拠だ』 と言われる。
※1 天皇 は、『聖書』の神に守られた古代イスラエル王国のダヴィデ大王の直系の子孫であり、日本建国を果たした初代の神武天皇以来、天壌無窮にして万世一系の皇統と三種の神器を連綿と保ち続けている、古代ユダヤ教と原始キリスト教の教理と祭儀を起源とする神道の最高祭司であると同時に、精神文化を総覧する神聖かつ象徴的な元首としての大王である。 従って、神意を受けた時以外、世俗社会の政治権力を時の政権に委任する祭政分離を原則としてきた。 また、祭政一致の天皇親政は、旧体制を刷新する維新の時期に限定された例外の政治体制である。 なお、天壌無窮 とは、天地がきわまりないように、永遠に続くことをいう。
※3 称制 とは、天皇が崩御した後、次の皇位継承者が決まるまでの間、皇后または皇位継承候補者が践祚の式(即位式)を行わずに、天皇に準ずる者として政務を執ることをいう。 称制の天皇は、飛鳥時代の天智天皇と持統天皇の二事例のみである。 なお、摂政 とは、天皇に代わって政務を執ることをいうが、摂政と同時に天皇も存在する。
※4 「流浪の民」と化した呪われたユダヤ教徒のユダヤ人の末裔とは、マタイ 27:25 『・・・民衆(ユダヤ人)は みな答えて言った。「その人(イエス)の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」 』 と、『聖書』の神と ローマ帝国ユダヤ総督 ポンテオ・ピラト(在位26~36)に誓約したユダヤ人の末裔のことである。 そして、最後の第五波で、日本に渡来してきた百済系の中臣(藤原)鎌足= 百済王子の扶余豊璋、即ち、藤原氏のルーツは、呪われたユダヤ教徒のユダヤ人に他ならない。 但し、第五波で渡来してきた百済系のユダヤ人も、アブラハム・ イサク・ ヤコブに連なる「神の民」であって、アベルを殺したカインや黒人系ハムの子カナンの末裔という「悪魔の霊統」ではない。 藤原氏は、イエス・キリストの愛の教えを否定するユダヤ教の思想と感情を継承してきたが故に、悪魔に憑かれ易く、藤原不比等のごとく、世俗社会を操作する政治的な道具として悪魔に利用されてきた。 ちなみに、藤原不比等の子供の藤原四兄弟は、奈良時代前半の天平年間に朝廷を完全に掌握するに至るも、おぞましい皮膚病の天然痘が流行し、737年に藤原四兄弟の全員が病死した。 翻って、現代日本社会を鑑みると、『藤原氏の末裔である近衛家・ 鷹司家・ 九条家・ 二条家・ 一条家・その他、冷泉家・西園寺家・竹田家などの支流家による皇室の政治利用という悪業を誅滅しなければならない』 とわかる。 なぜなら、a.鎌倉時代末期~ 南北朝時代~ 室町時代~ 戦国時代における非正統の天皇の擁立など、正統な後醍醐天皇(1288~1339)に対する謀反から始まる日本史の気持ちの悪い恥部の全てが藤原氏の末裔の謀略に起因したこと。 b.『天智天皇(626~671)の第一皇子の大友皇子(648~672)は、天智天皇の後を継いだ天皇と考えられるから、弘文天皇(在位:672~672)と追号する』 と、明治3年(1870)に明治天皇(1852~1912)に裁可させたことなどの皇統譜の捏造。 c.『どうか韓国を大日本帝国に併合して下さい』と執拗に何度も嘆願してくる朝鮮半島人の「韓日合邦を要求する声明書」(1909)を受け入れ、伊藤博文(1841~1909)をはじめとする大日本帝国の臣民の大多数が反対していた日韓併合(1910~1945)を行い、日本人のアイデンティティーと真実の歴史を錯誤しながら朝鮮半島人との同化政策をとったが故に、この邪悪卑劣な血統と文化の遺伝子が戦後70年間も日本社会の混乱と腐敗堕落を招いたこと。 d.昭和天皇(1901~1989)を輔弼したフリーメーソン大東社会員の西園寺公望(1849~1940)と共産主義者の近衛文麿(1891~1945)ら藤原氏の末裔の金権主義と共産主義に囚われた機密漏洩行為に起因した大東亜戦争(第二次世界大戦)でのカタストロフィー的な敗戦。 e.『聖徳太子は存在しなかった』 『大化の改新は無かった』 という藤原氏の末裔と悪魔崇拝のフリーメーソン+イエズス会≧イルミナティ の利権を強化するための歴史の捏造。・・・ といった数々の「神に呪われた過ち」があったからだ。 しかも、藤原氏による皇室(天皇・皇族・宮家)の簒奪が起きた「大化の改新」(645)から丁度1300年間を経た時に、藤原氏の末裔が主導した大日本帝国と皇室(天皇・皇族・宮家)が、凄惨を極めた大東亜戦争(第二次世界大戦)の敗戦(1945)によって滅びた史実は、高度に霊的な見地からすれば、偶然ではなく、神の御意とも言える必然の結果であった。 