2018年3月23日金曜日

『 エクソシストの現状認識 』



【 1 】キリスト教のカトリック教会の「エクソシスト」

(1)悪魔・悪霊を祓う神の御業(みわざ)
「エクソシスト」とは、悪魔・悪霊に取り憑かれた人の心身から悪魔・悪霊を祓い、追い出し、本来の健康状態の回復に努める、キリスト教のカトリック教会の「悪魔祓い師」をいう。人に取り憑いた悪魔・悪霊を祓う「エクソシスト」の不思議な霊力は、神に由来する。日本国内のカトリック教会は、「エクソシスト」を「祓魔師」(ふつまし)と訳した。 

(2)ローマ・カトリック教会に対する評価
カトリック教会の雄であるローマ・カトリック教会の「エクソシスト」に対する知見を深めた結果、悪魔サタンに2千年間も攻撃されてきたカトリック教会に対する先入観・偏見・誤解を自覚して反省し、カトリック教会を全面的に否定する愚行を止め、部分的に肯定した。また、今後のローマ・カトリック教会に対する神の恩寵の消長を見守りながら、その有為な「エクソシスト」の更なる活躍を望む。但し、『新約聖書』の『ヨハネの黙示録』の聖句を忘れてはならないと思う。即ち、黙示録17:3-5『ひとりの女』『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』、黙示録17:18『あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。』、黙示録18:4『わが民よ。その女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。』と書いてある。つまり、「女」とは、カトリック教会で、「大きな都」とは、ローマである。そして、この「淫らな母」の娘が、プロテスタント教会である以上、旧教のカトリック教会と新教のプロテスタント教会の教理と祭儀は、いずれも、「形骸化→ 世俗化→ 異端化→ 悪魔化」の過程を経た部分が非常に多いことを承知しておかねばならない。

(3)『聖書』の真理を明確に認識する「エクソシスト」
悪魔・悪霊に憑依される「精神的・霊的な扉」を開く人の行為は、タロット・カードなどの占いを受け、アルコール薬物中毒・小児性愛・児童ポルノなどの悪習慣を続け、カルト信仰・邪悪思想を抱き、憎悪心などの否定的感情に支配されて行う詐欺・強盗・強姦・殺人等の凶悪犯罪であるが、これとは反対に、心の清らかな聖人君子、教会等の聖職者、経済的影響力のある国際金融資本家、政治・行政を差配する政治家・政府高官も、悪魔・悪霊の霊的領土の拡大のために悪魔・悪霊に執拗に狙われ続け、利己的で金銭欲の強い精神状態に陥った時に憑依されてしまう。このような事情経緯で悪魔・悪霊に取り憑かれてしまった多くの人々と直に接触する「エクソシスト」は、『聖書』の真理を明確に認識するようになる。なぜなら、悪魔・悪霊に取り憑かれた人々の示す反応や、そのメッセージを通じて、人智の及ばない『聖書』の「行間」までを理解できるようになるからだ。例えば、「エクソシスト」のガブリエーレ・アモルト神父(享年91歳)の記事にある彼の「現状認識」は、霊的に鋭敏で正確だ。また、悪魔・悪霊のメッセージにある『地獄の最高監督者は、神ではなく聖母マリアだ。また、「地獄は、時間が止まっている」という意味で永遠だ』という情報は、様々な未知現象の研究結果と符合する。但し、このように判断した指標は、主観的で霊的であるが故に、『「現状認識」の正誤の判断は、各人の精神レベルに応ずる』としか言いようがない。



【 2 】「エクソシスト」のガブリエーレ・アモルト神父(享年91歳)の記事

(1)「エクソシスト」の報道
「悪魔払いを7万回」世界的エクソシストの神父が死去。ハリポタ批判などで物議( 吉川慧 / The Huffington Post / 2016年9月21日 )  エクソシスト(悪魔祓い師)として世界的に知られたガブリエーレ・アモルト神父が死去した。91歳だった。2016年9月17日、ニューヨークタイムズなどが報じた。 ローマのリハビリ施設「サンタルチア財団」によると、アモルト神父は最近体調が悪化。療養先だったローマの病院で亡くなった。財団によると、長年にわたって呼吸器系疾患を患っていたという。 アモルト神父は1954年に司祭に任じられた後、1986年からローマ教区でエクソシストとして勤務。エクソシストの第一人者として知られたカンディド・アマンティーニ司祭に師事し、1990年には「国際エクソシスト協会」(AIE)を設立。2000年に引退するまで会長を務めた。 アモルト神父は、「生涯に7万回以上のエクソシズム(悪魔祓い)を行った」と主張。これまでにエクソシズムに関する多くの著作を発表し、世界的に知られていた。 アモルト神父は、社会的な出来事について自らの見解を発表することもあった。2015年にはイスラム過激派テロ組織IS(イスラム国)について「ISはサタンだ。まずは精神的な領域で事態は起こり、そして地球上に顕現するだろう」と表明。その上で、「悪魔は、政治的なもの、文化的なもの、宗教的なもの、様々な方向から、人々を偽りでダマす。私がキリスト教徒として、獣(悪魔に支配された政府)と精神的に戦う」と、Facebookに投稿した。 その一方で、極端な物言いで物議をかもすこともあった。 人気小説「ハリー・ポッター」シリーズを「子供たちに黒魔術を信じ込ませるもの」として非難。 古代インド発祥の「ヨーガ」については、人々をヒンドゥー主義へと誘う「悪の源」と批判したこともあった。 また、インタビューの中で「ナチスの全員が悪魔に取り憑かれていたと確信している。ヒトラーやスターリンも悪魔に取り憑かれていた」と発言したこともあった。 悪魔を祓う「エクソシスト」とは?  エクソシストには、教区司教の認可を受けた神父だけが就ける。エクソシズムは厳密に定められた儀式に則って行われ、「悪魔に憑かれた者」に聖水をかけ、十字架にキスをさせて悪魔を追い出す。その際、「悪魔よ、我は汝に命じる」「悪魔よ、帰れ」などの決まり文句がある。 新約聖書の福音書では、悪魔・悪霊は「誘惑する者」「憑依する者」「病気の原因」「うそをつく者」「神の御国の敵対者」として現れ、悪魔・悪霊を追い出すのは、神の力によるものとしている。 新約聖書には、キリストが悪魔祓いをした記述もある。 1999年にローマ教皇庁は、1614年に定めたエクソシズムの儀式を初めて改訂。エクソシストに精神科医などと連絡を密にすることを義務づけ、医学的な治療を必要とする患者と「悪魔に取り憑かれた」と思い込んでいる人を区別するよう定めた。

(2)「エクソシスト」の映画
『悪魔祓い、聖なる儀式』(イタリヤ語: LIBERAMI )は、2016年9月7日に公開されたフランス・イタリヤ合作のドキュメンタリー映画だ。日本では2017年11月18日に公開された。この映画では「悪魔祓い」の派手なシーンを収録したが、大抵の「悪魔祓い」は、内面的で眼に見えない精神的・霊的な「浄化」「清め」であるため、悪魔・悪霊に取り憑かれた当事者と、これを祓う「エクソシスト」の外面的な態度は、至って平穏で、静かに祈り続けている時間が最も長い。 また、ガブリエーレ・アモルト神父の悪魔祓いの生涯を記録したウィリアム・フリードキン監督のドキュメンタリー映画『The Devil and Father Amorth / 悪魔とアモルト神父』2018年4月20日に米国で公開された。 参照: http://www.cetera.co.jp/liberami/





【 3 】悪魔パスクワレ・ドゥ・カパリーノのメッセージ(出典:5ch「心と宗教」偽幻視者被害者スレッド 2001/07/11(水) 03:33 )校正・編集済み

■1.祓魔式(エクソシズム)1972年1月
1972年1月、スイスで行われたローマ・カトリック教会の祓魔師による祓魔式(エクソシズム)の最中、生前はフランス人の画家であったが死後に地獄の悪魔と化したパスクワレ・ドゥ・カパリーノ(Psquale de Capalino)が、ドイツ語を話す21歳のスイス人男性に取り憑いてメッセージを残した。 なお、悪魔を名乗ったパスクワレ・ドゥ・カパリーノは、1806年4月13日にパリで死亡した実在の人物であった。


■2.悪魔の告白
私は生前、何ごとも信じなかった。だから、こんな有様、悪魔として知られる最低の生き物になった。私は悪魔だが、低級ではなく高級な悪魔だ。私は芸術家だった。ヴァレンチオに並ぶ画家だった。私に絵描きを教えたのは奴(悪魔)だ。私はパリに絵を習いに行き、そこで死んだ。私は悪魔を信じていたが、悪魔がこれほど人間に大きな影響を与えているとは知らなかった。私は無神論者だったが、フリーメイソンではなかった。こんな有様になったのは、宗教生活を軽く見ていたからだ。私は「神は厳しくはない」と思っていたが、まったくの誤解だった。誤解のおかげで、こんな惨めな状態にいる。これが1000年でも3000年でもなく永遠に続く。終わりはない。ここは時間の止まっている世界。永遠、永遠なのだ。人は永遠について考えないが、毎日、毎日、それは近づいてくる。おまえらの体は毎日少しづつ死んでいる。目には見えなくとも、おまえらは毎日年をとっていく。月日を重ねれば目に見えてくる。おまえらは確実に老いている。神なしに生きたとしても、ある程度、宗教的になれるかもしれないが、完全ではない。だが、「最高者」は、完全を求めている。これだけは言いたい。私は好き好んで、こんな話をしているのではない。それは信じてよい。これを話すのは非常につらい。おまえらが天国の栄光に入る助けになるからだ。それが私を憎悪でいっぱいにする。他の者たちが光を歓び、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな』と楽しそうに歌う姿には我慢ならない。私がこんなことを言わなくてはならないのは、“最高の女王”(聖母マリア)が、そうさせているからだ。これは苦しみだ。おまえらに言いたいことがある。不信心な大衆・罪人・情欲を追い求める輩・人殺し・無宗教者のおまえら全員にだ。おまえらは信仰を真面目に考えるべきである。祈りに真剣になるがいい。おしゃべりではなく、祈りが世界を助けてきた。おしゃべりは実を結ばない。私のいうことを信じてよい。「祈りが多くの実を結ぶ」というのは、おまえたちが祈るときに、我々が、それを感じるからだ。それが分かるのは、祈りによって、我々が、かき回されるからだ。我々は非常に神経質になる。世界の人々は、救われるのに十分祈っていない。世界の人々に対する罰は、刻々近づいているというのに。それは毎日近づいている。神としての聖霊(イエズスの霊という意味だけではない)を信じない者は、呪われ、追い出され、諸聖人の交わりから除かれる。死んだ不信者のことを言っているのだ。私は信じなかった。そして、今は永遠に呪われている。ああ、僅かでも希望があれば、3000年でもいい! この地獄を出られるなら300万年でもいい。だが、それは、かなわぬことなのだ! 神は地球を毎日祝福している。どの生き物も祝福している。だから呼吸ができる。すべてが自動的に行われていると思うな。おまえらの派手な服装、巨大なビルディング、好き勝手なセックス、ポルノ雑誌や汚れた販売所、我々は、それをたっぷり使ってきた。それを売っている人間どもは、悪魔の仕事をしている。「そんなに悪いことではない」という人間には「とんでもない」と言っておく。モダニストの司祭たち、やつらは、みな地獄で硫黄と火で終わる。私は司祭たちに会っているが、今後は、もっと大勢の司祭たちと会うだろう。一番苦しむのがやつらだ。やつらには、それだけ大きな責任があるということだ。やつらの一部は、聖変化のときに、イエズスの現存を信じなかったので、ここに来た。だが、彼らは毎日聖変化された主を手にしているのだ。主を天にかかげているのだ。[「聖変化」とは、「全実体変化」とも表現され、ミサで用いたパンが主イエズスの御体の御肉に、ぶどう酒が主イエズスの御血に霊的に変化し、主のご臨在を実感する神秘体験をいう] そのような“力ある出来事”が現に起きていることを考えもしない者たちがいる。彼らは祭壇の上に神秘なる主が現存していることを信じない。主は、いたいと思えば、そこにいる。誰をも愛で囲おうとしている。おまえらを天国に導きたいと思っている。なのに、おまえらは気にさえ留めていない。地上にもう一度戻れるなら、私は神が愛と呼ぶものを、おまえらに示して、彼に仕えるだろう。だが、おまえらは何と恩知らずな者たちであろう! 正しくありたいと思うのなら、それを信じたほうがよい。おまえらの刑罰は恐ろしいものになるからだ。おまえらは、決して善行を自慢してはならない。言葉をひけらかしてはならない。他人の注意を引こうとしてはならない。それは、してはならぬことなのだ! なんと謙遜は大切であろう。これは常にプライドに打ち勝っている。永遠にそうあり続けるであろう。謙遜は力強い。おまえらの主イエズス・キリストは、全世界で最も謙遜な御者。おまえら司祭たちに私は、はっきりいう。おまえらは、もっと祈るべきである。特に、「ロザリオの祈り」15連すべてをだ。毎日だ。それ以外、どうして恵みを期待できようか。[「ロザリオの祈り」とは、カトリック教会で祈祷用の数珠を手に持ち、聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える。] これは恐るべき拷問だ。こんなことをみな、おまえらに言わなきゃならないからだ。ああ、喉がガラガラしてくる。私は、こんなことを言いたくはない。もうやめにしたい。だが、言わなきゃならんのだ。私は従順にこれを話さなければならない。それは、彼女(聖母マリア)がおまえらが思っている以上に力ある存在だからだ。彼女は、おまえらが知っている以上に愛に満ちている。おまえらが想像できる以上に助けてくれるのだ。彼(イエズス)は、彼女(聖母マリア)がいかなるものかをおまえらに語るだろう。彼は彼女を知っている。彼は彼女の中に生き、彼女は彼の中に生きているのだ。彼の心は彼女の心、彼女の心は彼の心なのだ。だが、主の母は一番苦しまれた! 私は、こんなことを言いたくはないが、言わなければならない。そうだ、それが私の喉を締め付ける。私は、このすべてを言わなくてはならない。本当に言いたくない。反対する者、愚弄する者、悪魔的なもの全員が2千年間イエズスを取り巻いている。彼らはイエズスを尊敬していないが、それでも彼は神なのだ。彼は今も生きている。彼は死んで、殉教した体を残したままで、3日目に甦り、救いを与えたからだ。人類にとっての救いだ。だが、彼らは、それを受け取らなかった。彼は愛を与えたが、彼らは愛を返すことなく、憎んだ。彼らは彼を呪い、追い出した。彼が好きではないのだ。おまえら人間どもよ。「最高者」を愛せ! こんなことを言うのは、とても苦しい。おまえらには想像もできんだろう。もう一つ言おう。おまえらが地上で愛するもの。それは消えてなくなるものだ。ただ、「最高者」の愛だけが永遠に残る。人間どもは、あれやこれやのものを持って、幸せだと思い込んでいる。ああ、車があって、仕事があれば大喜びさ。いい生活をしていれば。楽しくなって祝福されていると思い込む。バカバカしいぞ。そんなのは嘘なのだ。本当の幸せ、本当の祝福は、信仰から来る。それは永遠に満たされるものなのだ。そうすれば、良い人生を終えたときに永遠の至福に入れる。人間どもは神について真面目に考えてはいない。彼らは神を地上のことを気にかけぬ亡霊か何かのように思い描いている。それは誤りだ。神は日夜、民の間におられる。神は、どこにでもいる。おまえらが罪を犯し、盗みを働き、生殖に対して罪を犯している場にもだ。これは「最高者」が、お嫌いになることなのだ。彼は、いと清き、いと恵み深き方であられる。おまえらは私を信じてよい。私がこれを言わなければならないときには、大きな苦しみになる。苦しみ、恐ろしい苦しみだ。私は、むしろ、こう言いたい。「霊魂は呪われよ。何故あいつらが私らより恵まれているのか。罪の中でめくらになるがいい。どんなことでも盲目になるがいい」と。おまえらが神のために働けば、それを終えたときには、おまえらは永遠の至福をもらうだろう。その時には、「最高者」の大いなる愛の愛を知り、味わえる。神は、どこにでもいる。おまえらが純潔にそむく罪を犯している場所でも、殺している場所でも。神は忍耐して見ているが、いつか地上に怒りを注ぐだろう。そうなるのは、「神は死んだ」と、おまえらが叫ぶときだ。だが、神は生きている。おまえらは、それを見る。女王は、天国にいるし、地上にもいる。イエズスが地上と天国の両方にいられるのと同じだ。それは大いなる奥義だ。理解している者は多くない。司祭の中には、これを理解して者もいるだろう。だが、司祭さえ、十分には理解していない。なぜなら、彼らは十分に謙虚ではないからだ。司祭は、神の恩寵に対して『はい』ということが少ない。どんな恵みの神殿(聖地・奇跡の場・恩寵の場)も、馬鹿にする司祭がいる。彼ら司祭は信者が巡礼をするのを禁止する。だが、そうすることによって彼ら司祭は大きなものを失う。彼ら司祭は苦しまなければならない。あのような恩寵の場から人々を遠ざけるからだ。恩寵の場で信者の心にそそがれる大量の恵みは、とても言葉にはできない。