また、大日本帝国の興廃の分岐点だった時期の1934(昭和9)年に藤原鎌足の眠る阿武山古墳が公に暴露された出来事も、『単なる偶然だ』とは言い難い。 従って、過ちを繰り返すことなく、森羅万象に関する真理・ 正義・ 愛を尊重する皇室(天皇・皇族・宮家)を護持するため、鎌倉時代末期~ 昭和時代初期に流行した『君側の奸を清む』や『蛭(ひる)に塩』 という格言を今後も厳守していかねばならない。 なお、日本史における「君側の奸」 とは、「大化の改新」(645)の時から皇室(天皇・皇族・宮家)にまとわりついた蛭(ひる)のような吸血寄生虫を指す。
※5 『聖書』の預言によれば、大患難時代末期に「主の日」を迎えた日本国の天皇は、御再臨の主イエス・キリストの御稜威を賜り、千年王国である世界連邦王国の大王として地上の諸王国と諸民族を平和的に統べることになる。 なお、ラビのモルデカイ・モーゼ(1907~不明)が、『日本人に謝りたい』(1979)を出版した1970年代に、欧米諸国にいるユダヤ人の指導者層も、『聖書』・ 日ユ同祖論・ 考古学等の研究成果に基づき、天皇の存在理由を明確に認識したと推測できる。 『日本人に謝りたい』は、極めて政治的な内容だが、現代史の真実を理解する上での必読文献だ。
(11) 飛鳥時代のものと見られる「シリア語聖書」(ペシッタ訳)の写本断片を発見
※2 朝廷 とは、天皇を中心とする日本国の政権(政府)を動かす皇室の精神的な権威をいう。 なお、皇室 とは、天皇家の一族を指し、天皇・皇族・宮家から成る。 また、最高祭司かつ大王である天皇以外の世俗的な君主の持つ政治権力を王権と呼ぶ。
※3 称制 とは、天皇が崩御した後、次の皇位継承者が決まるまでの間、皇后または皇位継承候補者が践祚の式(即位式)を行わずに、天皇に準ずる者として政務を執ることをいう。 称制の天皇は、飛鳥時代の天智天皇と持統天皇の二事例のみである。 なお、摂政 とは、天皇に代わって政務を執ることをいうが、摂政と同時に天皇も存在する。
※4 「流浪の民」と化した呪われたユダヤ教徒のユダヤ人の末裔とは、マタイ 27:25 『・・・民衆(ユダヤ人)は みな答えて言った。「その人(イエス)の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」 』 と、『聖書』の神と ローマ帝国ユダヤ総督 ポンテオ・ピラト(在位26~36)に誓約したユダヤ人の末裔のことである。 そして、最後の第五波で、日本に渡来してきた百済系の中臣(藤原)鎌足= 百済王子の扶余豊璋、即ち、藤原氏のルーツは、呪われたユダヤ教徒のユダヤ人に他ならない。 但し、第五波で渡来してきた百済系のユダヤ人も、アブラハム・ イサク・ ヤコブに連なる「神の民」であって、アベルを殺したカインや黒人系ハムの子カナンの末裔という「悪魔の霊統」ではない。 藤原氏は、イエス・キリストの愛の教えを否定するユダヤ教の思想と感情を継承してきたが故に、悪魔に憑かれ易く、藤原不比等のごとく、世俗社会を操作する政治的な道具として悪魔に利用されてきた。 ちなみに、藤原不比等の子供の藤原四兄弟は、奈良時代前半の天平年間に朝廷を完全に掌握するに至るも、おぞましい皮膚病の天然痘が流行し、737年に藤原四兄弟の全員が病死した。 翻って、現代日本社会を鑑みると、『藤原氏の末裔である近衛家・ 鷹司家・ 九条家・ 二条家・ 一条家・その他、冷泉家・西園寺家・竹田家などの支流家による皇室の政治利用という悪業を誅滅しなければならない』 とわかる。 なぜなら、a.鎌倉時代末期~ 南北朝時代~ 室町時代~ 戦国時代における非正統の天皇の擁立など、正統な後醍醐天皇(1288~1339)に対する謀反から始まる日本史の気持ちの悪い恥部の全てが藤原氏の末裔の謀略に起因したこと。 b.『天智天皇(626~671)の第一皇子の大友皇子(648~672)は、天智天皇の後を継いだ天皇と考えられるから、弘文天皇(在位:672~672)と追号する』 と、明治3年(1870)に明治天皇(1852~1912)に裁可させたことなどの皇統譜の捏造。 c.『どうか韓国を大日本帝国に併合して下さい』と執拗に何度も嘆願してくる朝鮮半島人の「韓日合邦を要求する声明書」(1909)を受け入れ、伊藤博文(1841~1909)をはじめとする大日本帝国の臣民の大多数が反対していた日韓併合(1910~1945)を行い、日本人のアイデンティティーと真実の歴史を錯誤しながら朝鮮半島人との同化政策をとったが故に、この邪悪卑劣な血統と文化の遺伝子が戦後70年間も日本社会の混乱と腐敗堕落を招いたこと。 d.昭和天皇(1901~1989)を輔弼したフリーメーソン大東社会員の西園寺公望(1849~1940)と共産主義者の近衛文麿(1891~1945)ら藤原氏の末裔の金権主義と共産主義に囚われた機密漏洩行為に起因した大東亜戦争(第二次世界大戦)でのカタストロフィー的な敗戦。 e.『聖徳太子は存在しなかった』 『大化の改新は無かった』 という藤原氏の末裔と悪魔崇拝のフリーメーソン+イエズス会≧イルミナティ の利権を強化するための歴史の捏造。・・・ といった数々の「神に呪われた過ち」があったからだ。 しかも、藤原氏による皇室(天皇・皇族・宮家)の簒奪が起きた「大化の改新」(645)から丁度1300年間を経た時に、藤原氏の末裔が主導した大日本帝国と皇室(天皇・皇族・宮家)が、凄惨を極めた大東亜戦争(第二次世界大戦)の敗戦(1945)によって滅びた史実は、高度に霊的な見地からすれば、偶然ではなく、神の御意とも言える必然の結果であった。 また、大日本帝国の興廃の分岐点だった時期の1934(昭和9)年に藤原鎌足の眠る阿武山古墳が公に暴露された出来事も、『単なる偶然だ』とは言い難い。 従って、過ちを繰り返すことなく、森羅万象に関する真理・ 正義・ 愛を尊重する皇室(天皇・皇族・宮家)を護持するため、鎌倉時代末期~ 昭和時代初期に流行した『君側の奸を清む』や『蛭(ひる)に塩』 という格言を今後も厳守していかねばならない。 なお、日本史における「君側の奸」 とは、「大化の改新」(645)の時から皇室(天皇・皇族・宮家)にまとわりついた蛭(ひる)のような吸血寄生虫を指す。
※5 『聖書』の預言によれば、大患難時代末期に「主の日」を迎えた日本国の天皇は、御再臨の主イエス・キリストの御稜威を賜り、千年王国である世界連邦王国の大王として地上の諸王国と諸民族を平和的に統べることになる。 なお、ラビのモルデカイ・モーゼ(1907~不明)が、『日本人に謝りたい』(1979)を出版した1970年代に、欧米諸国にいるユダヤ人の指導者層も、『聖書』・ 日ユ同祖論・ 考古学等の研究成果に基づき、天皇の存在理由を明確に認識したと推測できる。 『日本人に謝りたい』は、極めて政治的な内容だが、現代史の真実を理解する上での必読文献だ。
「クリスチャン新聞」 2004年5月2日号(いのちのことば社) シリア語聖書の写本断片、日本で発見--「6世紀のもの」と推定 。 シリア教会に古くから伝わり、今日も用いられているシリア語聖書、通称ペシッタ(Peshitta)のローマ書6・9b~11・4a の写本断片が、三重県津市の高等学術研究所所長 藪内憲雄氏(60)の手によって、このほど日本で発見された。聖書関係の古代言語の権威でライデン大学名誉教授の村岡崇光氏=オランダ在住=は、本紙が送った同断片のコピーを見て「非常に貴重な文書。 6世紀のものとみなされるだろう」と推測した。 同断片は、キリスト教歴史美術館を作るビジョンをもつ藪内氏が、昨年の12月に古物商を通して入手したもの。 7葉の羊皮紙に2欄に分けて記されている。幕末から明治期にかけて幕府、維新政府と両方で活躍した政治家 大鳥圭介(1832~1911)の旧蔵品だった。 ペシッタは、シリア語教会の伝統的な聖書で、英語でいえば欽定訳聖書に相当するという。 シリア語聖書も古代において様々な翻訳、改訂が試みられたが、ペシッタが過去1千500年ぐらい前からシリア教会の公認聖書として用いられ、今日に至っている。 村岡氏の調査によると、同断片は1922年にドイツのライプチヒ市の古物商ヒールゼマンによって競売にふされているという。 その時の目録に物件36番として3万5千マルクの値で売り出されている。 「目録に出ている簡潔な内容文が、同断片の1葉に紙片に書かれて添付してある。目録には写本断片の1葉の写真が掲載されており、それと日本にある同断片の1葉と完全に一致する。大鳥圭介死後、何らかの経路を経て同家の蔵書の中に加えられたものと思われる。 古物商ヒールゼマンが今もなお営業しているか、1922年の競売記録が残っていて誰が買い付けたかどうかは今後の調査を待ちたい」と村岡氏。同断片には紀元後7世紀のものであるという日本語の書き付けが残されているが、最近の研究では これより1世紀早く、6世紀のものとみなされるという。 「ペシッタが現在のような形でほぼ定着したのは早くて4世紀であろうから、同断片の重要性がうかがえる。