■3.神の恵み
神の恵みは、人間の上を流れる大河のようだ。人間が信心をもっていればだが。神は恵みを与える。おまえら司祭には考えられもしない恵みをだ。だが、おまえら司祭は神のみ心を求めていなければならない。それを願っていなければならない。祈りをしろ。神は恵みをお与えになるだろう。夢にも思わぬような恵みをだ。他人を羨むな。神は見ている。自分が生きているのを見ろ。おまえらには食べ物が十分ある。おまえらが持っているどんなものも、神からきている。おまえらが自分を創造したのではない。体の内で心臓を打たせ始めたのは、おまえらの親ではない。神がそうさせたのだ。恵みなくして天国はない。慈悲の恵みがなければならない。許しの恵みが。イエズスが十字架で死んだ時に、おまえらは最強の恵みを得た。神の王国を求めろ。祈れ。人間どもは神に向かっていない。彼らは神を否定し、馬鹿にしている。私は、そんなことさえしなかった。私は気まぐれな生き方をしていただけだ。なのに、今では永遠に呪われている。ああ、苦しい。拷問だ。永遠の苦しみだ。神は何ごとも真剣になされる。我々がおまえらを誘惑するときに抵抗する力が自分のものだと考えるな。いや、それは違う。それは全能者の力なのだ。清き全能者の聖霊の力なのだ。おまえらが神を崇めるときに、神は恵みを下さる。神は神の愛でおまえらを点火する。神は神秘家の奥義へおまえらを導く。それは、おまらには見えない未知なるものだ。神は、おまえらが夢にも見なかった恵みをくれるだろう。恵みは、ドウェーライムス聖書の一字一句への信仰を深めることに始まる。過去の伝統への信仰もだ。それから、神がおまえらを小さき道具として使うときに、不思議な偶然の一致と出来事が起こる。寂しさが来るだろう。それは従順の試験だ。あるいは、他人を救うのに神が必要とされる「とげ」が来るだろう。その後に素晴らしいものが来る。バラだ。それは人生の大転換だ。いい例が、全能者が「天使の中の天使」と呼ぶ聖ヨゼフだ。9ヶ月にわたる激しい頭痛が彼の最後の苦しみだった。だが、彼は毎日天国を見、天使らによって慰められた。苦しみの殉教者は、喜び以外何も感じない。[「聖ヨゼフ」は、主イエズスの清き父にして、童貞マリアの浄配] 鉄板の上で生きたまま焼き殺された聖ローレンスがいい例だ。彼は「こっちは終わった。ひっくり返せ」と言った。[「聖ローレンス」は、258年にシクストゥス2世らと共にローマ皇帝ウァレリアヌスの迫害にあった殉教者の一人で、後に風の守護聖人として崇められた。] それから、火刑にされながら「イエズスのために苦しむのは、なんと素晴らしい」と叫んだ聖アグネスもいた。[聖アグネス(291~304)は、ローマの上流階級のキリスト教徒の家庭に生まれた聡明な美少女。政府高官の息子との結婚を断ったことで迫害され、13歳で殉教した。] 何よりも、神の恵みが、神の恵みの共贖者である、あの女(聖アグネス)から神への愛を強めた。おまえらに未知なるものが見えなくとも、おまえらは、それに取り囲まれている。守護天使がいい例だ。おまえらが守護天使に祈れば、天使は、我々からおまえらを守る。祈らなくとも、天使は、おまえらを守っている。おまえらを守るよう神から指令を受けている。天使が、おまえらを守るのは、彼ら天使が神を愛しているからだ。彼ら天使は、おまえらのような罪人とは比較にならない。彼ら天使は、神について、神の知恵について多くを知っている。彼ら天使には理解できる。どんな天使も一つ以上の言語をしゃべる。それは、天使が、どれほどの高さにいるか、神が、どれほどの力を与えているか、どれほど多くの賜物を与えているかによって決まる。だが、罪人が天国に行かないと、天使が一人で天国に戻る。そこで、彼ら天使は、神の正義を称える。本当は、おまえらの守護天使が、おまえを告発する証人になる。それと、おまえらが悪さをした他の霊魂の守護天使もいる。俺の言うことを信じろ。彼ら天使は、彼ら天使の訴えに対して全能の神に正義を求める。おまえらは、このことを心の底に叩き込むべきだ。それをよく考えろ。純粋な、利己心のない、抱擁的な愛、特別に天的な愛で、おまえらを愛してくれているものがいる。天使は、悪魔や危険と戦っていないときには、おまえらのために祈ってくれている。おまえらが眠っているときにもだ。天使は、我々悪魔がいるので、強力であるに相違ない。強力でなければ、サタンと我々悪魔と戦うことはできない。サタンは力強い。サタンは、おまえらの上に大いなる権力を揮っている。おまえら小さき人間どもに。そうとも、私は今ではサタンの軍団の一人なのだ。考えてみろ。醜悪な顔の、手が変形した黒い奴。地上に存在しないほどの憎しみがある。大きな火が、私の心の中で燃え盛っている。だが、愛の炎ではない。「ここ地獄で、おまえらに会いたい」という思いだ。だが、おまえらの守護天使は、おまえらを天国へ行かせたがっている。そうならなければ、天使は満足しない。地獄では他人への同情は存在しない。男は女を憎む。特に肉欲の罪によって地獄にいる男は女を憎む。女を通して地獄に来たからである。だが、女の罪だけではない。それは違う、男にも罪がある。女と一緒になって罪を犯したからだ。そうしてはならなかったのだ。愛が義人において完全であるように、地獄では憎悪は完全である。憎悪は我々の永遠の食料だ。終わりがない。


■4.悪魔は、霊魂ではなく体に取り憑く
私が今柔らかく喋っているのには理由がある。私は縛り上げられているのだ。「最高の女王」が私をそうしている。彼女が私のいうことに不興を感じれば、私は地獄に行かなくちゃならんのだ。最後には地獄に戻らなくてはならない。地獄には多くの地獄が存在する。それは、霊魂は、呪われた霊魂は、どれも、それ自身が地獄になっているからだ。各々は、それ自身の特別な苦しみを経験する。それら全部が合わさって、地獄全体をつくりだしている。その地獄の王が、ルシフェルだ。地獄には、どんな同情もない。生前、私は愛した。だが、愛したのは人間で、神を愛さなかった。神を先ず愛して、それから人間を愛さなければ、おまえらにはどんな天国も望めない。地上では、私は、どんな人間とも渡り合った。今でも人間の体にいる時にはうまくやれる。私は上手にやれる。私は「自分がサタンである」と彼ら人間にいいはしない。彼ら人間にばれない限りは。私は慎重にやる。私は光の天使にもなれる。それは私にとって難しいことではない。私は芸術家なのだ。聖母を刃物で襲うなど馬鹿らしい。(聖母マリアは、霊体であって肉体ではないため、刃物で傷つけることはできない。) 人間に取り憑いた悪魔が、そうしているのであり、人間がしているのではない。そうだ、そこには謎がある。私が人間の体の中にいる時には、食べ物を味わえる。自分が人間になったような気持ちを取り戻す。人間の体にいるときには苦痛を感じる。我々悪魔が取り憑くのは霊魂ではなく体だ。もしも、その人間が償いをするよう迫られているとすれば、彼女、天の后が監督しているのだ。彼女は、体に取り憑くどんな悪魔も命令に従わせる。彼女は自分の望むことをさせるのだ。彼女の望まないことは、我々にはできない。例えば、誰かに取り憑いて悪魔が従順でなければ、言われた通りのことをしていなければ、罰せられる。彼女に従った方がいい。もっとひどいことになるから。苦しみを増すなぞ馬鹿らしい。冗談について少し言っておきたい。冗談は全能者を愚弄することだ。冗談は呪いでもある。信仰者は冗談をいうべきではない。それは他人をあざけるだけのものだ。そんな人間は傲慢だ。彼ら人間はプライドが高い。冗談をいうことによって、おまえらは煉獄の深くへ落ちて行く。冗談を言ってはならない。全能の神は冗談を好まない。神は、まったく冗談を言わない。聖母が地上で、どんな生き方をしたか。彼女は、まったく冗談を言わなかった。イエズスが地上にいたときはどうだったか。俺は、そのときにはいなかったが、イエズスも冗談を言わなかったと信じる。笑っているのを知られたことがない。それは「自分がしたように生きろ」と、イエズスがおまえらに求めていることなのだ。神が、神のままで現れていれば、おまえたちは神に従うことはできなかった。神は、それほど純粋で、聖なる、義なるものなのだ。それで、人間をあがなうために、神は人間にならなければならなかった。イエズスは愛で燃え尽きた。おまえらがイエズスを愛せるように。だが、おまえらはイエズスを憎んでいる。正反対のことが起きたわけだ。償いは神が求めていることである。神は、おまえらが償うことを期待している。どれほどきれいで、無垢な者でも、神は償いを期待する。「犠牲の霊魂」と言われる者たちがそれだ。おまえらは聖フランシスコ・ザビエル(1506~1552、日本渡来のイエズス会士)のように、もっと苦しみを求めて神に祈らねばならない。心配するな。神はおまえらの日課の邪魔にならない程度の苦しみを与えるだけだ。神は、それから悪者の体から悪霊を清めるために、おまえらの恵みを使う。そうでなければ、どうして罪人が突然回心を起こすものか。イエズスは、未来の罪人全員に自由を与えたのではない。「イエズスのやったことのすべては、天国の門を開いた」と言うに尽きる。だが、それでも、純潔で罪のない者しか入ることは許されない。おまえらだって天国が神の敵ばかりで一杯になることを望まないだろう。ある霊魂が完徳に至ろうと力を尽くし、純潔だけを愛していれば、神は、その霊魂が自己犠牲の霊魂、罪の償いの霊魂になるのを望む。こんな霊魂は数少ない。彼らの自己犠牲と償いが全能者のみ前で求められているのは、地上世界に罪が増しているからだ。町のどこを歩いても罪だらけだ。罪がおまえらを待ち伏せしている。祈っていなければ、いつ罪に舞い戻るかわからない。そうなれば、我々悪魔がやって来て、おまえらを絶望で満たしてやる。我々は言う。『神は、おまえを二度と許さない。二度と。おまえが誠実ではないことをご存知だから。』 特に、第6戒(殺すなかれ)、第9戒(偽証するなかれ)、「純潔であれ」との戒めに背く罪、これによって、おまえらは簡単に絶望させられる。それは他人と一緒に罪に耽るからだ。その者が原因になって他人が裁かれる。その者が、別の霊魂が失われる原因になる。この連鎖には終わりがない。強迫観念、『包囲された憑依』現象について、はっきり言おう。悪魔が体に取り憑くのとは異なる。だが、聖母が許せば、悪魔は、その人間の体に近づく。悪魔は、それから働き出す。こうやってだ。悪魔は、そいつに悪意を注ぎ込む。そいつの意志に影響を与える。悪魔は己の憎しみと悪しき感覚を、直接、そいつの霊魂に注ぎ込む。そいつが犯罪行動を起こす前から、悪魔に注がれた悪意が周囲の人々との争いを引き起こす。我々は殺人さえ起こせるが、争いと議論を起こす方が多い。霊魂が敬虔であれば、悪魔の誘惑を克服するだろう。謙虚で柔和であれば、それも可能だ。こういう人間は、罪の償いの仕方を知っている。罪の償いについて、おまえらが語れるのは、自分のしてきたことを嘆き悲しむ時だけだ。優しい心とやり直す善意があれば、神は何度でもお赦しくださる。真実として悲しむ時のみ、罪の赦しが与えられる。我々は、はっきり言う。「懺悔する者の体に悪魔はいない」と。我々が誘惑していなければ、人は罪を犯さなかったことを覚えろ。罪を犯した人は、「包囲された憑依」現象によって誘惑されたのだ。この現象によって争いと議論に誘われた人間は「争い好きで、怒りやすいのだ」としか人は考えない。「悪霊どもが彼を包囲している」と言う人間はいない。なぜなら、それは、人の眼に見えない超自然現象だから。だが、悪霊に包囲されていなくても、神を汚す言葉を吐く者はいる。こんなやつらには決して悔い改めは起こらない。「哀れな奴ら」と言うだけだ。悪魔が体の内にいて完全に支配している時でも、その霊魂を誘惑することは、ほとんど不可能だ。霊魂が純潔で平和であれば、全く不可能だ。この場合、神を冒涜し、聖人や教会へ通う者たちを嘲る言葉を吐いているのは、悪魔自身だ。悪魔に憑依された霊魂にとっては、悪魔に憑依されたことが純粋な改悛あるいは罪の償いの行為になる。これは、今のような時代には、特に、全能者によって求められている。『包囲された憑依』にしろ『内的な憑依』にしろ、后は、すべてを正常に戻せる。彼女は霊魂と悪魔との間に大きな距離を置くこともできる。決まったときに、彼女は彼ら悪魔を、霊魂を試み、あるいは、試験するために、再び霊魂に近づけることもできる。すべてが彼女の手中にある。彼女は天の后だ。彼女は、その指令によって、地獄全体を足下に置いている。彼女が地獄を支配しているのだ。地上には、彼女が奇跡を働けることを信じない霊魂もいる。彼女が、おまえらのために神に嘆願してくれることを疑う者たちもいる。彼女を信用しないため、イエズスに直接祈る者もいる。だが、私は言う。「御子は、聖母マリアを信用しない霊魂に警告するだろう。御子は、聖母マリアがおまえらの母になり、おまえらの霊魂の試練を共有することを望まれているからだ」と。十字架につけられて死ぬときにイエズスは言われた。『見よ、あなたの母である』(ヨハネ19:27) 聖母マリアは、イエズスの弟子ヨハネの母であるのみならず、イエズスの弟子である、おまえらの母でもある。おまえらは今の邪悪な世界で聖母に対する愛が、どんなに必要か分からない。彼女は、地上にいたときと同じように侮辱されたままだ。彼ら人間は、彼女を母と呼ぶどころか、侮辱している。まるで天主が世界に、その母を与えなかったかのようにだ。おまえらは恩知らずだ。おまえらは親しみをもって彼女を母と呼ばない。だから、悪魔の、この私が、おまえらに言わなければならなくなる。永遠に呪われた、この私がだ! 私は真実を言わなければならない。おまえらが、すべきことを言わなければならない。おまえらは恥を知るべきだ。そうとも、恥を知れ。全能者と最高の元后の前で。悪魔に言われなきゃならんとは、お笑いだ。おまえらは元后への愛を感じることができないのか、自分から。お笑いだ。おまえらは皆めくらに違いない。 [カトリック教会では、聖母マリアを「元后(げんこう)哀れみの母」などと表現する] 元后が地上のどこかに出現すれば、でかい顔をした司祭・司教の奴らが現れる。彼ら司祭は、聖母出現を「嘘八百だ」とぬかすのだ。だが、わが愛する者たちよ、こんな世俗化は、我々悪魔のせいだけではない、おまえらにも罪がある。おまえらは、元后が、これらの恵みの場所で告げることを謙虚に信じなければならない。彼ら司祭が、これらの恵みの場所すべてを認めれば、世界はどんなに良くなるだろう。だが、哀れにも、全カトリック教会は今や暗黒の中にいる。教皇ではない他の者たちがだ。闇の中にいない司教らもいるが、少ない。闇の中にいない司祭らも非常に少ない。数えるほどだ。秘密結社フリーメイスンの者らは、邪悪な奴らで、聖母出現の恵みの場所を冒涜し破壊してきた。神学校や僧院のどんな聖職者・教師も、新しい聖母の出現を信じない。彼ら聖職者・教師は、これらの出現地を「嘘・迷信」と教え込むことによって、若者達を惑わしている。おまえら説教師たちは、「聖地など古臭い」と言う。だが、そう言わせているのは、我々悪魔だ。だが、「全能の神は、古臭い」とおまえらは思うか。いいや、神は今も天地創造のときと同じままだ。こんな高慢な思想が、「最高者」の愛する者たちの中に入る時に、おまえらが祈れば、「最高者」は、「こんな高慢な思想を捨てるように」と、おまえらに力を下さる。おまえらが聖母の出現などの不思議な出来事を変えようとするのは、高慢だからだ。神の恩寵の現れである神秘現象を「嘘・迷信・古臭い」と決めつける事は高慢だ。おまえらは謙虚でも柔和でもない。おまえらは高慢だ。おまえらは、あまりにも僭越過ぎる。だが、神の御子は謙虚だった。彼は「最高者」の御子でありながら、あれほどに苦しんだのだ。なぜ、彼のようになることを忘れたのか。おまえらは戯言ばかり言っている。