ほかに知られている新約聖書のペシッタ写本でローマ書を含むものでは、大英博物館所蔵のものが6世紀のものだ」と村岡氏。 同断片は有名なシナイ山の聖カタリナ修道院の無数の貴重な写本の一部で、学界では「Sin syr 5」として知られているという。 ドイツ・ミュンスター大学の新約聖書本文研究所から最近出版されはじめたシリア語訳 新約聖書のローマ書の部分を作るにあたって使用された「Sin Syr 5」は、ローマ11・22から始まっており、同断片の発見を加えても11・4から11・22まで含んでいたとされる1葉と、1・1から6・9a までが今なお行方不明だということが今回の村岡氏の調査で明らかになった。 ミュンスター大学同研究所は、新約聖書のギリシャ語写本研究の拠点で、またネストレ版として知られるギリシャ語新約聖書の校定版を出版している。 発見者の藪内氏は 「江戸時代は鎖国制度があり、幕府にとって何の利益もないシリア語聖書を輸入する手段もなく、途中 日本に輸入される理由がないので飛鳥時代から江戸、明治まで空白の時代であったと思う。 大鳥圭介が景教の流れをくむ秦氏が亡命した播磨国(現兵庫県の一部)の医師の家に生まれ、景教の宣教師に医者が多かったことは、一つの手がかりになるのでは」と、同断片と景教に関連性があるのではないかと考えている。 村岡氏は「同断片がどういう経路を経たにしろ日本に到着したということはさまざまな想像をかき立てる。 この貴重な発見についてはすでにミュンスター大学の担当者ユッケル博士に報告してあり、現在 先方からの反応を待っているところだ。 短い論文を発表することも考慮している」と述べる。 なお、今回の調査には村岡氏と親交のあるオックスフォード大学、シリア文学の世界的権威ブロック博士の貴重な援助があった。【 藤岡竜志 】
【 2 】 ユダ族のダヴィデ大王の子孫に継承される王権の永遠性を記した聖句
( 天壌無窮 にして 万世一系の天皇に関する聖句 )
創世記 49:10
『王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。 ついにはシロ※が来て、国々の民は彼に従う。』 ※ シロとは、地名のシロではない。メシヤのことである。即ち、ナザレ人の主イエス・キリストにして、御再臨の主イエス・キリストのことである。
Ⅰ列王記 11:36
『彼(ソロモン)の子には一つの部族を与える。 それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。』
Ⅱ列王記 8:19
『主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。 主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。』
Ⅰ歴代誌 5:2
『ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのである。』
Ⅱ歴代誌 7:17-18
『あなた(ソロモン)が、あなた(ソロモン)の父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなた(ソロモン)に命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなた(ソロモン)の父ダビデに、「あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない。」と言って契約を結んだとおり、あなた(ソロモン)の王座を確立しよう。』
Ⅱ歴代誌 21:7
『主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。 主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。』
詩篇 132:11-12
『主はダビデに誓われた。 それは、主が取り消すことのない真理である。 「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。 もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。」』
エレミヤ書 33:17-21