■5.神より罪を愛する司祭たち
おまえらは、我々悪魔についても説教しない。だが、我々は気にしない。おまえらが我々を信じなければ、勝負に勝っているのは我々だ。わかるか。勝負のすべてに勝っているのだ。自分を「頭脳優秀だ」と思っている司祭らもいる。彼ら司祭は「何でも知っている」と高慢になるから、信仰者の勧告を聞こうとしない。彼ら司祭が言っているのは戯言ばかりだ。「隣人を愛することによって神を愛する」と言うような、こんなやり方を続けていれば、それは高慢だ。おまえらは謙虚ではない。謙遜に立っていない。おまえらは高慢で僭越なのだ。私は、おまえらが自己犠牲を嫌っているのを知っている。それは難しい。だが、「最高者」の御子は苦しんだのだ。おまえらは彼よりも偉大なのか。しもべは、主人よりも優れてはいない。我々悪魔は、絶えず、おまえらに吹聴している。『なぜ自己犠牲を求めるのか。イエズスが、それをすべてしたのではないのか。2千年も前に、彼がすべてのために贖い、犠牲になった。だから、みな喜んで楽しんでいい』と。哀れな奴らは悪魔の囁きを信じて、人生を好きに生きる。僭越だ。だが、神は、年齢にかかわらず、罪の償いをする霊魂を求めている。おまえら、司祭たちよ! 説教するときには、おまえらは宗教と教義から逸脱してはならない。おまえらは金銭欲・社会運動・帰省・学校問題・テレビ番組・スポーツのことばかりを話す。軽薄な司祭らは、神よりも人に受けようとする。ミサ聖祭のときでさえ、おまえらは神にではなく人に受けようとする。祭壇に立つときに、神を思うことすらしない司祭もいる。彼ら司祭が見るのは人間だ。人間を支配することばかりを考えている。司祭たちよ、私はおまえらに言う。おまえらは、自己犠牲とそれに伴うものを、もはや理解しなくなっている。おまえらは馬鹿だ。間抜けな奴らだ。めくらに生まれついたのだ。神の御子は言った。『あなた方は見ても見ない。聞いても聞かない』(マタイ13:13-15)と。この驚くべき言葉は、今も驚くほど真実だ。そのとおりになっている。おまえらは耳と目をふさいで、信仰を滅ぼしている。それが、どこにでも広がっている。我々には、人々に僧院と修道院を捨てさせるゲームをしている手下がいる。我々は人々にこう言う。『こんなものには今は意味はない。古い。とうに廃れたものだ。何百年も昔のことだ』と。だが、修道会の中に起きている馬鹿らしい変化をよく見ろ。「神は、外的な伝統と秘蹟を変更する」と、おまえらは思うのか。とんでもない。神の教会と信心は、昔も今も同じままでなければならんのだ。「人間どもの聖性が変化して堕落した」と言うだけだ。「人間どもの霊的生活が変わった」と言うに過ぎない。事態は、今後ますます悪くなるだろう。司祭どもが堕落しているからだ。「ロザリオが古臭い」と司祭に言わせているのは、我々だ。それを言っているのは我々だが、おまえら司祭も罪が重い。おまえら司祭は神を十分に愛していないか、まったく愛さないかだ。違うか! おまえら司祭が神を愛していれば、どうして人々からロザリオを奪えよう。いいや。だが、おまえら司祭の極少数は、溺れる者のようにロザリオにしがみついている。ロザリオという流木にしがみつけ。そうしなければ、おまえら司祭の極少数が沈めばロザリオも沈む。この意味が分かるか。四六時中ロザリオを手にもっている者たちがいる。このような者たちには、我々は、ほとんど手出しできない。[ロザリオは、カトリック教会で聖母マリアへの祈りを繰り返し唱える際に用いる数珠] メダイ・その他の準秘蹟には守りの力がある。[メダイは、カトリック教会で頒布する卵型をした小さなメダル] その通り、それは守りになるものなのだ。守りを信じれば、それは守ってくれる。注意しろ。我々は、このような者たちを遠巻きにして避ける。ときどき、元后は、聖職者や信者の罪の償いのために、我々が彼らを誘惑することをお許しになる。そのときには、我々は彼らの近くに行くが、許されていないときには、我々は彼らを遠巻きにしている。元后を愛し尊ぶ者たち、こういう者たちを我々は避ける。だが、時々、彼女は、その子供達を誘惑することをお許しになる。彼らが我々の誘惑を拒否すれば恵みは、いっそう豊かになる。そのような誘惑に負けない霊魂は、たいてい、ロザリオに手を延ばすものだ。彼らは、祈りながら誘惑に抵抗する恵みと力を得る。もっと多くの恵みが控えている。このような誘惑を拒否する祈りは、常に聞かれる。それを信じてよい。このような誘惑を拒否する祈りは神への直訴である。「悪魔の誘惑に屈することなく、ひたすら神を愛したい」ということを神に示しているからだ。天国にいる天使や諸聖人のように。悲しいかな、私は天国にはいない。地獄に落ちた今となっては、それができない。いと高き神は、ミサをラテン語ですることを求めている。だが、私の意見では、例えば、ドイツ語に正確に翻訳してあれば、形式あるいは典礼にどんな変更も加えていなければ、いいと思う。だが、司祭のプライドが、もうすぐ、ラテン語のミサを変更させるだろう。我々のした小細工がもう一つある。教皇レオ13世(在位:1810~1903)が、私の間違いでなければ、作成した『大天使 聖ミカエルへの祈り』だ。[『大天使 聖ミカエルへの祈り』は、教皇レオ13世が1886年にミサ典書に付加したため、『レオ13世の祈り』とも言う。カトリック教会のトリエント形式のミサの終わりに、『終わりの福音』に続けて唱えられた。典礼書中の『祓魔式 Exsorcista 』の部には、この祈りはない。第2バチカン公会議(1962~1965)の典礼刷新により、1965年3月7日に廃止された。] 教皇レオ13世は、あるとき幻を見た。「ローマ・カトリック教会を滅ぼしてやる」と、イエズスにいきまくサタンの幻だ。それで、教皇レオ13世は、あの祈りを作った。毎度のミサの終わりに、この祈りをするべきだ。だが、今では、この祈りをしていない。それから、めでたし3回。 また、「天使祝詞」(「アヴェ・マリアの祈祷文」)は、ミサで子供たちが、唯一、聖母のことを聞く場所だった。それで、今や、カトリック信徒は、「天使祝詞」さえ知らずに育っている。これは、我々の仕業だ。我々がまた勝った。これらの祈りには力があるのだ! 私は自分の意に反してこんな話をしている。これらの祈りには大いなる力があった。ミサが終わる度に、これらの祈りがされていたら、こんなひどいことにはならなかっただろう! 古株の司祭の中には今もこの祈りにしがみついている者たちもいるが、古株でさえ、「それでうまくやれる」と、新しいものにとびつく者がいる。おまえら司祭は、自分を敬虔で聖なるものと考えているが、みな罪人だ。小罪人・大罪人・中途半端な罪人・習慣性の罪人だ。おまえら司祭は、神より罪を愛している。肉を愛している。それは、みな罪だ。だが、見ろ。こんなものは、もうすぐ消えちまうのだ。それは物だ。物は続かない。続くのは魂だ。この私が、何よりの証拠だ。私の体は遠い昔に分解した。1806年に死んだのだ。私の体はパリに埋められた。今は、どこにいるか。ここスイスにいる。そうとも、私の魂は、こうして徘徊している。昔、私の体だった物は消えちまった。おまえらは魂を、霊を見なければならない。肉ばかり見ていれば、おまえらは滅びるのだ。言っていることが分かるか。祭壇の上で6本の蝋燭ではなく2本の蝋燭しか使わせなくしたのは我々だ。我々は、あなた方に何度も言った。『なぜ6本にするのか。2本で十分だ。これならカネもかからない。6本じゃ高すぎる』。 私の教会の司祭は、10センチぐらいの安っぽい、ちっぽけな蝋燭のために、1メートルの蝋燭を立てる金の燭台を捨てた。「高い蝋燭は、祭壇の背景を見えにくくする」というのが奴の言い分だった。奴が言ったのは、祭壇両側にある安っぽい木彫りの天使のことだ。あの途方もなく美しい大燭台は、25年間ここに置かれていたが、何物も見えづらくしなかったのだ。今の新ミサは、嘘っぱちだ。司祭は、祭壇の前で敬虔を装っているが、それは「他の司祭がすることをしなければならない」という思いだけの理由だ。ミサの後で、彼ら司祭は本当の顔を見せる。ミサの後で、彼は、おのれの弱き信仰を露呈する。おまえらは神を侮辱している。こんな司祭どもは滅びる。彼ら司祭は、いと高き神を知らない。 司祭はみな、パウロ6世(在位:1963~1978)が、口による聖体拝領を望み、手による聖体拝領を禁止したのを知るがいい。[1969年5月29日の教書 “メモリアール・ドミニ” は、パウロ6世の名前でグート枢機卿 Cardinal Gut と アンニバル・ブニーニ Annibal Bugnini によって書かれた。この教書は、手による聖体拝領を禁止する一方、平信徒が希望した等の条件付きで手による聖体拝領を許可したため、手による聖体拝領が普及してしまった。] 司祭らは、手による聖体拝領によって、教区民を甘やかし、教区民を司祭になった気にさせている。こんなことをしている司祭は、全能の神を知ってはいない、恐れていない。どの司祭も、決して手に聖体を授けてはならないことを肝に銘じろ。モダニストの司祭は、救い主を打ち叩く奴らと同じだ。彼らモダニストの司祭はイエズスを打ち叩いている。手で聖体拝領をさせる度に、もっとも卑しいやり方で、救い主を打ち叩いている。聖体の中の主の現存に関して、司祭たちが、どんな冒涜をしているかを知れば、平信徒は手による拝領などできなくなるだろう。彼ら平信徒は、司祭による聖体奉挙(聖別されたパンを高く挙げて示す祭儀)の都度、ニ度跪くことを、もはやしなくなった。司祭がカリス(ぶどう酒の杯)を聖別するときもだ。今では一度しか、それも、お辞儀する程度だ。それから、彼ら司祭は聖櫃を追い出して、部屋の隅っこや、クローゼットや物置など、別の部屋にしまい込んだ。イエズスを鞭打つ奴らのすることだ。手で聖体拝領する奴らは、偽カトリック信徒だ。まことに神を信じる本物のカトリック信徒は、手による聖体拝領などしない。崇敬の心が、それを許さない。偽カトリック信徒は、崇敬を装っているだけだ。彼ら偽カトリック信徒は、司祭になった気でいる。中には毎日教会に通っているから、「司祭以上になった」と勘違いしている奴らもいる。だが、神は、そのようなことをお考えではない。聖体に触ることによって、おまえらは猿のように愚鈍であることを露呈しているのだ。おまえらの本性は猿だ。誰かが聖体を床に落とせば、それをただ拾うだけだ。ことイエズスが関係しているところで、よくこんな馬鹿をやれるものだ。おまえらは、2千年前、十字架につけられた主に兵士がしたより、もっとひどいことを、主に対してしている。聖櫃を脇に追いやらせ、司祭を神のように中央に立たせたのは、我々の仕業だ。司祭は、イエズスがいた場所に座らなければならない。・・・司祭らは、少しサタンに近くなっている。少し以上だ。彼ら司祭は “わが地獄の主 ルシファー” のようになろうとしている。彼ら司祭は、神のようになりたがっている。彼ら司祭が、聖ミカエルの話をしたがらない理由がそこにある。彼ら司祭に何が起こると思うか。彼ら司祭は、また追放されるのだ。覚えておけ。大昔、天に、高慢な天使達がいた。それから、あれ(ルシファーによる神に対する反逆)が起こった。神の「おやすみなさい」の一言で、高慢な天使達の全員が地獄に落ちたのさ。そして、突然、闇になった。 謙虚な司祭は、いと高き神がおられる場所、祭壇の中央に座らず、脇に座るものだ。それが私の時代の習慣だった。当時の彼ら司祭は、まともな司祭だった。「当時の彼ら司祭は、イエズスの神秘が体に深く根を下ろしていた」と言える。今の司祭は浅はかだ。彼ら司祭は、この世の方法(現代の世俗社会の方法)で何事もしたがる。社交クラブや余興や音楽会までカトリック教会でやりたがる。今の司祭は、真の俗人だ。こんな奴らを「神のしもべ」と呼ぶことはできない。彼ら司祭は、世に属している。 司祭の着衣について言おう。いと高き神は、司祭が古来のやり方に習って衣を着るようにお求めだ。キャソックを着る。特に公衆の面前で。とりわけ、それは教会法だ。[「キャソック」は、聖職者の平服で、首回りを立襟にした長袖上着と腰から足元までの長いスカートを組み合わせたデザインで黒色が多い。] いと高き神は、人間どもの頭で考え出された新しい思想を普及するモダニストの意見を求めておられない。聖なる自己犠牲を重荷と感じる司祭どもがいる。彼ら司祭は、祭壇を離れれば大喜びだ。それは、天主を十分に愛していないからだ。天主、いと高き神を。だから、彼ら司祭は、自分の上にあるものを、何でもかんでも引き下ろそうとする。何事も自分たちのレベルに引き下ろしたがる。彼ら司祭は、神になりたがっている。だが、この「神になりたがる」気持ちが、彼ら司祭を地獄に送る。こんな奴らが、神の怒りを自分自身と地上の万人に招く。とは言っても、執り成しをしてくださる御者がいる。彼女(聖母マリア)は、始終、いと高き神のみ座に向かって嘆願してくれている。そうでなければ、私を信じろ、おまえら司祭と地は、とうにない。わかるか、とっくになくなっているのだ。どれほど彼女が、いと高き元后が、力ある存在であるかがわかるだろう。それから、おまえら司祭たちよ、おまえらは自分が敬虔だと思い込んでいるが、キャソックとビレッタをつけるほどの謙虚さすら、おまえらにはないのだ。 [「ビレッタ」は、聖職者が頭に被る立方体型の角帽]  ミサを挙げるのにキャソックを着用したがる敬虔な司祭たちは、堕落した司祭らの嘲笑を常に買う。彼ら司祭は言う。『敬虔馬鹿になるな。人智に理解できる以上のことをしようと思うな』と。 このような悪い理屈は、我々が吹き込んだものだ。我々は常に真理を否定する。「祈る必要などない」と我々は言う。我々の言葉には終わりはない。悪い冗談を言う奴らもいる。奴らは、「マリアがヨゼフと性交渉をした」と御託を並べているが、そう言わせているのは我々だ。天の元后を冗談のネタにする司祭は、大罪よりも悪い。


■6.永遠の拷問である地獄
おまえら司祭が炎の中にいるのを想像してみろ。その時では、もう遅いぞ。この苦しみには終わりがないのだ。この拷問、この責苦には。それは果てしなく続く。酒を飲む奴らがいる。これら酔っ払いは、特に安っぽい奴らだ。私は生前、こいつらが嫌いだった。大嫌いだった。酔っ払いは大嫌いだ。赤ら顔に青筋を立てたでかい鼻。これは、みな酒からくるものだ。酒が情欲を誘う。それは恥ずべきことだ。こんな奴らは豚と変わらん。私は、こんなことさえしなかった。へどが出そうになるからだ。それでも、私は彼らと同様に呪われている。 おまえら、肉欲に走る者たちよ、おまえらが、これを読んでいれば、これが最後のチャンスだと思え。私がおまえらに言っているのだ。そのまま続けていれば、おまえらの末路は、アウグスト・ホーレンヴィーガー(誰か不明)と同じ、火の中だ。それから、おまえら司祭には特別な苦しみもある。そうだ、拷問だ、永遠の拷問だ。おまえら司祭は、いつまでも、おのれを責めるのだ。それで、おまえらが豚のような生き方をしているのなら、豚のような欲情を楽しんでいれば、おまえらは地獄で豚の顔になる。他を誘惑した奴は蛇の姿になる。これは冗談ではない、とぐろを巻いた、黒い皮の蛇のようになるのだ。私は、このような姿の女を知っている。それは、すさまじい姿だ。蛇のような舌をしている。蛇女、蛇人だ。この女は誘惑を表している。同様に男も、誰を誘惑しても、地獄では蛇の姿になる。 おまえら、服のデザイナーたちよ、おまえらは、みな地獄の中で、醜い憎しみの火の中に下る。おまえらが若い娘らにした報いだ。いと高き神は、おまえらを処罰するであろう。若い娘らの肌を露出させ、情欲をそそる服を、若い娘に着せたからだ。女用のズボンによって同性愛を刺激したからだ。 年寄りにも言っておきたいことがある。彼ら年寄りは、「若者が堕落している」と言う。だが、堕落は年齢を問わない。年寄りは教会に行く。「若者より、いい人間だ」と思い込んでいる。おまえら年寄りは、「若者は不良だ」と言う。だが、おまえら年寄りも同じだ。聖体拝領をする前に告解しに行け。告解しないなら、教会へ行かず、家にいる方がまだよい。いと高き神が裁かれるときに、おまえら年寄りが行くのは、煉獄(天国と地獄の中間にある霊界)の最下層だ。悪口は、ひどい処罰を受ける。それは高慢だ。おまえら年寄りは人を憎まず、愛さなければならない。人を憎めば、おまえら年寄りは、我々の子供たちになる。笑ってはならない。これは真実だ。ゴシップをふりまくな。若かった頃に、おまえら年寄りだって半端者だった。それを覚えている年寄りたちが今はいないというだけだ。それで、今、おまえら年寄りは若者を裁いている。そうだ、おまえらは、他の人間について善いことだけを言わなければならない。私は悪魔であるにもかかわらず、そう言わなければならないのだ。人の悪口をいうな。怠惰な話もするな。ロザリオを祈れ。私は、この一言を言う。「ロザリオを祈り、他人を愛せ」 こんなことを言うのは本当に苦しい。私は教授だった。だが、今では呪われた教授なのだ。ああ、それが、どんなに私を苦しめるかを、おまえらが知っていたら、善を語るということだ。すべては失われた。永遠に呪われた。救いはない。どこにも、どこにもだ。私は地獄から出られないだろう。いつまでも、そこにいるのだ。私の一番の苦しみは、諸聖人と共に天国にいられないということだ。 私は十分語った。これには終わりがない。これは拷問だ。私は天国へは決して入れないだろう。すべては過ぎ去ったのだ。このすべてが拷問、責め苦なのだ。それは、いつまでも続くであろう。これが私の一番の責め苦なのだ。天国に決して入れないということが。 すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。すべてが失われたのだ。永久に、永久に、下は闇、光のない暗闇だ。そこは、いつも夜だ。光は決して射さない。これは永久に続くからだ。地は過ぎ去るとも地獄は残る。 おまえらは、地獄に下れば、こう考える。「なぜ、私は、こんなことばかりしてきたのか」と。なぜか? 地は過ぎ去るからだ。〔悪魔に操られ、神を冒涜したまま、地上の悪と一緒に滅び去る運命を選択したからだ。マタイ24:35、エペソ2:1- 3〕 それから、おまえらは、「違う生き方をしていればよかった」と考える。だが、下ったら最後、取り返しがつかない。そこには、どんな助けもない。これからも助けはないだろう。すべてが失われている。永久に失われている。すべてが過ぎ去ったのだ。 私は永遠にディアボロ(悪魔)なのだ。 パスクワレ・ドゥ・カパリーノ


■7.悪魔・悪霊を祓う祈祷文

    『大天使 聖ミカエルへの祈り』

  Sancte Michael Archangele, defende nos in proelio:

  contra nequitiam et insidias diaboli esto praesidium;

  Imperet illi Deus, supplices deprecamur;

  tuque, Princeps militiae caelestis,

  Satanam aliosque spiritum malignos,

  qui ad perditionem animarum pervagantur in mundo,

  divina virtute in infernum detrude.  Amen.


  大天使 聖ミカエルよ。霊の戦いにおいて我らを護り、

  悪魔の謀略(はかりごと)を打ち砕き、戦いに勝たしめ給え。

  天主が悪魔どもに命じて抑(おさ)え給わんことを伏して願い奉る。

  あぁ、天軍の最高指揮官よ。

  サタンと、その他の悪魔・悪霊が

  我らの霊魂を滅ぼさんと、この世を徘徊しております故に、

  天主の御力により、これらを地獄に閉込め給え。アーメン。



  『アヴェ・マリアの祈祷文』(「天使祝詞」)

     Ave Maria, gratia plena,

     Dominus tecum,

     benedicta tu in mulieribus,

     et benedictus fructus ventris tui Jesus.

     Sancta Maria mater Dei,

     ora pro nobis peccatoribus,

     nunc, et in hora mortis nostrae.  Amen.


     めでたし、聖寵(せいちょう)充(みち)満てるマリア、

     主 御身(おんみ)と共にまします。

     御身は 女のうちにて祝(しゅく)せられ、

     御胎内の御子(おんこ)イエズスも祝せられ給(たも)う。

     天主の御母(おんはは)聖マリア、

     罪人なる われらのために、

     今も 臨終の時も 祈り給え。アーメン



【 4 】悪霊ヴェルディ・ガランデュー修道院長のメッセージ(出典:ブログ 護教の盾「滅んだ司祭ヴェルディ・ガランデューからの警告」)校正・編集済み

■1.祓魔式(エキソシズム)1978年4月5日
(1)「司祭たちへのメッセージ: 福音の生活に戻ることの奨励」 [同時に警告でもある] 
祓魔師: エルネスト・フィッシャー神父(引退した宣教師、聖ゴール修道院 - スイスのゴッサウ) 悪霊: ヴェルディ・ガランデュー修道院長(死後に地獄に落ちた元聖職者の悪霊)  ヴェルディ・ガランデュー修道院長は、17世紀(1601年~1700年、西欧の大航海時代・日本の江戸時代)、フランスのタルブ教区(Tarbes教区:スペインとの国境のピレネー山脈の北部にあるフランス南部の都市)の司祭であったが、その死後、地獄の悪霊と化し、今や、女性に取り憑いた。しかし、1978年4月5日に執り行われた祓魔式(エクソシズム)を通じて、聖三位(父・子・聖霊)と聖なる乙女(聖母マリア)の命令により、悪霊ヴェルディ・ガランデューは、取り憑いた女性を介して、生前時の聖職者の兄弟たちに福音の狭い道に戻るようにと懇願し、また、そうすることによって神の恩寵に対する不忠実のために自分の陥った恐ろしい境遇、即ち、永遠の地獄を、今度は現代の聖職者たちが自分たちの番として被ることを避けることを懇願した。以下は、悪霊ヴェルディ・ガランデューの悲壮なメッセージである。 [女性に取り憑いた悪霊ヴェルディ・ガランデューには、生前時の聖職者意識があり、悪霊の立場からすれば「お前たち」と言うべきところを「我々」と言ったりする]