『まことに主はこう仰せられる。 「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。 またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえ※をささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。」 エレミヤに次のような主のことばがあった。 主はこう仰せられる。 もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることが出来るなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。』
※ 「全焼のいけにえ」とは、文字通りに、牛や羊を焼いて神に捧げる「燔祭」のことではない。 伊勢神宮の斎宮で未婚女性の斎王が神意を受ける依代として一生涯を捧げたように、「全身全霊を尽くした礼拝」を意味する。 例えば、イザヤ 1:11-13 を読むと、神は、「いけにえに飽きた、喜ばない、むなしいささげ物をするな、忌みきらう、耐えられない、憎む、疲れ果てた」とあり、続く 1:16-17 で、「手の血を洗え、身を清めよ、悪事をやめよ、善をなせ、公正を求めよ・・・」とあるごとく、悪を離れて善を行い、心を尽くした礼拝を行う人が、「いけにえをささげる人」の意味である。
ミカ書 5:2
『ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。 その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』
【 3 】 聖徳太子(574~622)以前に編纂されたと考えられる日本民謡の中にあるヘブライ語【 2 】 ユダ族のダヴィデ大王の子孫に継承される王権の永遠性を記した聖句
( 天壌無窮 にして 万世一系の天皇に関する聖句 )
創世記 49:10
『王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。 ついにはシロ※が来て、国々の民は彼に従う。』 ※ シロとは、地名のシロではない。メシヤのことである。即ち、ナザレ人の主イエス・キリストにして、御再臨の主イエス・キリストのことである。
Ⅰ列王記 11:36
『彼(ソロモン)の子には一つの部族を与える。 それはわたしの名を置くために選んだ町、エルサレムで、わたしのしもべダビデがわたしの前にいつも一つのともしびを保つためである。』
Ⅱ列王記 8:19
『主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。 主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである。』
Ⅰ歴代誌 5:2
『ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのである。』
Ⅱ歴代誌 7:17-18
『あなた(ソロモン)が、あなた(ソロモン)の父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなた(ソロモン)に命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、わたしが、あなた(ソロモン)の父ダビデに、「あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない。」と言って契約を結んだとおり、あなた(ソロモン)の王座を確立しよう。』
Ⅱ歴代誌 21:7
『主は、ダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。 主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、約束されたからである。』
詩篇 132:11-12
『主はダビデに誓われた。 それは、主が取り消すことのない真理である。 「あなたの身から出る子をあなたの位に着かせよう。 もし、あなたの子らが、わたしの契約と、わたしの教えるさとしを守るなら、彼らの子らもまた、とこしえにあなたの位に着くであろう。」』
エレミヤ書 33:17-21