(2)『レオ13世の祓魔文』『聖ヴィンセント・フェラーへの祈り』
今回の祓魔式(エクソシズム)では、エルネスト・フィシャー神父によって唱えられた『レオ13世の祓魔文』(  『大天使 聖ミカエルへの祈り』)の後に他の多くの祈りが唱えられたが、その中には14~15世紀のスペインの偉大な宣教師の『聖ヴィンセント・フェラーへの祈り』が含まれていた。 [この日は、たまたま、この聖人の記念日の4月5日であった]  彼は、スペイン・イタリア・スイス・イタリアなど至る所を旅し、1419年、フランスのヴァンヌで帰天した。聖ヴィンセント・フェラーは、その愛と償いの生活により、また活発な説教活動により、悪魔から多くの霊魂をもぎ取る 、悪魔にとっての恐るべき存在であった。つまり、聖ヴィンセント・フェラーは模倣すべき手本であり、神父ヴェルディ・ガランデューは、従ってはならない例である。 [「人々の霊魂たちを地獄にさらったのは、いにしえの者(ルシファー)であって、私ガランデューではない」(祓魔式中における悪霊ガランデューの言葉)]  悪霊ガランデューは、取り憑いた女性を介して、約2時間半ぶっ続けに話した。我々は、ここに、天の命令に従って為された、我々現代の司祭たちに向けられた悪霊の懇願メッセージを公開する。[「我々現代の司祭たち」とは、全カトリック教会の聖職者全体を指す。何故なら、悪霊は、面前のフィッシャー神父のみならず、全カトリック教会の司教たち・枢機卿たち・修道院長たちに対しても言っている]


■2.悪霊ヴェルディ・ガランデュー修道院長からの警告
悪霊ガランデューは、自分もまた「悪霊たちの中の悪霊」になったことを告白した後、突然叫び始め、こう言った──「私が主の恩寵と導きに応えなかったとは、何と愚かなことだったろう!」〔悪霊は、哀れな泣き声を出しながら、憑かれた女性を跳ね起きさせ、大声を上げる〕 何故、私は自分をその道に進ませてしまったのか? 何故? 何故、私は司祭職という、この非常に重い責任のある職務に入れられることに同意したのか?? 自分をこの偉大な理想の極みに持ち上げることの労を取る用意ができていなかったのならば、私にはこの職務は無理だったろうに。何故、私は今日のおびただしい数の司祭たちがしているように、自分の司祭職に従わないことをもって悪い模範を与えてしまったのか? 何故、私は私がそうすべきだったようにはカテキズム(教理問答)を教えなかったのか? 私は神の掟を守りながら、というよりは、むしろ女性の服を眺めながら時を過ごした。私は実際のところ、熱くも冷たくもなく、生ぬるかった。それで聖主は、その口から私を吐き出した。 [「あなたは熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(ヨハネの黙示録 3:16)]  それでも、私も若い頃は、まだ良かった。まだ聖寵と一致していた。〔悪霊が話している間、我々は憑かれた女性を通して悪霊の叫び声を聞いた〕 後に私は生ぬるくなった。その時、私は広くて簡単な快楽の道に入った。そして私は、もはや恩寵に応えずに、聖徳の狭い道を放棄した。私は、ますます堕落して行った。初めの頃は、私もまだ自分の罪を告白していた。私は回心したかったが、もはや、祈る術を十分に知らなかったために成功しなかった。私は、生ぬるかったために恩寵に応えることをせず、更に冷たくなるまで心境を下げて行った。生ぬるさと冷たさの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし、私が熱心であったなら、この哀れな運命を味わうことはなかっただろう。もし、今日の司祭たちが立ち直らないなら... ああ、その通り! 彼らは私と同じ運命を辿るだろう。現在、世界には、私と同じような司祭たちが何千何万と居る。彼ら司祭たちは、悪い模範を作り、生ぬるく、もはや神の恩寵に応えていない。それらの全ての者たちは、もし回心しないなら、私、ヴェルディ・ガランデューよりも良い運命を持つことはないだろう。 ああ! 私にとって地獄とは何という運命だろう! 私が生まれることさえなかったら! [「その人-裏切り者ユダ-は、むしろ生まれなかったほうがよかったであろうに」(マタイ 26:24)]  地上に再び戻ることができるなら! ああ! 私は、どんなに、より善く生き直すために地上に戻りたがっていることか! ああ! 私は、どんなに、夜も昼も脆き、いと高き御方への祈りのうちに過ごしたがっていることか! その時、私は天使と聖人たちに、「私が破滅への道から離れていることができるよう、私を助けて下さるように」と祈るだろう。しかし、私は、もう引き返すことはできない。私は有罪なのだ。〔悪霊が哀れな声を出す〕 ああ、司祭たちは、地獄の刑を宣告されることが、どんなことか、地獄がどんなものかを知らない。現在、地上に居る全ての者が、最も抵抗の少ない道を選んでいる。彼ら司祭たちは、この世の快楽を味わうことを望んでいる。彼ら司祭たちは、彼ら司祭たちの言うところのヒューマニズム(人間中心主義)を実践することが、この時代のメンタリティーであり、「今や普遍的なものとして確立されたのだ」と堅く信じている。


■3.自己犠牲の禁欲・断食の精神
司教・枢機卿・修道院長たちは、彼らの部下たちが示す程度の模範しか示していない。彼らは、キリストがその食事と食事に準ずる席で実践したような質素さに倣いつつ生活しているだろうか?? 福音が言っているように、イエズス・キリストは確かに様々な人からの招きに応えて晩餐に出席した。しかし、これらの食事の席で、彼はあまり食べなかった。そして、もし、イエズス・キリストが、これらの晩餐の席で少しばかり食べたことがあったとしても、尚、「イエズス・キリストは、飢えで苦しむことを、より好んでいた」ということが何度も強調されなければならない。聖家族と使徒たちも、大いに断食した。さもなければ、彼らは彼らが恩恵に浴したところの全ての聖籠を受けなかったであろう。しかし、イエズスは、彼自身が聖寵の創造者であったが故に、聖寵を受ける必要がなかった。しかし、それでもイエズスは、彼の使徒たちに確実に模範を与えることを望み、また全ての時代の全ての枢機卿たち・司教たち・司祭たちに、模範を与えることを望んだ。しかしながら、今日の枢機卿たち・司教たち・司祭たちが、贅沢な環境の中で彼らのテーブルにつき、おいしいごちそうを食べているのであれば、そんなことをして何になったのだろうか。彼らは、この生活様式に従いながら、彼らの健康を損なうほどまでに害悪は進む。しかし、彼らは、これが自分の司教・枢機卿・管区長としての地位に相応しいと思っている。哀れな料理人たちは、「自分たちは司教や、お偉方に仕えているのだから、テーブルの上には何か手の込んだものを出さなければならない」と思っている! 彼ら料理人たち、この哀れな霊魂たちは、「もし、これら全ての皿を、テーブルの上に並べることができなければ、自分たちにとって不名誉なことになる」と思っている。彼ら料理人たちは、「このようなことが、司教たちが、司祭たち以上にキリストに倣うことができるために、何ら助けになっていない」と気づいていない。もし、これらの料理人たちが、これらのお偉方に、「キリストも、かつて地上に生きたが、しかし、彼はもっと遥かに質素な生活をした」と言うことができれば、より良いことであろう。天の方々は〔悪霊は上を指差す〕、人々がイエズス・キリストを模倣する精神をもって為すことは何であれ、高く評価する。しかし、この時代に行なわれていることは、イエズス・キリストへの模倣とは全く正反対のことである。人々の多くは、優雅・贅沢・裕福の中で生き、それは過剰なまでに至り、罪になる程度にまで至っている。罪は、しばしば食卓の上から始まる。禁欲が実践されなければならないにもかかわらず、禁欲が拒絶される時、罪は食卓から始まる。自己犠牲の禁欲・断食の精神を拒否することは罪ではないが、罪が入って来る広く開けられた扉である。禁欲の欠如は、人をゆっくりと罪に導く。この二つの間には、ただ玉ネギの薄皮ほどの距離しかない。もし、司祭が教会の教えに従わないなら、司祭を我々悪霊の地獄の道に導くために司祭のローブの裾を引っ張りに来るのは、我々悪霊である。 [「司祭のローブ」は、「スータン」「肉の服」とも表現する。参照:アウグスチヌス『告白』]  その時、我々悪霊が我々悪霊の全悪習慣を遂行する望みのもとに司祭のローブの裾を掴むのは、そのほんの端だけで足りるのであり、しかも、ほんの僅かの時間だけで足りる。長い間、私ガランデューは善き司祭になる意図を確かに持っていた。しかし、「司祭という人物は、我々悪霊によって平信徒たちより、遥かに激しく攻撃される」と強調されなければならない。確かに平信徒たちも危険にさらされている。特に、正しい人々の列に加わるために自分のできる限りのことをしている者たち、重要な責任を持っている者たちが、悪霊に攻撃される。しかし、司祭が人々に祝福を与える偉大な力を持っているが故に、我々悪霊は、全てにおいて司祭たちを真先に攻撃する。私に関する限り、私は自分が司祭であることを弁えていたし、初期の頃は、私も自分の司祭職を真面目に果していた。しかし、時が経つに従い、私はそれが単調であると思うようになり、独身制の意味についても顧慮しなくなった。私は祈ることをやめてしまった。何より、私は、あまりに多忙だったのだ。そして、私は、時々しか祈らなくなり、最後には、祈ることを全くやめてしまった。私は、聖務日課の長い祈りを、退屈で無益なものと思うようになり、とうとう、祈る意欲を失った。[天使が、私たちに祈りへの意欲と愛を与え、祈るための忍耐力を与えて下さいますようにと祈ろう。何故なら、それが天使の使命だからである。] 私は、聖務日課をしなくなった時、淫猥の罪に陥った。その時から、私は、もはやミサを唱える意欲を持たなかった。これは連鎖反応的に起こった。私が淫猥の罪に陥った時、これは連鎖反応的に起こった。つまり、私は、もはや聖寵の状態になかったために、ミサを信心深く捧げなくなった。このような心理状態にあって、聖書と福音書を読むこと、天主の掟を思い出すことは、私にとって咎めの時となった。それは私にとっては警告であった。しかし、私は、その警告を無視し、「自分は、もう自分の当然の務めとして、そうすべきようには子供たちに教えまい」と決心した。私自身が善を実践していない時に、どうして彼ら子供たちにそれを教えられるわけがあろうか? しかし、今日の、自らをヒューマニストやモダニストと呼ぶ司祭たちは、これら全ての堕落を、私が知っているのと全く同様によく知っている。彼らは、自分が信じてもいず、行なってもいないことを、どうして平信徒たちや子供たちに教えることができるだろうか? 自分の教えることが自分の生活の実情と合っていないことを知っており、それ故、自分の語ることが一つの巨大な嘘であることを知っている時に、どうして教えるべきように人々に教えることに耐えることができるだろうか?? 多くの司祭たちにとって、そのようなことをしなければならない時は、心臓が死の深い穴になってしまうような時である。このような心理状態にある司祭は、人々が考えているよりも遥かに多く居る。彼らは腐ったリンゴである。腐ったリンゴが、どうして良い香りを放つことができるだろうか? 聖徳を達成することに努め、霊魂たちに触れ、それらが必要とするものを与えることのできる人物は、ただ司祭だけであるのだが。


■4.「罪を悔い改め、自らの生き方を改める」と御父に約束する
もし、司祭たちが、聖徳の模範を信者たちに、特に若者たちに与えるならば、我々聖職者は我々聖職者が知っている世界とは全く違った世界を持つことだろう。その時、お前たちは、お前たちが現在持っているものより、千倍も良い、それ以上に良い世界を持つだろう。しかし、もし、お前たちが自分の中に神を持っていないなら、お前たちは、どうやって、それを広めたいと願うことができるのか? もし、私が私自身、聖霊に聞かないことを喜びとしているなら、私は、どうやって聖霊について語ることができるのか?? もし、ある者自身が、模範とすべき道から外れているなら、その者は、どうやって、人に模範とすべき道を指し示すことができるのか? このようなことは、お前たちが想像している以上に、非常に深刻な悲劇である。司祭が聖徳の道から逸れ、「その同じ邪悪な道に他の霊魂たちをも引き込んでよい」という気になった正にその瞬間、悲劇が始まる。 このようなことは、ミサの聖なる御いけにえ(パン・ぶどう酒)の霊的な堕落から始まる。その時、聖なるミサは、初めから終わりまで、意欲なしに、生ぬるく唱えられる。その結果、その堕落したミサからは、どんな個人的な利益も得られない。 [ミサを行う司祭自身と平信徒の全個人にとって有害無益となる]  とにもかくにも、私の事情は、この通りだったのであり、私は、ミサとその聖なる言葉に対する嫌悪を募らせていった。そして、このように悪しく行動した聖職者は、永遠の咎めを持つ。私の場合、他の多くの司祭たちの場合と同様、信者たちがミサに心から安心して与ることを可能にする「全実体変化」が、少なくとも存在していた。[「全実体変化」とは、「聖変化」とも表現され、ミサで用いたパンが主イエズスの御体の御肉に、ぶどう酒が主イエズスの御血に霊的に変化し、主のご臨在を実感する神秘体験をいう] しかし、信者たちが、そのように安心できたのも、彼らが司祭たちの心の奥底にある腐敗堕落を知らなかったからである。悲しいかな、司祭たちは、ミサが有効であることを確実にするための、彼ら司祭たちが唱えるべき言葉を唱えておらず、もはや、言葉と共に生きてはいない。悲しいかな、司祭の誰もが、信者たちを間違った道に導いている。これらの司祭たちは、説教壇の上から、公に次のように叫んだ方が良いだろう。「私は罪を犯しました。私は、もはや聖徳を実行できません。私が回心できるように、私が再び聖徳の道について教えることができるように、どうか私のために祈って下さい」と言う方が、遥かに良いことだ。そして、我々悪霊たちは、そのように罪を告白した司祭たちには力を及ぼすことができない。何故なら、彼らが謙遜の行為を為したからである。たとえ幾らかの人々が、このように話す司祭に軽蔑を抱くようになったとしても、しかし、司祭の言うことを聞いた大部分の者たちは、その謙遜に感化されるのであり、皆で力を合わせて、司祭が自分を取り戻すことを助けることができるであろう。信者の大部分は、そのように自分を表現した司祭に、尊敬の念を抱くであろう。このようなことは、嘘と偽善の道を続けるよりは、遥かに善いことである。人々に対面してミサを執行し、人々に次のように言うことは、何の役に立つのだろうか。「近寄りなさい。主は、あなた方の罪を全てお許しになっています。主は、あなた方のことを理解して下さっているのです。光の御父のもとに来なさい。そして、もし、あなたが暗闇の中にいるなら、主は、あなたを再び恩寵の中に戻して下さるでしょう」と言う司祭たちは全て、「御父が、お前たち司祭たちを自らの御腕のうちに再び取り戻し、その聖寵のうちにお前たち司祭たちを再び戻すために、司祭たちによって何か、あらかじめ為されねばならないことがある」ということを忘れている。「御父が彼の子供たちを再び御自分の御腕の中に取り戻す」というのは本当である。しかし、このことが起こる前に、「罪を悔い改め、自らの生き方を改める」と御父に約束することが必要である。滅びへの道を避けることが必要である。司祭は、当然、次のように考えるべきである。「まず私自身から始めなければならない。それが、信者各人に模範を示すため、また、聖霊とイエズス・キリストの教えを全会衆に説教する唯一の方法だ。そのようにすることが、いと高き御方が、私、司祭が、人々の中で説教し、実践すべきとお考えになっているところの、私の使命である」


■5.神への愛を最優先すべし
隣人愛があまりにも多く語られ過ぎている。他方、この隣人愛というものが神に対する愛から生ずるものであることが忘れられている。もし、第一の掟、主要な掟を忘れているなら、人はどのように隣人愛について、互いに近寄ることについて、語れるものだろうか?「あなたは思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛さなければならない」[マルコ 12:30-31]  隣人愛の命令は、神への愛の次であり、二番目の掟に過ぎない。もし、司祭が天の方々〔上を指差す〕と和解することを全てにおいて最優先するならば、その時、隣人愛は直ちに流れ始める。次のように言うことは、フリーメイソンの見せかけである。「互いに愛し合わなければならない。互いに助け合わなければならない。互いに支え合わなければならない」。しかし、この全ては、悪魔崇拝に通じているのではないのか? たとえ人が慈善・許し・相互扶助について語ろうが、その結果が、どのようであるかは、今日の自殺者数を見ればわかる。「汝の隣人を己が如く愛せよ」という掟があるのは事実である。しかし、それは「全てに先んじて神を敬い礼拝せよ」という掟の後に来る。隣人愛の掟の、正に源から始められなければならない。即ち、まず初めに神を愛さなければならない。それは実際、隣人愛を含む。それは、全ての掟がその中に見出されるべき、最重要の掟である。人は、もし、神を真に愛することができたならば、その時、隣人を愛すること、隣人を支えること、隣人を助けることなどについて、絶え間なく語ることはないであろう。 [しかし、神を愛していないため、隣人愛が絶え間なく語られている]   実際には、隣人愛は何一つ行なわれていない。彼らは教会の部屋で、司教会議で、またローマ(ローマ・カトリック教会の総本山)においてさえ、隣人愛について始終喋りまくる。彼らは喋りまくり、議論し、何事かを決定し、それについて忘れ 、天の方々〔上を指差す〕が同意なさらないやり方に従って、あらゆることを受け入れる。天の方々〔上を指差す〕は、ただ単に憐れみであるだけではなく、正義でもある。そして、私、ヴェルディ・ガランデューは、これについてよく知っている! もし、徳行に励み、祈り、償いを捧げていたなら、私は今知っている、この過酷な地獄の道を知らなかったであろう。私は、私の羊たちが自分自身を浄めることを助けるために、また、私自身を浄めるために、十字架を求めざるを得なかったであろう。しかし、私は、それを求めることを忘れた。今の時代においては、司祭たちの大部分は、十字架の道が実践されなければならないこと、自己犠牲が行なわれなければならないこと、他者のために祈らなければならないこと、自分自身のことは忘れなければならないこと等について、忘れている。この時代においては、説教壇の上から信者たちに向けて、「今や、全ての者たちが巻き込まれている堕落した状態を償い、そこから立ち上がるために自己犠牲を捧げなければならない」と宣言されなければならない。そのようにすることこそ、真の意味での慈善の実践である。[Charity: 慈善・施し・隣人愛・同胞愛・思いやり]  それら全てのこと [隣人を助ける全ての方法] は、確かに重要である。しかし、天主ご自身が「(我々が)生きるために必要とするものは、お与えになる」と約束しておられるのだから、また、今の時代においては物質的な物は著しく組織化された方法によって分配されているのだから、今や慈善的なもの(隣人愛)は、それほど重視されるべきではない。これこそ、「隣人愛が我々の愛の主要な目的になってはならず、隣人愛は唯、我々が神への愛と結び付くことができる手段である」という理由である。もちろん、困っている人を助けることは必要なことである。しかし、このことが神へ向かう義務を脇に押しやるほど過大評価されたのでは行き過ぎである。それよりも、説教壇の上から人々を導くことに意を用いた方がずっと好ましい。即ち、人々に、誰か霊的な大きな困難の内にあり、それ故に危険の内にある人のために祈るよう勧めたり、祝別されたロウソクを灯すこと、十字架を使うこと、死者の十字架 [死にゆく者を助けることを目的に免償を付された十字架] と聖水を使うこと、困難にある人の助けとなる恵みを天から引き寄せるためにロザリオを祈ることをいつも忘れないこと等を勧めることである。これら全ては、たとえ、それを行なう者が平信徒であっとしても、恵みをもたらす。その恵みは、慎みと沈黙の内に豊かに溢れる。そして我々悪霊は、そのようなやり方で対抗された時、その場から撤退せざるを得ない。司祭たちは、説教壇の高みから、神への信仰というものを真剣に考えなければならないこと、各々心の中で忍耐を保つために互いのために自分を犠牲にしなければならないこと、そして、そのようにして人々を聖徳の道の上に留まらせなければならないこと等を思い出させられなければならない。平信徒たちは、また、こうも言われるべきである。「平信徒たちは、聖職者たちのために祈らなければならない。全ての聖職者たちの使命がよく果されるようにと祈らなければならない。聖職者たちが神への奉仕職の中によく保たれ、悪霊の罠に落ちることのないようにと祈らなければならない。司祭たちが自分たちをよく導くことができるようにと祈らなければならない」  ところで、この私もまた、一人の司祭であった。そして、私が司祭であったからこそ、私は今、私に印された奉献の印によって、地獄で、このように酷く苦しんでいる。司祭たちは、また、説教壇の高みから、「平信徒たちは自分自身のためにも祈らなければならない」と言わなければならない。何故なら、平信徒といえども悪霊たちに攻撃されているものであり、しかも、彼ら平信徒自身が考えているより遥かに激しく攻撃されているからである。平信徒たちは司祭たちのために「司祭たちが、その臨終の瞬間に至るまで、その使命と正しい姿勢を貫くことができるように」と祈らなければならない。また、平信徒たちが互いに祈り合うことも必要である。「自分たちが聖徳と、あらゆる善きことの道を歩き続けることができるように」と、しかも、「時々ではなく、常にそうあり続けることができるように」と、互いに祈り合わなければならない。おびただしい数の聖職者たちと平信徒たちが柔らかい草のようになったのは、彼ら自身にとって悲劇である。彼ら聖職者たちと平信徒たちは、この誘惑の時に、警告されることもなしに、悪霊たちに踏みつけにされている。それは、福音書の中でイエズス・キリストが指摘している通りである。それは、彼ら聖職者たちと平信徒たちが、太陽か水を欠いているからである。あるいは、太陽が彼らを焦がしているからである。このことは、この時代の平信徒たちが司祭たちによって正しい道から締め出される時に、ますます酷くなる。その時、司祭たちは、彼らに、「かつてあったことは、今日では退けられている」と言うのである。彼ら全て(司祭たちと平信徒たち)の中に、かつては大きな善徳を為す者が幾らか居たものだったが、 その者たちも善き土壌に充分に深く根付いてはいなかったが故に、今になって急に萎れてしまった。お前たちに、これを言うのは、私、ヴェルディ・ガランデューである。「司祭と平信徒たちが、堅忍のもとに彼らの道を続けることができるように」と絶え間なく祈らなければならない。特に司祭たちは、彼らが彼らの説教壇の上から、「今日において、祈ることは益々欠くべからざるものである」と告げなければならないと知らなければならない。また、「十字架の道に沿って為される堅忍こそ幸福の法である」と思い出されなければならない。何故なら、如何にして試練を耐え忍ぶか、ということを知っている者が、天国へと至る道の上にあるからである。


■6.貧窮を受け入れることは、イエズス・キリストを模倣する助けとなる
特に、「貧しい人々は、彼らは後には天国で心底から幸福になるのであるから、今は、その逆境を耐えることだけで良しとしなければならない」と教えられなければならない。たとえ、その貧しい人々が貧窮を耐えねばならないとしても、それでも尚、全体として見れば、例えば、フランスのアルスの主任司祭(ジャン=マリー・ヴィアンネ、1786~1859)、その他の偉大な聖人たちが、その生涯の正に最後まで受け入れた断食と自己犠牲からは、まだ相当な隔たりがある。貧しい人々は、天主が彼らにお与えになった多くの事に感謝すべきことを教えられなければならない。何故なら、貧窮を受け入れることは、彼らがイエズス・キリストを模倣することを大いに助け得るからである。善き天主に感謝せよ。 [「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、神が、キリスト・イエズスによってあなたがたに望まれることなのです」(1テサロニケ 5:18)]  何故なら、そのような貧窮によって、いつも働かなければならないが故に、お前たちは誘惑に屈伏し得る機会を持つことが一層少なくなっている。多くの子供を授けられ、それを教育し養うため、多くの為すべき事を抱えている人々は、天主に日に三度感謝しなければならない。何故なら、彼らは、そのような環境にあって、この世の快楽から逃れるための、あらゆる機会を持っているからであり、また、彼らの居場所を確保している天の王国のために自分自身をより良く準備するための、あらゆる機会を手にしている。ある家族に四番目の子供が生まれる時、周囲の人々にとっても、その家族自身にとっても、一つの騒ぎ(養育費等の金銭問題)が持ち上がる。その時、何が為されるべきであろうか?  二番目の子供、三番目の子供において真実である事は、四番目の子供においても真実である。しかし、不幸なことに、司祭たちは、これらの嘆きを前にして寛容の精神に入って行き、信者たちが妊娠を避けるために女性がピルを使うことに同意する。信者たちは、そのようにすることによって自分たちに及ぼす霊的な危険について分かっていない。何故なら、ピルを使用すること=それは既に重大な過ちである=と、堕胎をすること=更に重大な過ちである=との間には、僅かな差しかないからである。堕胎は殺人である。それ故、重大な罪である。しかし、我々の時代においては、人々は、過去何世紀にもわたって [ずっと以前から] 信じられてきたことを真理として受け入れたがらない。それ故、たとえ、神が今直ぐにはオナニズムを罰せられないとしても、かつて彼がオナンの罪を罰し給うたように、我らの神は、産児制限の様々な手段を、どんなものであれ、等しく重大なものとして、お考えである。[「オナンの罪」とは、「するとユダは、オナンにむかって、『その兄よめのところにはいって、かの女に義弟としてのつとめを果して、兄のために子孫をのこしなさい』といったが、オナンは、生まれる子が自分の子とならないのを知って、兄嫁のところにはいるたびごとに、兄のために子孫をのこさないように、地にながすのであった。彼のこのやりかたは、主の眼前にきらわれることだったので、主は彼を死なされた」(創世記 38:8-10)を指す]   神が堕胎のことを、どうお考えか、少しは想像してみよ! 何故なら、これらの悪行は、神の御意にある救いの計画とは正反対だからである。それ故、私、ヴェルディ・ガランデューは、司教たち・枢機卿たち・司祭たち・全ての人々に向けて、次のように語らねばならない。彼ら聖職者は、説教壇の上から語らねばならない。どのようにか? こうである──「主の道に従え。何故ならば、そこには自己放棄と自己犠牲があり、それ故にこそ、恩寵を受けることも可能だからである」 自己犠牲も自己放棄もないところには、恩寵を受ける可能性もない。 そして、自己放棄も自己犠牲もないところでは、たとえ、どんなに小さな裂け目であっても、我々悪霊の狡猾さにかかれば、我々が直ぐにでも支配を握るための通り道となる。この小さな裂け目は、我々が家全体をひっくり返すために充分なものである。これが、この時代のお前たちの全ての教会に起こっている。 [悪霊は、教会と信者一人一人にある小さな裂け目から攻撃してくる]  教会の信者に再び使命を与えることが必要である。そして、今まで我々が語ってきたことを、聖歌隊席 [「内陣」「天使の階級」という意味もある] からではなく、説教壇から 、再び信者に説教することが必要である。信者が「高みにある祭壇に上がる」のではなく「視界の下にある祭壇に下がる」ことを余儀なくさせられる幾つかの教会さえある。祭壇が低い位置にある教会では、直ぐに信者の気が散らされる。何故なら、そこでは信者は上の方を見ているのではなく、下の方に充満している人の気を散らさせる物事、時には遥か下の方、正に我々がいる所(地獄)に充満している物事を見ているからである。今まで述べてきた伝統的な使命が、聖職者たちによって再び実践され始めなければならない。何故なら、聖徳への道が、そのように実践される時、そのようにした聖職者や信者には恩寵のシャワーが与えられるからである。天主の掟に従って生きる司祭の持つ影響力は甚大である。それは、アルスの主任司祭の生涯に見ることができる。彼が霊魂たちを救ったのは、旅行で気晴らしをするために現実から逃げること、美味しい食事を取ること、あらゆる種類の会議に出席することによってではなく、ただ彼の部屋に留まること、至聖なる秘跡の御前に留まることによって、霊魂たちを救った。そして、また、そのようにすることは、私、ヴェルディ・ガランデュー自身にとっても必要なことであった。しかし、私は、そのようにする代わりに、自分の教区に対して為すべきであった自分の司祭としての務めを怠った。そして、そのようにして、霊魂たちを地獄の道の上に導いた。この我々の時代は、何千何万というアルスの主任司祭を必要としている。しかし、もし、そのような者が、もはや存在していないのであれば、その時は、この人物、アルスの主任司祭が、倣うべき模範として考えられなければならない。