『まことに主はこう仰せられる。 「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。 またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえ※をささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。」 エレミヤに次のような主のことばがあった。 主はこう仰せられる。 もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることが出来るなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。』
※ 「全焼のいけにえ」とは、文字通りに、牛や羊を焼いて神に捧げる「燔祭」のことではない。 伊勢神宮の斎宮で未婚女性の斎王が神意を受ける依代として一生涯を捧げたように、「全身全霊を尽くした礼拝」を意味する。 例えば、イザヤ 1:11-13 を読むと、神は、「いけにえに飽きた、喜ばない、むなしいささげ物をするな、忌みきらう、耐えられない、憎む、疲れ果てた」とあり、続く 1:16-17 で、「手の血を洗え、身を清めよ、悪事をやめよ、善をなせ、公正を求めよ・・・」とあるごとく、悪を離れて善を行い、心を尽くした礼拝を行う人が、「いけにえをささげる人」の意味である。
ミカ書 5:2
『ベツレヘム・エフラテよ。 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。 その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。』
日本語の歌詞 ⇒ ヘブライ語の発音 = ヘブライ語の意味
★ 国歌 「君が代」
君が代は ⇒ クー・ ムー・ ガー・ ヤーウェ
= 力強く、立ち上がる、偉大なる、ヤーウェ
千代に 八千代に ⇒ チヨニ・ ヤチヨニ
= シオン、神のシオン(神の選民)
細石の ⇒ サッ・ サリード・ イェシャノ
= 喜べ 残りの民、万人を救う
巌となりて ⇒ イワ・ オト・ ナーリァタ
= 神の、預言が、成就する
苔の生すまで ⇒ コーカノ・ ムーシュマッテ
= 全地にあまねく、宣べ伝えよ
★ 「かごめ かごめ」
かごめ かごめ ⇒ カーゴー・ ミ カーゴー・ ミ
=(箱を)囲むのは、誰 (箱を)守るのは、誰
籠の中の鳥は ⇒ カーゴーノェ・ ナーカーノェ・ トーリード
= 封印して守護され、閉鎖して安置された、(箱から神器を)取り出せ
いついつでやる ⇒ イーツィ・ イーツィ・ ディーユゥール
=(神器が)納められ、(秘密の場所に)隠された、契約の箱
夜明けの晩に ⇒ ヤァ・ アカール・ バーニティ
=(契約の箱から)神器を、取り出し、(別の箱を)造った
鶴と亀がすべった ⇒ ツーラト・ カーメア・ スーベシーダ
=(契約の箱と同じ)形をした、御守りを、代用品として
後ろの正面だあれ ⇒ ウーシラット・ ショーメン・ ダーラー
= 統治せよ、未開の土地に、水を引いて
★ 「さくら さくら」
さくら さくら ⇒ シェケラ・ シェケラ = 隠れた、隠れた
やよ いの 空は ⇒ ヤェー・ イノ・ サラー = 唯一の神が、迫害され 、耐えて
見わたす 限り ⇒ ミワタス・ カグリ = 死んだ、犠牲として
かすみか 雲か ⇒ カサムカ・ クマッカ = くじ引きにされ、取り上げられた
匂いぞ 出ずる ⇒ ニホッゾ・ イズル = 素晴らしい、神の契約
いざや いざや ⇒ イザヤ・ イザヤ = 神の救い、神の救い
見に ゆかん ⇒ ミンッ・ ユカーン =(救いの)捧げものは、(救いを)成し遂げた
【 4 】 日ユ同祖論の参考動画
★ 日本語とヘブライ語の類似性 (29:47)
https://youtu.be/PvtI1akmzTE
★ 四国・徳島県にある剣山(標高1955m)の考古学的な調査 (19:55)
https://youtu.be/5gzQqUBjzE0
★ 大和朝廷のルーツは、古代イスラエル王国にある (14:23) ----- 2015年10月に削除
https://youtu.be/OjXbrGsQ70Y
★ ヘブライ大学 名誉教授 ベン・アミー・シロニー博士の「日本人論」 (52:34)
https://youtu.be/3BzKKIMKKTo
★ 天狗の正体は、日本列島に渡来した古代イスラエル人だった (10:26)
https://youtu.be/crKpCZe3LQg
★ 相撲は、古代イスラエル人の神事だった (12:10)
https://youtu.be/MD9mP_k_BYE
★ サバタイ派フランキストの秘密結社に対する審判 (26:27)