■7.愛する者たちを試練の中に置く神
これは、私、ヴェルディ・ガランデューが、言うことを余儀なくされるところのものである。司祭は女性との習慣的な接触を避けなければならない。そして、全ての聖務日課を唱えなければならない。「もし、司祭が聖務日課を唱えないならば、司祭は誘惑に屈する大きな危険の中にある」というのは事実である。他方、「もし、司祭が聖務日課を唱えるならば、至高なる天主ご自身が、司祭が誘惑を克服するのを助ける」であろう。私がこれを言うのは、司祭というものは、事実、これ [女性との習慣的な接触] に関係した大きな誘惑を受けるからである。しかしながら、「たとえ司祭が罪に堕ちている時であっても、彼が聖務日課を唱えるならば、至高なる天主は彼に、彼の聖職を続けるためのチャンスと、彼が信者たちに利益を運ぶ道具であり続けるチャンスをお与えになる」ということに注目すべきである。大きな困難の中にある全ての人々に、「天主への望みのうちに堅忍しなければならない」と告げなければならない。何故なら、天主は、ご自分の愛する者たちを試練の中に置くことをお好みになるからである。それは、人々が苦しみと試練に対するために金銭の力を当てにする時代においては尚更そうである [ジャン・マーティはここで使われているフランス語の「se parer」という言葉を「何であれ何らかの危険に対して予防措置を取ること」(ラルース辞典)と説明している] 。 次のことは、説教壇の上からたびたび繰り返されなければならない。即ち、「人々は彼らの試練と闘うことができ、耐え抜くことができるためには、何よりも先ず第一に、彼らの信頼を天主にこそ置かなければならない」と。 もし、司祭が人々に、罪についての理解を与えないことによって、あるいは、「神は慈悲深く、人々に悔い改めと償いをすることを求めもせずに、あらゆるものを非常に簡単にお許しになる」といったような明るい見通しを彼らの前に置くことによって、安易な道を促進するなら、聖霊はどのように霊魂たちの中に入ることができるであろうか。全ての屋根の上から、「十字架の道こそが天から要求されている」と叫ばれなければならない。人が隣人の救われのためにできる最良の援助は、自らがイエズス・キリストの十字架の後を追うことによってもたらされる。何故なら、善き天主はそれらの犠牲を利用なさるからである。善き天主は、その隣人の救われの助けと成すべく、その犠牲を利用なさる。何故なら、もし人が天主の掟の第一のものを実行すれば、それは天主の掟の第二のもの、即ち隣人愛の掟をも実行することになるからである。人々に対面して捧げられるミサ、天主に向かってではなく人々に向かって呼びかけているかのようなミサは、本当に天主に関した愛の実践なのであろうか? 司祭たちは、ミサというものが比類のない形で行なわれる天主への礼拝行為であり、主の御いけにえを通して天主に栄光を帰する行為であるということを、人々が悟る形で、彼らのミサを捧げなければならない。他の全てのことは、ただ補完的、捕足的なだけである。日々の生活にまつわる、あれこれや、隣人愛について、あまりにも多く説教する司祭たちは、神への愛こそが真の隣人愛に繋がり、真の慈善に繋がることを忘れている。この自己放棄と償いの実践に基づく行動は、もし人々がそれに取りかかるならば、何千何万という霊魂たちに救われをもたらす。ところが、現状は、この正反対で、特権的な霊魂たちが幾度となく、お前たちに想起させてきたように、極めて多くの霊魂たちが、降る雪のように地獄に堕ちている。もし、司教たちや司祭たちが、このように壊滅的な現状を維持することに固執するならば、その時、何千何万という教会が、もはや教会であることをやめるだろう。このようなことは、今、既に始まっている。今日行なわれている説教は、何千何万という信者たちに、天主への奉仕を、ただ上辺だけのものにしておく言い訳を与えるものとなっている。その結果、それらの説教は死の道具となっている。それらの説教が天国に直結しておらず、人々に天国について考えさせることをしないからである。これら全ては、司祭たちが彼ら自身、いい加減な生き方をして、もはや天主のための愛の第一の掟を生きていないからである。そのような者は、内側に虫を抱えたリンゴのようなものである。彼らはもはや、彼らがそうあるべきような道案内ではない。司教たち・司祭たち・修道院長たちが、もし、天主のお定めになった法に従って生きていたなら、お前たちは、お前たちが今日、ローマの中に見ている、この大破局を持つことはなかった。もし、物事がそのようであったなら、天主は、教皇パウロ6世(在位:1963年6月21日~1978年8月6日、 今回の祓魔式1978年4月5日)以外の誰かが、彼の名を使って統治することを、お許しにはならなかったであろう。この事態(偽教皇による統治)は、ヴァチカン市国(ローマ・カトリック教会の国家)から外の世界に広がって行ったものだが、秘密結社フリーメイソンの仕事である。しかし、もし、世界の至る所で百万人の信者たちが、祈り且つ犠牲を捧げる宗教的実践の中に一致して働いていたならば、そして同時に、この状況の中から我々悪霊を追い払って下さるようにと、天主に懇願していたならば、天主は、それを防ぎ、この破局が起こることをお許しにはならなかったであろう。もし、祈りの十字軍があったならば、ローマは今でもローマであったことだろう。私は、このことをも言わなければならない。私は、今日の何千何万という司祭たちに向けて、「女性は、彼ら司祭たちにとって転落の機会となり得る」「もし、彼ら司祭たちが自分自身を祈りでもって武装させることができるならば、そうはならないであろう」と言わねばならない。もし、司祭たちが彼らの聖務日課を再開でき、彼ら自身を教会の博士たち──彼らは祈ることの結果として人間についての偉大な知識を得たのであるが──の教えによって養うことができるならば、彼らにとって物事は違ったふうに進展するだろう。しかし、彼ら司祭たちがそうしなければ、彼らは、今日の何千何万という大罪の中に生きている司祭たちの中の一員であるだろう。何千もの司祭たちが、聖寵の状態の外に生きている。彼らは、もはや聖務日課を祈っていない。ちょうど、かつての私自身がそうであったようにである。もし、私が、せめて自分の守護天使 に「私を助けて下さるように」と祈り求めていたならば...。しかし、私は、そうしなかった。私は、自分自身のために利用できる、あらゆる手段を拒絶した。[守護天使: 天使からの助力は、それを利用するかどうかは私たちの自由裁量に任された形で神によって永久的に置かれたが、もし私たちの闘いが、原罪で損なわれた哀れな人性が持つ罪の傾向に対抗する日々の闘い、私たちの情欲によって絶えず混乱状態にある日々の闘いの範囲を越えたところで、「血肉を持った存在」ではなく、「支配の霊や権威の霊」に対するもの、いわば、「この闇の世界の権力者たち」に対するものであり、「天の者たちの間にいる、邪悪な霊的存在」に対してのもの(エフェソ 6:12)であるならば、天使の助力を得ることは極めて重要である。]   そして、そのような生き方に従いつつ、私は、若者たちを教えることを全くもって怠った。しかし、それでも、今日の司祭たちや若者たちに起こっていることと比べれば、私は、ほとんど悪くはなかった。この警告は、滅びへの途上にある司祭たちの光とならなければならない。以前は、まだ目覚めていた多くの司祭たちがいた。それは、彼らが自己を浄めていたからである。しかし、今日では、司祭たちは広い道を受け入れており、それと同時に滅びへとつながる道を選んでしまっている。もし、彼らのために捧げられる祈りがないならば、もし、悔い改めた霊魂たちが彼らを護るために、彼らのために恩寵を獲ち取るために立ち上がることがないならば、彼らは滅ぶ。これは、にわかには信じられないような悲劇ではある。しかし、私は、事実そうあるものを、その通りに言う他はない。我々の神が「パパ」[Sugar Daddy:〔俗語〕若い愛人の女性に気前よく金品を貢ぐ金持ちの壮年男、おじさま] と似た神ではないが故に、事は一層悲劇的である。神は掟を作った。それらの掟は、永遠である。人々は、それに従わなければならない。そして、信者たちは変化を提唱する聖職者に従ってはならない。何故なら、それは天主の掟に一致した聖職者ではないからであり、しかし、天主と天主の掟は、永遠に有効であるからである。天主は、理由なくして、福音書の中で「片目で天国に入る方が両目を持ったまま地獄に堕ちるよりはましである」と注意を呼び起こしておられるわけではない。 [もし目があなたに罪を犯させるならば、それを抜き取りなさい。片目で神の国に入るほうが、両眼がそろったままで地獄の中に投げ入れられるよりはましである。地獄にはウジがつきず、火も消えることがない。(マルコ 9:47-48)]  我々の時代の司祭たちが、ますます迷うようになっているのは、全くもって彼らの目のせいである。昨今では、司祭たちは彼らの視線を充分には抑制していない。彼らは、彼らの内的生活にとって邪魔物となるイメージを、あまりに多く己が心の内に受け入れている。それは、まずテレビから始まる。次に、非常に多くの婦人たちを抱えた教区での教会活動において、それは継続する。以前は、教会の中に入った女性たちは自分の頭を覆っていた。しかし、この時代においては、もはや、そんなことはされていない。そんな時に何故、祭壇を人々の方に向けるのか? 私、ヴェルディ・ガランデューは、かつて人々に背を向けてミサを立てていた。しかし、それでも、私は、女性たちに誘惑された。今日の司祭たちは、ミサを立てる時、人々の方に向かうから、以前より一層大きな誘惑を受ける。


■8.自己放棄の中で自己犠牲を果たし、神への愛を貫いた聖人たち
天主は、理由なくして、福音書の中で、「(天国に)片目、片手、片足で入る方が、両目、両手、両足を持ったままで地獄の恐ろしい苦しみの中に入るよりはましである」と言ったわけではない。司祭たちは、「福音書は、今日では、その価値を失った」「自分たちは、福音書を自分たちの好みに合わせて変えることができる」などと信じることができるものであろうか? 司祭たちは、「主イエズスは、当時の、その場にいた人々にだけ彼のメッセージを与えたのだ」などと信じることができるものだろうか? 確かに、主の時代の人々は、長いローブを着ており、現代人からすれば、時代遅れの古い風俗習慣に見えるが、この古い風俗習慣の方が誘惑は少ない。現代の司祭たちの心には、「主は、我々の時代の人々に向けてこそ一層お語りになっておられたのかも知れない」ということが思い浮かばない。今日の時代では、技術的な手段により破滅は、ますます広がりつつあるにもかかわらず、そして、誰も起こっていることを止めることができないでいるにもかかわらずである。誘惑は、努力の雨によっては、もはや消すことのできない燃える破滅の炉である。誘惑は、あちらこちらで奮闘している、幾らかの司祭たちも、屈伏を感じさせられるほどのものである。天主は、常に御自分自身を人間各人の自由意志にお委ねになっておられる。その一方で、聖書がそこにある。特に福音書がそこにある。また、天主のお定めになった御命令を絶えず呼び起こさせる、あらゆるメッセージが、そこにある。それ故、もし、人々がそれに聞くことを拒否するならば、できることは何もない。特に人々が福音を自分好みに加工して楽しんでいるならば、尚更そうである。これら全ての慈悲が風の中に捨てられるなら、天は、それについて何ができるだろうか? もし、聖なる書物が、もはや読まれることがないなら、あるいは、聖人たちについての書物が、もはや読まれることがないなら、──たとえば、カタリナ・エンメリックの生涯、アルスの聖なる主任司祭の生涯、我々の時代に偉大な模範を与えたパードレ・ピオの生涯さえ読まれないなら──、天主の恩寵に何ができるというのか。[①アンナ・カタリナ・エンメリック(1774~1824)は、ドイツの聖アウグスチノ修道会の修道女で、幻視者である。2004年、教皇ヨハネ・パウロ2世に列福された。 イエスの受難、聖母マリアの晩年、終末の時代の教会の様子などを幻視した。彼女の幻視に基づくイエスの最期は、米国のメル・ギブソン監督の映画『パッション』となって2004年に公開された。 ②ジャン=マリー・ヴィアンネ(1786~1859)というフランスのアルス教区司祭は、「アルスの聖なる主任司祭」と呼ばれた。フランス革命(1789)で徹底的に破壊されたカトリック教会の信仰を立て直すことに努め、35年間、悪魔に攻撃され続けた。 ③パードレ・ピオ神父(1887~1968)は、イタリア生まれのカプチン会の司祭で、聖痕の奇跡・病者の治癒・予言を現した。]  これらの聖人たちは、個別の愛を通してでありながら、しかし同じ自己放棄の中で、同じ自己犠牲に対する、同じ愛を心に持っていた。これらの聖人たちの償いは、いと高き御方が受け入れるに値するものであった。彼らの場合と全く同様に、天主は、霊魂たちの回心のために捧げられる更に多くの罪の償い及び自己犠牲を受け入れる準備があるであろう。善き天主は、ご自分に向かって次のように言うことのできる霊魂をしばしば愛される──「私は、あなたが私に送られる苦しみを受け入れます。この人の回心のため、あの人の回心のために、私に、それらの苦しみを耐えることのできる恵みを与えて下さい」。 天主が苦しみを送られた時、そのように言わねばならないのであるが、しかし、概してクリスチャンたちは、それらの苦しみを恐怖から力一杯に拒絶する。人は、あまりにしばしば苦しみを避けるためにベストを尽す。しかし、以上に述べて来たような見方に従って物事に対して生きること、そのことを信者たちに説教することは、司祭たちの責任でなければならない。苦しみを拒絶して、それを取り除くことだけを考える者たちは全て、天主の第一の掟に従って生きていない。天主の御意志に従う最上の方法は、次のように言うことである──「私の望みではなく、あなたの望みが行なわれますように」[苦しみは神からの偉大な贈り物であり、偉大な恵みです... それは、天使たちがあなたを羨む唯一のものなのです。もし天使たちが何かを羨むことができるならの話ですが] 。 Mechtilde Thaller(1868~1919) に、彼女の守護天使が言った言葉。 -『The Angels』より。 自分自身をキリストの苦悩と結び付けることは、神の愛に自分の栄光を帰する最良の方法である。もし自分の苦しみを神の御意を受け入れることと結び付けるならば、それは非常に大きな価値を持つ [私はその時、自分に勇気というものが如何に欠けていたか、苦しみが終わることを望んだことが如何に間違ったことであったかを理解した-私は、イエズスがどれほど口では言い表わせないほどの熱情をもって苦しむことをお望みになったかを理解した。一つの霊魂が神の御意に従って忍耐強く苦しむ時、どれほど神の愛と恵みの中に住み始めるようになるかを理解した」(M. Thaller - 上と同じ書物から)] 。


■9.神に関する事柄は、祈りによってしか明確にならない
たとえ、ある苦しみが耐え難いものであったとしても、それをキリストの苦しみと結び付けるならば、それは自分の清めのため、他者の罪の償いのため、その両方の手段となる。私は結婚生活にしばしば特有な苦しみについて考えている。それらの苦しみは、夫婦である彼らが心に抱く「自分はおそらくある日、彼(彼女)と別れることができる」という望みのもとに、如何に拒絶されていることであろうか。しかし、その苦しみが生まれた限りは、それは大いなる償いを達成する機会となり得る。何千何万という人々が、他の人々のことを考えることによって苦しむことができる。与えられたこれらの苦しみは、無駄とはならない。これら全てのことは、今日のカトリック教会において完全に忘れ去られている。このようなことが説教壇から語られることは非常に稀であり、これはあらゆるところで同様である。イエズス・キリストを模倣すること、隣人の救われに配慮することは、重要な事柄である。他の事柄は第二義的であって、「己れの如く隣人を愛せよ」の一文に要約される。[「あなたに近いものを、自分と同じく愛せよ」。この掟はまず旧約聖書の中で、神御自身がモーゼを通してお命じになった(レビ記 19-18)。新約聖書の中で再び我らの主によって命ぜられた。後に、福音史家や使徒たちその他によって再び引用され、伝えられ、語られた。]  もし今、キリストがお前たちの只中に帰って来たならば、キリストのことを再び革命論者のように、狂人のように見なす、何千何万という人々がいるであろう。今日、キリストに従う運命にある者たちは全て、他の人々から愚か者として見られている。人々は自分自身を高めるどころか谷底に降りようとしている。そしてあまりにも多くの司祭たちが、もはやこれらの真理を説教しようとしない。何故なら、それらの真理は彼らにとって鮮明な咎めとなるからである。何故なら、彼らはもうこれらの真理に従って生きてはいないからである。もし彼らが彼ら自身、善徳を実践できるならば、彼らは人々から、もっと善徳を求めることができるであろう。人は「自分で欲しくないものを、他の人は欲しがるだろう」とは考えない。これが、今日のお前たちがカトリック教会の中に持っている、まことに悲劇的な状況である。このことは、司祭たちからローマの枢機卿たちに至るまで同様である。しかし、もし司祭たちがキリストや使徒たちのように生きることができるならば、彼らは霊魂たちを極めてよく照らされた道、極めて安全な道に導くことができるであろう。洗者聖ヨハネやイエズスが彼らの時代に説教したように、現代の司祭たちは回心し、償いをしなければならない。今日の極めて多くの司祭たちは、彼ら自身が悪の方向に進んでしまっているために、努力と善に対して戦いを挑んでいる。彼らは既に深い地獄の穴に通じる幅の広いハイウェイの上にいる。これが、司祭たちに面と向かって言わなければならないことだ。しかし、それは心理学的な手法を尊重したやり方で言わねばならない。また、これは、「ただ彼ら司祭たちの利益のために言われる」という印象を与えるやり方で言わねばならない。主眼とすべきは、「彼ら司祭たちは悪い」と指摘することではなく、「彼ら司祭たちが(本来いなければならない地点まで)戻ろうと望むようになるまで心理学 [人の心の法則] を応用する」ということである。彼ら司祭たちが祈ることをやめているか、そうでないかを、極めて慎重に神経を使いつつ、彼らに問わなければならない。そして、「神に関する事柄は、救霊への配慮と全く同様に、祈りによってしか明確にならない」という認識を彼らにもたらすべきである。司祭がもっと批評を受け入れられるタイプの人だった場合、人は彼らにもう少し忌憚なく話すことができ、おそらく神の御助けにより、彼らを再び正しい場所に戻すことができるだろう。しかし、人の性質は、人それぞれに違っている。必要なのは、パードレ・ピオ神父が、かつて用いていたと同じ手法で、目の前にいる人に応じた対応の仕方をすることである。司祭たちの何人かは無知の犠牲者である。しかし大半は、自分たちが何の不足の状態に陥ったのかを非常によく知っている。彼らに彼らの職務を思い起こさせることが、彼らを天主への一直線の道の上に立ち返らせる方法だろう。そして、もし彼らが自己放棄の道に入ることができたならば 、[「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい」(マルコ 8-34)] その時、彼らの全てが、例外なく全てが、彼らが世話しなければならない霊魂たちをより良く導くことができる。私がこれらの事柄について沈黙を守っていたいというのは、全くもってその通りである。しかし、いと高き御方〔上を指差す〕が私に物事を明かし、回想するようにとお命じになっている場合は、私が地獄の住人であるという事実にもかかわらず、例外である。私は、自分が地獄に堕ちることになろうとは、全く考えていなかった。もし、私が地上に再び戻ることができたなら、その時の私は、私の群れを護るためにどれほどの苦しみを耐え忍ぶことだろうか!? 私は私の群れのために殉教さえ受け入れ、しかも、それを一度と言わず受け入れるだろう。もしそれが天の方々〔上を指差す〕のご意志であるならば、私はそれを自発的に且つ最大の敬虔をもって受け入れるだろう。私にとっての主要なゴールは、まず何よりも、第一の掟を実行することだろう。そして、それを守る方法を探すこと、自分をその掟に相応しいものとすることだろう。私は善き天主に、「どうか私に関する御旨をお示し下さい」と懇願するであろう。「選択に迷った時には最も大変なものを選べ」という原則がある [自己放棄と自己犠牲の道は容易なものではない] 。 司祭たちと信徒たちは、この原則について何か考えているだろうか? 確かに、それは一つの諺に過ぎない。天主がそれを言ったわけではない。しかし、それはこの状況に全く相応しいものである。何千もの司祭たちが安易な道を選んでいるために破滅への途上にある。そう、彼らは最も抵抗の少ない道を選んでいる。この行動は、天主の目に喜ばしいものではない。使徒聖パウロを念頭に置きつつ、幾つかの考え得る解決策のそれぞれを検討し、その中から最良のものを選ぶ術を知ることが必要である。私以前に、悪魔ベルゼブブ・裏切り者ユダ・他の悪霊たちが(別の祓魔式の時に)既に言ったように、まずもって聖霊に祈ることが重要である。あらゆる者が、自分に与えられた真の使命を悟るよう努めなければならない。何故なら、天主は各人について明確なご計画を持っておられるからである。司祭は、その司祭としての地位によって既に天主の御前に高い者とされているが故に、人々の前に自分自身をも、偉大な権威と共に示さなければならない。彼は、人々を自分のもとに引き寄せなければならない。そして、彼が語っている道に彼自身が真に従っているという理由により、人々の中で彼自身を尊敬に値する者としなければならない。それが彼の職務に相応しいことである。信者たちは、彼ら司祭たちを見る前に、自分たちに模範を与える誰かを見ることが必要である。そして、自分たちを破滅に導く者たちや、司祭であるにもかかわらず破滅への道を生きている者たちを見てはならない。司祭と平信徒との間には、大きな距離がなければならない。いと高き御方は、常にそうあるようにと望んでおられる。何故ならば、司祭は恩寵の宝庫だからである。司祭は人々に、教会における大祭司はイエズス・キリストご自身であることに気づかせなければならない。そして、この理由によって、人々の尊敬を自分に引き寄せなければならない。司祭は、自分の全生涯を通して、創造主がどれほど偉大な尊厳をお示しになっているかを、捲まず撓まず思い起こさなければならない。そして司祭は、我々にはそれを崇拝する義務があり、その命ずるところを生きる義務があることを信じなければならない。これらのことは、人の人生の最も初期の頃から教えられるべきことである。子供たちは、たとえ非常に幼い者でも、次のような仕方で教会の中に導かれるべきである。即ち、御聖櫃の前を横切る時には、最も深い信心をもって片膝をつく習慣を持つべきである。子供たちは、その至聖なる秘跡を崇敬するために、次のような祈りを唱えることによって助けられなければならない。「祭壇の至聖なる秘跡は、称えられ、崇められますように」。その時、子供たちは、「自分が天の御稜威といと高き所におられる至聖なる三位一体の偉大さを賛美することを助けて頂けるように」と、聖なる天使たちに祈ることをも勧められなければならない。もし、教会が、至聖なる三位一体に目を上げることが、もはやできないならば、何のためにそこに建っているのか?  もし教会というものが、天主というものは、あらゆる意味で人間を超えたものであると打ち出すこと、至聖なる三位一体の崇高さを指差すこと、天の全能の神をお喜ばせすることが絶対に重要なことであることを思い出させることをしないならば、何のためにそこに建っているのか? もし司祭たちがそのようなことをしないとしたら、その時、子供の両親たちは、少なくとも自分たちの子供たちに関しては、そのようにしなければならない。人は「天主とは崇拝されなければならない存在である」と知らしめることを決してやめてはならない。たとえ自分の周り全ての人たちの霊魂が、非常に悪く、非常に悲惨な状態であったとしても、である。


■10.困難と苦しみから逃げず、神に感謝する
次のことが知らされなければならない。即ち、苦しみが来た時、天主がその困難から私たちを救い上げる勝利の方法を教えて下さることに感謝することが必要である。我々は、天主が我々を善くするため、我々を善徳の道に導くためにお送りになった苦しみに対して、膝を折って天主に感謝しなければならない。困難と苦しみから逃げる人たちは、必然的に善徳を失う。過去の時代においては、司祭という職務の極致を極めた者たちが常にいた。しかし我々の時代においても、同じような生き方をしている司祭たちが何人かはいる。彼らは非常に謙遜に生きている。彼らは、心の中に主の平和を持っているが故に、地上のあらゆるものを凌駕している。「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の霊魂を失うことになるならば、何の益があるだろうか?」 [「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか。また、人は自分の命を買いもどすために、何を支払えばいいのか」(マタイ 16:26)] 。 私、ヴェルディ・ガランデューは、「我々の時代は、この主題に関して非常に悪い理解しか持っていない」と言わずにはいられない。その上、贅沢と、この世の快楽のうちに生活している人々は、彼らの霊魂を失う大きな危険のうちにある。フリーメーソン風の思いやりは腐った臭いがするものである。それは真の隣人愛でなく、見せかけから来ているものであるが故に、非常に多くの人々にとって霊魂の滅びとなる。もし、彼ら司祭たちが、自分たちが信者たちをどのような破滅の中に沈ませているかを知ったならば、そのような語り方からは急いで離れ去り、全く違った仕方で話すようになるであろう。人は他者を物質的にも助けなければならないということは明らかな真理である。特に、その人々が非常に惨めな状態に苦しんでいれば尚更である。しかしながら、それでも、それは主要なことではない。主要なことは、護らなければならない教義に対する信仰を、そのまま保持することである。そして、自分の霊魂を売らないことである。隣人愛を実践するということは、本来、隣人を天主へ向かう真っ直ぐの道に案内することである。ああ!? 如何に多くの司祭たちが、彼らの司教たちや枢機卿たちの指示によって、隣人愛を実践する間違った方法 [悪霊ヴェルディ・ガランデューが初めの方で述べた間違った方法] を教会に押し付けてしまったことだろう!  彼らは、そのようにすることによって、この善徳の形状を変えてしまった。しかしそれは、天主がそうであるようにとお定めになったものとは全く違う。何故なら、真の隣人愛は、隣人の霊魂への配慮なしには決して生じないからである。また、この真理を伝えることによって、たとえ人が苦しんでも、この真理を人に示すことは、やはり隣人愛の実践になるからである。後には、その人も、それは全く正しい処方であったと理解する (もし、その人が光を受け入れれば、ではあるが) ようになるであろう。司祭は、説教壇の高みから、彼自身の言葉によって、指揮杖と極めて断固たる言葉を使わなければならない。何故なら、正義は永遠に存在するからである。そして何故なら、彼らがもはやそれを信じず、それ故それについて語ることが決してなかったとしても、地獄はなお存在するからである。彼らは、天国についてさえ、それが最高の現実であるとはもはや信じていない。もし、彼らがそれを信じるならば、彼らが天国に導かなければならない人々、何千という人々を、誤りの中には導かないことだろう。今日、我々は、どのような司祭たちに直面しているだろうか? 私自身は、自分が地上にあった時、今日の彼らほど低劣な話し方はしなかった。彼らは滅びに向かって走っている。そして地獄では、彼らの場所が既に準備されているのだ。〔悪霊は、この最後の言葉を大声で言う〕 しかし、私が今言っていることは、枢機卿たち、司教たち、司祭たち、平信徒たちに、全く等しく向けられている。もし、それら全ての人々が、彼らが巻き込まれている混沌とした状況を認識したなら、彼らは千回も、いや、千の千倍回も、「mea culpa」(我が過ちなり)を繰り返すことだろう。その時、彼らは、自分の首筋を掴んでは、自分の霊魂を喰い散らかしている、それらの虫たちを引き剥がすことであろう。彼らは、その虫たちが至る所に広がらないように、それらを引き剥がすのをやめないであろう。彼らは、霊魂たちの中で、そのように酷い破壊行為をしている、それら寄生虫たちを駆除するために、赤熱したペンチを使うべきである。そして即座に、彼らは愛の第一の掟を実践すべきである。そして、その後に、然るべき隣人愛を実践すべきである。真の愛は、ただ才能によってのみ証拠づけられるものではない。何故なら、同じこれらの才能によって、人々は、なお隣人を地獄への道の上に置いておくこともできるからである。これが、私が言うことを余儀なくされたことであり、また、私がこのように長い間、自分の名を明かすことを拒否して来た理由を説明するところのものである。天の方々〔上を指差す〕は、私にこれを語ることを強いた。それは、私が私自身、その運命を生きて来たからである。即ち、私は私自身、私がそうすべきであったようには、私の司祭職を遂行しなかったからである。天主の十戒における第6戒 [「汝、姦淫するなかれ」] について、私は、「これが贅沢の罪 [贅沢を好む精神は、怠惰な精神、慎みの欠如、放縦の精神でもある。] と並んで、多くの司祭たちにとって滅びの道となった」と言わねばならない。もし司祭たちが、この巨大な悲劇を認識することができたなら、その時、自分の血の最後の一滴に至るまで、自分自身を生け贄として捧げるであろう。その時、彼らは、今まで起きていた、あらゆることに巨大な悲しみを感じ、自分の道を全くゼロからやり直すことであろう。そして、「自分が真の道を再び見出すことができるよう助けてくれるように」と、聖人たちと天使たちに祈るであろう。何故なら、永遠の地獄において、その火は絶えることなく、うじ虫どもは、お前たちの霊魂を永遠に喰い散らかすからである。地獄における、この巨大な苦しみ、この恐ろしい悲劇は、永遠に続く。私、ヴェルディ・ガランデューは、これらのことを言うようにと強いられている。



公開2018(平成30)年3月23日(金)22:20
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