https://www.youtube.com/watch?v=AmnRTCcYccs
相撲は、古代イスラエル人の誕生の原点を記念する神事だった。 『聖書』の「創世記」32:28 によれば、ヤボク川の川辺(ペヌエル)で、ヤコブと夜明け近くまで格闘した、人の姿をした天使が、ヤコブに向かって、『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。 イスラエルだ。 あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』 と祝福した。 また、「創世記」35:10 に、『神は彼(ヤコブ)に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。 あなたの名はイスラエルでなければならない。」 それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。』 と書いてある。 こうして、ヤコブの12人の息子たちが、イスラエル12支族の祖先となったのであり、この重大な歴史を記念する神事が、相撲の始源である。 なお、「スモー」とは、「彼(ヤコブ)の名」を意味し、「イスラエル」とは、「神の戦士」 「神は力強い」 「神の統治」 を意味する。 また、行司の掛け声の「ハッケ・ ヨイ・ ノコッタ」 とは、「投げつけよ! やっつけよ! やった!」 という意味である。
【 5 】 宗教・思想に関する一般論
(1) 宗教・思想という信仰心・価値観を少しでも侵害・否定されたら、人のアイデンティティーは崩壊する。
(2) 宗教・思想の問題は、人のアイデンティティーに根差した精神的・霊的な問題である。
(3) 人は、「自己の信仰心・価値観を少しでも否定した物事を抹殺したい」という邪悪な否定的感情を抱く。
(4) 人の否定的感情を生産(培養)し、これをエネルギー源として消費(吸収)する悪魔・悪霊の働きがある。
(5) 否定的感情に支配された人は、悪魔・悪霊に憑かれ、そのマインド・コントロールを受ける。
(6) 宗教・思想の問題は、経済・政治・法律の諸問題から派生したのではない。
(7) 経済・政治・法律では宗教・思想の問題という精神的・霊的な問題を解決できない。
(8) 経済・政治・法律の諸問題は、宗教・思想に基づいて築かれた制度上の欠陥に原因がある。
(9) 宗教・思想の問題は、話し合って解決できる問題ではなく、最初から話し合いにならない。
(10) 教育も、宗教・思想の産物であり、教育では宗教・思想の問題を解決できない。
(11) 宗教・思想の問題は、時間の経過を待ちつつ、その真偽・善悪・正邪を実証し続けて解決する問題である。
(12) 人は、宗教・思想の違う人と、何をどうやっても、うまくいかず、必ず嫌いになる。
(13) 如何なる力をもってしても、人と社会から多様な宗教・思想を消し去ることはできない。
(14) 人は、「愛」の信仰心・価値観・肯定的感情を抱きながら、「愛」のある社会を創る義務がある。
(15) 万人が「愛」を持たない限り、悲劇的で悲惨な抗争・迫害・テロ・紛争・戦争は無くならない。
(16) 多様な宗教・思想は、相互に、その信仰心・価値観を侵し合い、否定的感情を生み続ける。
(17) 決して解決されない宗教的・思想的な対立が続き、『聖書』の預言は必然的に成就する。
(18) 『聖書』を正しく解読できる、自称しない真の預言者エリヤの霊に従う人は幸いである。
【 番 外 編 】 日ユ同祖論の研究内容を公表すると、変な言葉使いの在日朝鮮人や日本国籍の朝鮮人たちが、異常に興奮しながら誹謗中傷してくるが、冷静になって客観的に検証してほしい。 また、神社仏閣に放火したり、その石像を破壊する犯罪行為が続発しているが、これらの犯罪行為は、誰の利益にもならないため、止めてほしい。 (・・・2015年4月23日に愛知県の稲荷社の拝殿祠全焼、 2015年4月25日に福岡県の警固神社の石像4体全破壊、 2015年5月7日に千葉県の鋸山日本寺の聖徳太子像破壊、 2015年4月9日に千葉県の香取神宮に油を撒いた器物損壊罪により米国在住の韓国キリスト教会インターコープ 系の I M M 創立者 1979年-昭和54年-に日本国籍を取得した元韓国人男性医師 金山昌秀(金昌秀)52 に 2015年6月1日 逮捕状・・・)
公開2015(平成27)年4月16日(木)05:22
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